幾らファッション――いわゆる<装い>を誇示して、自分らしさだの、アイデンティティだのといった幻想を主張したところで、それは皮膚を覆った繊維の塊にすぎない。うつろいやすく、モードの変遷で駆逐されやすい自分らしさという擬態(むしろ義体)を表現しているにすぎない。などとアイロニカルに断言してしまうと「夢」がない。ついでに「資本を生み出す意思」とか、新たな文化を生み出す可能性を持ちうる「模倣」すらも否定してしまうことに繋がりかねない。よし、それは解った。
しかしながら、ファッションの語源である、ラテン語のファッショ(束)のという意味に相応しく、マス・メディアがマス(大衆)のためのオピニオンリーダーを作り上げる。そして、マスがファッショに向かうようなマス・コミュニケーションを作用させ、マスが思惑通りに束ねられているような状態が発声する。そんな状況で自己の所有や統御を果たしていることの錯覚とも言い換えられる自分らしさを主張したところで、それもやはりナンセンスだ。しかし、資本主義下。スペクタルの社会、もしくはシュミラークル(模倣品)と差異で成り立つこの社会で、「自分らしさなんて幻想だ」とか「サイボーグみたいな身なりをしやがって!」と叫んだところで、潮流に乗り切れない者の妬みとして捉えられかねない。
身体の統御とファッションの関係を考える際、常々思うのが「刺青」「ピアス」「各種身体改造」こそが本当の自分らしさ、いわば伝統的で古典的なな、西洋的な価値に立脚する「不動のアイデンティティ」というものの論拠になるのでは? と思うことが多い。ファッションはしょせん<装い> でしかない。モードと同様に、最新の前段階にあったアイデンティティは捨てられて・殺されてしかるべきものである。確固たるアイデンティティという幻想も既にナンセンスだ。
しかし、そういったアイデンティティのモードを否定する、侮蔑することによって潮流に乗れない自分たちを正当化する流れはある。大衆と反大衆の関係性の中にも、勿論アイデンティティは発生しうるだろう。モードもモード批判も、実のところは共罪に関係にある。最早形骸的な道徳の展覧会と化した感もある戒律、特に<性>に関わるもので淫蕩を禁じてきた割りには、聖職者、すなわち権力を持つ司祭たちの独占的ポルノグラフィとして機能していたカトリックの告解の醜悪な部分を想像するがいい。時の権力者たちの醜態を風刺と誇張ながらに描き出したサド侯爵殿の著作に群雄闊歩する、傲慢な性的冒険を試みる権力者たちの肥えた陰茎を。偽善者たちが唱える道徳や美徳の醜さを思い出すがいい。
身体統御と刺青について、澁澤龍彦の猛烈なシンパである師匠と話していた際、次のようなやりとりがあった。自分は身体統御の証として「自分の目が届く範囲の刺青」が重要だと思っており、それを師匠に聞いてみた。師匠は「自分では見ることができず、他人からも中々見られないトコロ。例えば腰と臀部の中間辺りに入れたい」と応えた。なるほど、自分では不可視であるが、身体を統御した――刺繍による痛みを堪えて、<何か>を彫った経験こそが、単純に視覚へと還元されることのない、観念的な自己の身体統御の証であるということか。
師匠とのやりとりの折、ロバート・フィリップと新原実を敬愛する師匠(自身はギターを弾かないが、ジャパメタとプログレと球体関節人形には相当にウルサイお方)に、自分が兼ねてから抱く妄想的野望。それは恐らく実現されえない――何十年か先に、海外で彫る可能性も無いとは言えない――野望なのだが、右か左の腕に「フライングVのタトゥーを入れたい」と語ったら、師匠のドツボにはまったらしく、大うけしておりました(´・ω・`)。
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- 2006/07/11(火) 01:16:46|
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