地元で飲んだくれ後、外で晩御飯。多分0時前後。皆の衆(典型的な都市型核家族につき、親二人・子一人)が身勝手に生活する我が家族の慣例である。しかし、クソったれな幻想や伝統的な性役割分業こそが真理であると縛られた右翼どもに言わせれば<崩壊家庭>である。実家のクセに、一度も家族と顔を合わせないで一日を終えることもしばしばある点などが。
とりあえず、世間的な道徳とか常識といったものからすれば崩壊というレッテルを貼られるうち家族の、唯一的な団欒の場である晩御飯を敢行してきた。下手な仮面家族よりは、よっぽど団欒が進んでいると思う。子供自身が、両親が個別に起こしている事業に首を突っ込んでいる(参加させられている)とていう面からも、両親が何をしている・してきているのかという点を、0歳の頃から見せられてきた身でもあるし。
それでもなお、我が家族が崩壊しているという夢想者には、貴様が思い描く家族像こそが、偽善と欺瞞、そして家族同士の真撃なる対話を行うことを怠慢としている<仮面家族>であると罵倒してやろう。貴様の家族に、子供と母親と父親が<家業>や政治経済、そして、昨今故意に強調され続けている感もある少年犯罪について、三者三様の意見をぶけられるのか? などとと問いてやろう。
その問いにイエスと答えられず、尚も我が家庭が崩壊しているというのなら、貴様は憂いを持つ愛国者か優秀な偽善者にすぎない。我が家庭の団欒や飯は普段から日付を跨ぐことが多い。特に、教育機関を経営するマミィの事業は、時期によって深夜まで設営準備(マミィと俺)であることもしばしば。そのために、晩御飯という名の団欒が午前二時とかになることも多い。会場は、いつもお世話になっている地元の庄○。去年の大晦日も今年の三が日も開いていたので、そこで飯を食っていた気がするな。うちの家庭は両親が多忙&ほとんど家にいないので、誰も飯を作らないから飯の場が外に向かうのだ(それでも食材や料理の健康面は重視している)。ていうか、基本毎日通っている気もする罠。
とりあえず、ボクは飲んだくれだから、教育現場の指揮官である――それも、ワタスを懐妊しながらも最前線で戦いつつ、出産後もハイハイをしないうちに籠に放り込み、教育現場の最前線に連れて行きまくったマミィと語りまくったよ。特に教育現場における保護者側の意見――その多くは、教育組織内でどの位置にある先生と親しいか、もしくはどのような派閥に属するかで保護者の意見は大きく異なってくるという点を留意しながら、保護者の意見というものを如何に読み解くかとか云々した。つまるところはリテラシーですよ。
教育ですら、やはりビジネス的な要素は拭えないのです。教育の領域こそは、絶対的な聖域とか思ってる輩は、ろくな(私立学校の)教育者にはならないなどと、教育に対する<お布施>で食わせて頂く人間は思う。うちの大黒柱はマミィだしな('A`)。少し下世話なことを申せば、教育の経済的面を無視しながら、教育が如何に神聖であり、素晴らしいものかを云々する輩は、ハッキリ言って教育の「教」の字しか理解していない輩と言って良い。
教育によって立ち表れる資本でその日その日の飯を食っている――むしろ食わせて頂いている俺はそう断言してやる。金を必要としない教育のある場所があるなら、それこそ架空で理想の社会主義国や、一般的には理想郷と信じられているが。面の皮を剥がせば時間と身分と役割に締め付けられたデストピアであるユートピア位だ。
まがりなりにも、教育者を<偽善的>に目指すクソったれなお前らは、少しでも金銭面の問題を意識したことがあるか? 教育には常々支出がつきまとうことを。そして、お前らがクソみたいな、単なる上っ面だけの四大卒・短大卒・高卒という肩書きを得るまでに、幾らの金が親から投資されてきたかということを考えたことがあるか? 教鞭を振るい、教育職に従事するということは、そういった<醜い部分>を同時に引き受け、対峙すべきことでもある。教育の現場においてなら、あの白呆めいた観念論や精神論や、教育論・カリキュラム論といった考え方は重要である。しかし、それと同じくらいに経済・資本面を見聞きし、考えていくことが重要だ。教育は一方で経営の面を背負っている。だからこそ、小型の教育六法のひとつでも書棚に入れておくべきだろう。教育者面を目指すなら。
教育者という、社会的に認められた高い地位に鎮座する・・・むしろ、させて頂いているお前さん方は、親御さん方の、<教育>とかいう、あの幻想的な概念に対するお布施を、醜い程に実感し、それを感じながら教鞭を振るえているのか? と小一時間問い詰めたい。そういった<お布施>を教職員のミナサマに分配し、その残りカスを収入として。そして、その一部を生活費として、飯を食わせて頂いている身としては。
少なくとも、そのお布施に見合った教育を、他の教育機関とは異なった希少性のある教育をマミィのメソッドでは施し、実践し、社会に送り出している。顕在的な結果を叩き出しているからこそ、マミィの現場における状況を批評しまくり、資本を生み出す教育という活動に片足突っ込み気味に関わっているのです、ワタクシは。両親の事業が良くも悪くも顕在的で、そして家庭内の人員を労働に徴兵しまくる過程に生まれたことを不幸に思う一方で、やはり幸運に、そして楽しく思っているんだろうね。飲んだくれは。
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- 2006/08/21(月) 01:05:21|
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