「ひとびとはペテン師どもの言葉に耳を傾けはじめ、みるみるうちにこの宗教は広まって行った。誤謬の歴史はすべてこうした過程において作られるものだ。やがてウェヌスとマルスの祭壇は、イエスとマリアのそれに取って代わられた。山師の生涯は、出版されて本になった。この無意味乾燥な物語は、多くのお人よしをたぶらかした。」――マルキ・ド・サド,『閏房哲学』(澁澤龍彦訳)。
巷に溢れる「S」だの「M」だのをしたり顔でのたまう輩の一体幾人が、19世紀の性化学〔sexualwissenschafft〕者であるクラフト・ヱヴィングが定式化したサド・マゾヒズムの紋切り型に毒されていることを自覚しているだろうか? 一体幾人がサド侯爵やザッヘル・マゾッホの名を知り、その迷作に触れ、公爵殿の素晴らしき否定の精神と、禍々しき役割の相互置換に対する哲学を理解しているというのか? 公爵殿の奇行をサディズムとして解釈するならば、攻めと受け/支配と服従は常に相対的であり、置換されるべきものでなければならない。公爵殿が従者を伴い、娼館で見せた支配と服従の相互置換劇を思い起こして見るといい。
そもそも、公爵殿や聖マゾッホ氏を引き合いに出したところで、単純な支配欲求――それは、支配する側も被支配の側も己に対するナルシズムに向けられているだろう――こそがSMの価値観であるという認識が早々に崩れるわけでもないし、崩す気も起きない。現代の大衆において、性は哲学と切り離されたものであり、マニュアル・単一的なイメージであり、語るに足らないものへと変貌しつつあるからだ。
そんな駄文を書くのも、鞄の中に潜む書物が悪いんだな。あとガンガン開きつつある紹興酒の瓶。本日、鞄の中に潜むものというと、先の『閏房哲学』に、同じく公爵殿の『ソドム百二十日』。ついでに、ボッカッチョの『デカメロン』にベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体』。Robert,W.の『Running With the Devil ; Power,Gender, and Madness in Heavy Metal Music』に加えてジー二アスの英和辞書。
一見酷く乱雑なように見えるのだが、内訳のある程度は繋がっている。繋がりついては、諸氏が自力で考えてもらいたいところなのだが、ひとつヒントを与えるとすれば、冒頭の『閏房哲学』の引用にある「山師の生涯は、出版されて本になった」という部分と『想像の共同体』。「想像の共同体」が形成されるには出版物、特に新聞が大きな役目を果たし、経典(タルムードやバイブルやクルアーン)も言語を超えた形で大きな役目を果たした。その影響の一つに対し、我らが公爵殿は豊饒たる素晴らしき話術にて、痛快なるヱンタァテイメント精神を発揮する。しかし、公爵殿のが生きた18世紀ならまだしも、現代で見ると少々大仰な芝居のようにも感じてしまうが。まぁ、それは置いて手おいたとしても、ああ! これこそ ザッツ・怨タァテイメント。
とりあえず、明日も早いので寝るほい(´・ω・)ノシ
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2006/06/28(水) 00:56:02 |
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