ナボコフの『ロリータ』の主人公、ハンバート・ハンバートは、幻想的であり、なおかつ理想的なニンフェットとしての「ロリータ」を追い続け、12歳のドロリス・ヘイズに「ロリータ」の姿を見いだした。
ルイス・キャロルはアリス・リデルによって触発された「アリス」のイメージを始終追い続け(周知のように、キャロルが『地下の国のアリス』で、自らの挿し絵で描いた「アリス」は、アリスの妹イーディスを模したもの)、小さなお友だちの中に、キャロルが記してきた「アリス」の断片を見いだしてきた。
ロリータことドロレスは17歳で妊娠し、かつてのパパに金をせびる、したたかな人妻となり、「アリス」は『鏡の国のアリス』で、童心を忘れない白騎士に別れを告げ、したたかな女王になり、アリス・リデルもまた人妻になり、母親になった。
童心と幻想を忘れない、永遠の少年たちの前に、彼らが追い求めた理想の「少女」はいないが、谷崎が『痴人の愛』で描いた残酷な少女は、終幕においてもやはり、残酷な少女であり続けた。
ロリィタちゃんの追求する「少女」もまた、ハンバートやキャロル、谷崎が求めたような理念的かつ偶像的な少女であり、ゴスロリちゃんの求める、日本的な「ゴス」もまた、少女と同様のものである。
ニンフェットであり、ファム・アンファンであり、「アリス」であり、「ナオミ」であっても、少女は少女である。同様に、ウォルポールやルイス、メアリ・シェリー、ポーの作品が登場せずとも、「ゴシック」あるいは「ゴス」として機能しうる。
それらは、ギブスンが『ニューロマンサー』で描いたチバ・シティや、『あいどる』で描かれた電脳世界上に存在する九龍城のようなものであり、歴史や実証に基づいた事物とは異なった、極めて観念的かつヴァーチャルなものである。
それらを認識することなく、彼/彼女らの文化や歴史に対する認識や実践が「にわか」染みたものだと批判するべきではない。彼/彼女らはブリコラージュによって再加工された、ありうべき理想世界に生きているのだから、「にわか」を批判するよりは、その世界に参画し、自信が「ありうべき世界」学ぶと共に、自らの脳髄に根付いてきた本格的ないしは実証的な世界に、住人たちの関心を向けるように努力すれば良いではないか。偉大なる旅行者であり、ソクラテスのように貪欲な哲学者であるガリヴァー氏の如く。
↑本日ムニャムニャしゃべったことの総括。
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- 2009/07/27(月) 01:46:26|
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