制服の女子高生は書くも尚、高揚感を喚起させられる性的図像、もしくは記号であるだろうか?その疑問には制服を着た女子高生の姿に性的対象を感じ、欲情するように仕向る文化装置――意識・無意識に関わらず、我々が日頃接している言説やイメージ、図像その他の集合体――の影響下にあるという意見が考えられる。
一方、オーディエンス(この場合は性的対象として単的な視線を送る男の側)による、制服の女子高生という図像の多様な読みかえも考えられる。最早、「制服の女子高生に興奮する」と感情・観念論だけを述べれば済む<状況 >ではない。どのような社会的要素や言説、そして受けての享受態度が性と結び付いた制服姿の女子高生という表象を解釈するかを考えるべきだ。
女子高生の心理や苛立ちをこと細やかに拾うようなことは90年代に宮台センセが行ってきた。むしろ記号や図像として消費される制服の女子高生という性的文化が問題であり着目点である。
制服の意味を簡単に述べるなら、それは体制や権力への従順であり、個を埋没させる要請に対する服従でもある。また、澁澤龍彦は制服が表象する個の埋没にこそ制服のエロティシズムがあると述べる。
青少年、特に女子には<性>との関わりを遠く持つことが美徳とされ――少なくとも、今もなお建前の美徳が根強く残るからこそ、青少年の性に関するモラルパニックはセンセーションを呼ぶ。と同時に、それらに関する言説は利潤を産み出すネタにもなりうる。
なるほど、つまりは、権力者たちによって性から遠ざけられることを強いられた女子高生は清純であるというメッセージを有している。テレビ中継で甲子園の応援席が映った際に我々の目に飛込む女子高生は男子と同様に<過剰な程に>健全だ。
しかるに、受け手側の解釈の多様性を支持する立場としては、清純というメッセージを字面のまま解釈するオーディエンスよりも、多用な読み変えや誤読を起こすオーディエンスを想定する。そして、その多様性の一つとして制服と性的要素が強固に結びついた女子高生像が現れる。制服に重点をおくポルノグラフは誤読や読み変えに依存するスキマ産業であるともいえる。そしてスキマ産業だからこそエロチカにはなりえない、などとも考える。例えば、良い子の諸君は電車の中吊り広告で進学塾、あの偏差値産業を支える劣兵の広告を目にする機会が頻繁にあると思う。その広告の多くには、社会的に望ましいとされる女子高生像が記されていることもご存じだろう。さて、その望ましい女子高生像を、良い子の諸君ならばどのように読み解くか? ということだ。
スポンサーサイト
- 2006/08/24(木) 00:36:44|
- 未分類
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0