ちょっと前、尾崎豊。最近カート・コバーン。音楽を題材にして卒論やレポートを書く学生に多い題材。総体としてのジャンルや現在進行形な連中―ディランはポピュラァなテーマで良く使われる―よりも、死して伝説となったスタアは何故か題材になりやすい。渋谷のタワーレコードの街頭ビジョンにて、カートをテーマにした『ラストデイズ』のCMを目にした際、ここ数年やたらと街中でみかけるNIRVANAのバッグやTシャツよりも、もっと名状しがたい居心地の悪さ――ブリーフを履いた際の収まりが悪いペニスのような違和感を感じたボクは、アンチ・コマーシャリズムなんて神話をガキみたいに信じているのかもしれないね。
そして、話を戻すのだが皆NIRVANAばかり! SONIC YOUTHが(´;ω;`)かわいそうです。カートやディランをモチーフとして文化とアイデンティティを絡めた形で云々するっていうのは、文化素材とアイデンティティの関わりについての一例を課題として発表するゼミでの一コマ。大学に入ってすぐの頃、2001年頃かな。図書館で初めて借りた本が『誰がカートコバーンを殺したか』だったりする。懐かしいよね。そういや、ずいぶん前の世代で、やはりカートについて卒論を書いた先輩が居たという話を今更になって思い出したよ。
そして、更に話をゼミの所まで戻す。良い年こいた院生(=オヂサン)はゼミの方には聴講参加につき特にこれといった発表はしない。今のところ。かといって、ゼミの主役はやはり3年生のため、中年がでしゃばってはいけないし若者のためにはならぬ。従って、議論の質疑応答を焚きつけたり、造詣の深い分野
テーマとして考える学生対して参考文献を指示したり、啓発を行ったりするのがメインです。まぁ、ちょっとは院生らしいトコロを見せるべく、ゼミ内で追々何かを発表するのです。
ところで、アイデンティティを巡る作品というと、やはり『アイデン&ティティ』になる。他者からの承認や、理想的自己像なんかを切り口にするなら、鏡に映る自己論に相応しいHPラヴクラフトの「アウトサイダー」辺り。と考えていたが、『アメリ』のヒットによるアルバトロス・フィルム(B級エログナンセンスやバカホラーに発掘に使命感を燃やす熱い会社)の一件。アルバ&熱心なファンと、『アメリ』にだけ熱心なファンにおける、映画観のズレ―『アメリ』っ子から会社に苦情か殺到した―における、アルバ &アルバっ子のアイデンティティ云々についてやろうかと思い始める。
やっぱりね、お約束やB級哲学が累積した近年の映画。ハリウッド文化帝国主義が支配的にある近年の映画には、キャンプにこそ美学があるよね。『アンデッド』のパンフレットに書かれた、監督キョーダイや「映画を愛するけど少しヒネたその他大勢」による映画に対する熱い思いを読んで、その美学を改めて実感した。
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2006/05/18(木) 00:39:26 |
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