テキストサイトにおけるアマチュアリズム等について記そうと思ったが、ふと、昔の事―2001~2003年頃にかけての、テキストサイトシーンの中心があった時代を思い出したので、また昔話でもしようと思う。
2001年の夏前頃から2002年の上半期頃まで、大手テキストサイトの一つであった『女帝』の派閥――派閥というものは、門外漢たちから見たレッテルに過ぎないようにも思えるが――に属していた。まずは『女帝』についての思い出でも語ろうと思う。
『女帝』は、侍魂以後のテキストサイトシーンにおける一般的な手法、即ち、黒背景に白文字+センタリングにフォント弄りを踏襲していた。テキストの内容については、日常的の自虐ネタを半ば自棄気味に、半ば大仰に記すといった趣のサイトである。サイトに飾ってあったトップ画像は、18世紀フランスの女王。堕落・腐敗した貴族のカリカチュアともいうべき放蕩女王マリー・アントワネット――尤も、放蕩女といえども根は女王。判決~処刑に到るまでの期間は貴族たる凛々しさを表したと伝え聞く――である。女帝は、放蕩女王の威厳ある肖像画のイメージと、閲覧者の称賛によって構築された威圧的なイメージが「一人歩きさせられていった」感もある管理人、「女帝さやか嬢」のカリスマ性と、「ネタ」の先鋭さから大きな支持を獲得していったサイトである。
私自身は、さやか嬢を含んだ常連が集っていた中堅テキストサイトであった『俺史』のチャットにて、さやか嬢と知り合ったクチである。後に、十(いや、百万だったか?)万ヒットで閉鎖を謳った『侍魂』のフォロワーサイトである『漢道』主催のオフ会にて、さやか嬢及び、後の女帝派閥を構成する面子と知り合い、オン/オフを問わない形で頻繁な交流を続けていくこととなる。
テキストサイトのオフ会は、何か特別な目的、例えば「参加者全員がアフロを被り花やしきを貸しきる等」が無ければ、体外は飲み会と相場が決まっている。名が知れたサイトの管理人がオフに出席するということは、浮動的な参加者を呼び込む大きな指針ともなる。まぁ、つまるところ、後の女帝派閥と呼ばれた面々は、先に述べたチャットにて頻繁に交流を取っていたことと、語る所も多い「漢道オフ」にて更なる意気投合を果たし、悪友といった趣の交流を続けていった。そんな最中、確か2001年の秋頃。「女帝関西オフ」を敢行した頃だと記憶しているが、『テックウィン』誌に『女帝』が掲載された。掲載の話自体は夏頃から伝聞しており驚くような点ではなかったのだが・・・問題は、その掲載内容にあった。
2001年の8月頃、『女帝』フォーマットを駆使し、女帝派閥のメンバーがそれぞれ「○○帝」という名を冠したサイトを期間限定でTOPページにするというサプライズ企画(M作戦)が敢行された。
『皇帝』を筆頭に、『汚帝』『愛帝』『汚帝』『童貞』『暴帝』『愚帝』『最期の皇帝』『獄帝』『奪帝』『牌帝』『不帝』『モ帝』『萌帝』『若帝』と、次々にサイトが増殖した。本来は『皇帝』単独の企画であったはずが、私が『皇帝』に触発されて、即時的に起こしたサイト『痛帝』が『皇帝』以外の「帝シリーズ」が増殖するきっかけを作ったと、
『皇帝』に残存するテキストでは指摘されている。まぁ、それは良いとして。私は、何故か『痛帝』のTOPにシェイクスピアの『ハムレット』に登場する悲劇のヒロイン「オフィーリア」を描いたミレイ作の絵を用いた。無論、当時はシェイクスピアの作品などを知るよしもなく、ましてやミレイの描いた有名な『オフィーリア』すらも知るよしがなかった。ミレーの絵をTOPに用いた理由は「痛そうだったから」という、何とも眩暈をおこすような、それでいて西洋美術に深い関心を持ち始めた現在の自分に繋がるような、何か因縁めいたものを感じてしまう。まぁ、それも良いとして。『女帝』や、当時映画を極めていたテキストサイトに関する記事が掲載されたのは、9月売りの『テックウィン』である(恐らく2001年の10月か11月号か)。『女帝』に関する記事において、「『痛帝』や『童帝』といった、フォロワーサイトと供に云々」なる文章が書かれ、我がサイトの仮面とも言うべき『痛帝』も、不名誉ながら雑誌の一抹を飾るに到ってしまった。
余談ではあるが、関西女帝オフから帰還した当日かその翌日かに、あの「911テロ」が起こった。テロの映像が国内で流れた直後は、例によって派閥メンバーでチャットに興じており、目の前で展開される「ハイパーリアル」―まるで映画のワンシーンのような出来事であり、映画の如く編集され報道される映像―に対して、半ば半身半疑な私や他の参加者と、いたずらに取り乱すチャットがあるHPの管理人との温度差が、今でも記憶に残っている。
その後、2001年内か2002年の6月前後か、正確な日付は覚えていないのだが『女帝』は閉鎖を宣言。先にも述べた、「多くの閲覧者達によって独り歩きさせられた女帝さやかのイメージ」に、管理人であるさやか嬢が疲れ果てたということも、閉鎖の理由であったと思う。特に、オンにおける「女帝さやか」ではなく、オフにおける「さやか嬢」と長いような短いような間、交流を取ってきた身としては、オンのイメージによって、オフにおける等身大の姿から剥離せられていく「さやかというイメージ」に、どこか悲哀的なものすら感じていたような気がする。
『女帝』の閉鎖後、さやか嬢は「女帝さやか」という冠から解放された場所にて、新たなサイトを作った。しかし、『女帝』が、当時異常な盛り上がりを見せていたテキストサイトシーンにおける大手サイトであり、尚且つ、狂信的な閲覧者とも称するべき「信者」を多く獲得したこともあり、新しいサイトの掲示板は、独り歩きして行った「女帝さやか」の姿を追いながら、「女帝さやか」の新しいサイト称賛をする書き込みで溢れかえった。その様相は3年以上たった今でも、思い出すだけで名状し難い嫌悪感に襲われる。その事が主たる原因で、新サイトも閉鎖を向かえた。
バブルとも呼ぶべき盛り上がりを見せたテキストサイトシーンに、2001年から2002年の6月頃にかけてという短期間の間だが、その名を大きく残した『女帝』は、『侍魂』以後、いわゆる「テキストサイト」という一大勢力が群雄闊歩する時代に名を残したサイトの一つである。そして、私も『痛帝』という仮面を付けながら、予想外の所でマス・メディアに引きずりだされてしまった。もう3年以上も過去の事だ。
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- 2005/12/22(木) 01:54:10|
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もう5年以上も前ですね。
このハンドルを使うのも4年ぶりくらいな気が・・・。
狂ったようにバーチャルの世界にはまったことが、これを読んで走馬灯のように頭を駆け抜けました。
そういえばJunkさんが最初に私の完全にバーチャルだった世界とリアルの世界を繋いだ人なんですよね。
アルタ前だったと記憶していますが・・・。
ネットジャンキーから遠のいてからも国境を越えても
なぜかまだチャイナドレスは機会があれば着続けてます。
あの後遺症ですね。。。青チャイナらぶ(笑)
- 2007/04/18(水) 14:12:06 |
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- 涼 #QRDwiKac
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懐かしい名前を見て、深酒のせいかと思わず目を疑いましたね。そしてお久しぶりというと共に、初逢瀬の頃のことを覚えていて頂いてるよてうで光栄です。確か初逢瀬の際、貴殿は本を読んで私を待っていたことを覚えていますが、今では私も立派な本の蟲に成り果てました。
とりあえず、チャイナドレスについて詳しく。むしろ、メイド服とか着てみませんか? とか勧誘をしてみる。まぁ、機会があれば当時の狂想曲を懐古しながら酒か珈琲or紅茶でもしまょうか。
- 2007/04/19(木) 00:43:51 |
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- JUNK #-
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そうですね、また帰国した時にでもご一緒できれば、と思います。
当時と変わらずお酒には弱いですが・・・(あの時も相当ヤバかった気が)
P.S.
メイド服は身長的に合いませんよ(笑)
- 2007/05/07(月) 08:31:26 |
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- 涼 #QRDwiKac
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