とりあえず、靖国問題を巡る左派・右派、ついでに中韓を巻き込んだ毎年恒例のイタチごっこは、文化的左翼というレッテルを貼られるJUNKさん的にはどうでも良い。敬虔なる国民のミナサマが選びやがった小泉自身は右派の思想を持っている。そのため、参拝は小泉は自身の思想を体言した<だけ>ではないか。倫理性や、永遠の痛み分けである戦後問題といった、結論が出ることのない問題を考えなければ――むしろ、そんな面倒で結論がでない問題ばかりを、無駄な労力を使って考えるから永遠とイタチごっこが続くのだ。
それらの問題は、参拝とはまた別の文脈で考えるべきものである。また、参拝は国民に選ばれた一右翼者による<ただの参拝行為>として切り離した方が下らない感情論にならなくて済む。<ただの参拝行為>よりも、ペテン師の最期よりも、家に帰ってサザエさんを見る方が、重要な問題として考えるべきだろう。むしろ、中韓の参拝に対する遺憾表明は最早恒例行事もしくは、お約束の<ツッコミ>でもある。そして、お約束と解りつつも、それで何かが変わるわけがないと知りつつも、それぞれの国内の世論に対するポーズのために。示威のために、遺憾を表明せざるを得ない。そんなもんだ。
非常に不謹慎で極論をいうと、8月15日というのは最早一大イベント――右も左も思う存分に思想を戦わせることができる<祭り>として消費されている感が強い。特に靖国神社で行われる騒動、これは靖国ウォッチングをしてきた友人の証言によるものだが、昨年の中国における反日デモと同様、現場における規模はさしたるものではない。しかしながら、テレビにおける報道は、その騒ぎの規模が、さも大きいかのように我々に報道する。
大規模な靖国騒動や反日デモというのはテレビの中で編成され、誇張された「超現実(ハイパーリアル)」であり、現場の実情を知らないものにとっては、テレビの中に投影される超現実こそが、現実そのものにとってかわる。我々は遠方にいながらも、テレビ中継を通して、遠方で何が起こっているかをリアルタイムに知ることができる。しかし、その中継の多くは編成や歪曲を伴うものであるということを。特に、生中継ではないものに関しては、編成・歪曲されたものであるということを忘れてはならない。
先にも述べたようにも靖国参拝は一つの祭り――有名ないじめ事件である「葬式ごっこ事件」における裁判官の言葉を借りれば、靖国参拝を巡る騒動は「一つのエピソード」である。今年の参拝においても、最早化石ともいうべきヘルメット軍団が小泉首相の参拝阻止を掲げて靖国神社に乱入し、一般人との一悶着を起こした。友人の証言によれば、そのような小競り合いは毎年起こっているもので、中曽根総理以降21年ぶりに首相が8月15日参拝を行った今年に限ったものではない。
そういった話を聴くとやはり、8月15日という特別な意味合いを含んだ日が、左派にとっても右派にとっても、一つの<祭り>――互いの思想に関する是非を巡ることが目的ではない。<騒ぎ合う>ことが最重要な命題である――として機能してきているように思える。そして、そのような機能が付与される至った背景はマス・メディアによる過剰報道の影響を否定することはできない。ブーアスチンの『幻影の時代』に描かれたデモに関する事例に似たような状況が、靖国を巡る論争や報道と被ってきているように見える。つまり、靖国問題も最早、消費財や記号といったものに還元され始めているのだ。
ボードリヤールに感化されすぎだから、そんな考えに至るんだな。とか色々と思うんだけど、己の思想体系や構造のフィルターを通して靖国問題を観察してみると、そのような分析ばかりが表出する。
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- 2006/08/16(水) 00:57:56|
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