友人宅で
『グッバイ、レーニン!』を鑑賞。予想以上の素晴らしさにDVD購入を堅く決意。しかしながら、西側文化=資本主義の象徴としてのコーラやファーストフード(劇中では以外にもバーガーキング)という肖像はやはの強いなぁ・・・と思いつつ、毎度のことながら、冷戦後、モスクワにオープンしたマクドナルドに多くのロシア人たちが、自由経済・時給制・笑顔の接客などの点で凄まじい衝撃を受けたという一文を、冷戦後直後のロシア事情に関する本で読んだことを思い出す。
クライマックスにおけるレーニン像のシーンは幻想的であり、暗示的であり、ありそうな現実的すら帯びている。むしろ白昼夢的でもある。嗚呼! 思い出すだけでも鳥肌が立つ、何とも幻想的なシーンである。他には、細かな部分に到る小道具類(マルクスのミニ胸像とか)に監督のこだわりをヒシヒシと感じ、教科書の写真でしか見ることの無かった、ベルリンの壁を乗り越えていく民衆の映像を初めて見て「複雑な衝動」を覚えた。革命のドラムに鼓舞をされたか、歴史的事実に驚嘆したか。その衝動については、複雑すぎて語る言葉をもてない。現在の私では。また、劇中の一コマ―東から西へ歓喜の声で流れていく民衆の映像を「西から東への難民」として説明する辺りや、コーラの発祥は東ドイツとかやっちゃう辺りはもう最高に愉快である。
とまぁ、「グバレ!(グッバイ、レーニン!)」については長くなるから休題。友人宅は、部屋をフスマ一枚隔てた空間が居間で、中学時代から友人の自室で映画みたりゲームする隣で、家族がテレビや映画を見るというデュアルスタイルは変わらない。本日もまた然り。
自室の方では、『グッバイ、レーニン!』を鑑賞し、劇中の舞台である1990年の中では、社会主義体制(1989年の東ドイツ)の再現が行われている。居間の方では、ドラマを見ているようで(聞き取れる音声からは
『鬼嫁日記』と推測)、セリフがところどころ聞こえてくる。その中で、特に耳を引いたのは「ブログ」という言葉。
周知の通り、私は反大衆嗜好者であり、テレビ番組はニュース程度しか関心を示さない。しかしながら、文化研究の真似事をかじっている身としては、テレビドラマの持つ性格―例えば、時代の最先端聞きを常に取り入れるなど―などはそれなりの知識を得ている。テレビ番組に関する分析本を読めば、個室電話→ポケベル→携帯電話などのハード-が劇中に登場したことと、ドラマの根幹がハードを軸として形成されているということが度々指摘される。そのため、先に挙げたハード群がドラマの中に登場することに大した関心を持つことは無い。
だが、今回はblogが劇中に登場したことに、一抹の脳内センセーションすら起こってしまった。チャンネルをフリップしていたら、たまたま見てしまったドラマ版
『電車男』を見た際に感じた、嫌悪感にも似た違和感が、ドラマの中に登場するblogによって喚起された。反大衆や反業性イデオロギーの一言では語ることが出来ない「何か」についても、先に述べた「複雑な衝動」と同じく、今の私の脳髄では語るに足る言葉を持ち得ていない。ただの食わず嫌いかもしんないけど('A`)。
少なくとも、「時代は先へ先へと流れている」ということは、blogを根幹においたドラマの存在を知ったことで、如実に感じた。自室の側では、資本主義の勝利という時代の流れと、過ぎ去りし過去の再生。居間の方ではドラマの中にまで登場するblogという新しい時代の象徴が。その両方を眺める位置にいた私は「時代の狭間」にいる様な錯覚すら覚えたような気がした。
テキストサイトはblog程のセンセーションを巻き起こすことは無く、ドラマのモチーフにも使われることは無かった。ああ、2001年以降のテキストサイトシーンを未だに回想・懐古し続ける私もまた、社会主義の亡霊の如きものなのだろう。変化に馴染むことができない逆行者たる。
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- 2005/12/21(水) 01:27:10|
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