パン食い競争で両手縛を縛られた父親たちが、女主人の吊るすパンに必死で食いつく様とか、吊るされた玉(子供に虐められる精薄の隠喩)が子供たちから執拗に玉を投げつけられるとか、幼稚園の運動会っつうのは極めてマゾヒストの夢想に満ちた世界だなあとか、本部席でテープを流しながら思う。沼正三の読みすぎ。
とはいえ、世の中の事象は通例的な見方(権力によって水路付けられたものとも言える)を、ほんのちょいとズラしてやるだけで、まるで万華鏡のように意味を二点三点させるから不思議なモンだ。
いわばオーディエンスの解釈能力は無限大に広がり続けているという感じ。夢想的な汚辱や被虐を尊ぶ――被虐とは意を分かつことに留意――マゾヒスト書誌にとって、幼稚園の運動会という文脈は極めて百科全書的な輝きを見せるのであろう。
はてさて、自らが「玉割の玉になりたや」と呟くわけでもなく、そう呟くであろう純然たる夢想家、鞭や蝋燭のように通俗化した「ごっこ」を嫌い、部屋の部屋の中という私的空間よりも、社会という公的空間の中で制度化されたマゾヒズムに儚い夢想を偲ばせる諸氏の姿を思い浮かべ、ニヤニヤとチェシャ笑いを浮かべるJUNKさんはSにありしか、あるいはMにありしか?
『家畜人ヤプー』の場合、『アリス』以上に世界の様相を語る第三者の姿が色濃いからさ、語りべか、リンか、クララか、様々な人跡を紹介される各種ヤプーや人獣――特に翼馬人種のアマディオ――に感情移入するかで、大きく見え方が変わると思う。クラークの『幼年期の終わり』もまた然り。
と、様々なことを考えだすと、また色々と書きたい衝動――特にキャロル、『ヤプー』、矢川澄子、金井美恵子、楳図かずおを繋げるラインのもの――に駆られるのだが、昨日の日記に書いたように、端書きや草稿はあくまでも事備録にすぎず、やる気や機会や慰安的な見返りが合致するまで、些か書く気にはならないと。とはいえ、来年くらいにはガチな『ヤプー』論を書いてみたいとは思うけどね、案件のお誘いがあれば。
とりあえず、ちまい原稿を色々書いて、いずれは『ヤプー』論として超神合体するであろう断片を、色々なトコに持ち込もうかなあ、とか思いながら、今日もまたワサワサと蔵書が増える。
蔵書の増加量に読書量が追い付かねえよ! いやいやマジで。あと3人くらい分身が欲しい。
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- 2009/10/04(日) 22:54:14|
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