
昔の偉人は「我々は何のために学問をするのか?」と問いました。とりあえず、我々の立位置や文化の特質を定義し他国と比較すること。という、人文社会科学の文脈に則った解答はできうる。
ジャーナリズムについては、今起きている事件を一先ずは国内に向けた形て体系化し知らせることが命題である。学問的命題に基づいた特質比較を重視するジャーナリズムも勿論ありうる。しかし、私は人様に自己紹介をする際は社会学に身を置き、英国流儀のカルチュラル・スタディーズに片足を突っ込みつつ、文化研究―毒や先鋭さや、ギラツキなどが消え失せた〈カルスタ〉はその範疇に考える―を担うという因果な立場上、アカデミック(作法や伝統・儀礼に基づいた世界)とジャーナリズム(センスや情報リテラシーを旨とする)両者を行き来するワケになる。
しかし、ジャーナリズムを享受するだけで十分な層がアカデミズム的な作法や方法論を求めているワケでは無い。まあ、「B!誌」やCDガイド諸誌の内容に表現や文章力の云々から始まり、実証性や意味性―特に文化現象が、時代時代の社会とどう関わり、様々な分野でどう語られ、批評されてきたかの記述を求めること自体がナンセンスである。さらには、そういった回りくどい言説は、多くの読者に求められてもいないと言うことだ。但し、ジャーナリズムでありながらもアカデミックが注目するような領域に十分切り込んで行く書物―特にポピュラー音楽研究においてが、欧米では非常に充実しているのは事実であり、書き手・読み手を含めた我々の怠惰さ・視野の狭さを自省すべき点でもある。
追い付け・追い越せ的な西欧優位的な言説はナンセンスだと考える私だが、この点ばかりは一読者として。一メタラーとして―私の主分野がメタルであるため―狂惜しい程の嫉妬心に駆られてしまう。あの忌々しい。ファッションパンク的不埒者を付け上がらせる「ギャルメタラー参上」なぞという噴飯企画を始めた、ファンジンなどを除けば国内で唯一、メタルの情報を得られるB!誌と、海外の文献や雑誌を比較せしめると、私の嫉妬は募るばかりなのだ。メタル好きはメタル好きで良いではないか! 偶像で括る言説には不埒な姿勢しか感じ得ない。
中途半端なミーハー精神は、メタル魂のオーセンシティティ足りえない。あからさまな商業主義を忌避することが、メタルのイデオロギーであるということは良く知られている―J.Harellの「Poetics of Destruction」などを見よ。
いつになく主観的要素が強い文章だが、アカデミズムとジャーナリズムの中間点を迷うものとして。引いては一メタル・ヘッドとしては、込みあげる感情を押し込むことはできないのだ! くどい閑話は休題するが、客観性を欠いた語りはまだまだ続く。
<装い〉としでてしかパンクという、音楽だけでなく幅広い要素を内包した<文化>を消費できない、不埒なファッションパンクスが「彼の先駆的研究書」を読まないのは「当然」として。『Doll』を愛読し頑固なパンクスタイルを追求する真面目なパンクスでも、パンク文化についての先駆的研究書であるD.ヘブディッジの『サブカルチャー』を熱心に読みふけること少ない。それこそ、ジャーナリズム側が率先して、アカデミックな領域に誘導でもしなければ、ジャーナリズム側に身を置く読者がアカデミックな書物を手にとるという現象が増えることはないだろう。
海外のメタル雑誌『METAL HAMMER』にQUEENのメンバーフォトを模した『魁!クロマティ高校』のアニメ版DVDが大きく掲載されているという、この文化的混沌という現実を目の前にして、ジャーナリズムは、アカデミスムは、どのような言説対応をするべきか。
とりあえず何か仕事を!この際アカデミズムもジャーナリズムも関係なしに。明日の酒代に文献代にCD代になる知的生産業を掴むきっかけを! そして私もアドルノ先生的な真面目/ 不真面目という、文化二分法に陥っているではないか。これだから、「フランクフルト学派」を学ぶと、天邪鬼的思考ばかり身についてしまい、ロクなことがない! だがそこが良いのだ!
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- 2006/05/08(月) 00:11:09|
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