近頃、テレビで話題をさらっている、埼玉の父子大家族の捏造を巡る問題がフレィミング〔framing〕しているようで。いつ頃からかな、かなり前からニュースの時間以外にテレビを見なくなったワタシには、「え? そんなのが話題になっていたの?」というレベルの認識であった。
ニュース以外のテレビを見なくなって以降―つまるところ、現在的な話題としての機能しか持たない情報の殆どをシャットアウトすること―情報源と言えば電車の中吊り広告と2ちゃんねるという体たらく振り。しかし、捏造か真正かという議論を眺めてみると、つくづくと、リテラシー能力の欠如と最早オールド・メディアであるはずの「テレビ」が持つ影響力―無論、マス・メディアの影響力が一方的に広まっていくはずも無く、件の大家族番組に対する捏造論や批判論が取り沙汰されて当然である。しかし、失笑を禁じえないのは影響力を直に受け取ってしまった側の狂信的とも言うべき姿勢である。嗚呼、私が嫌悪するところの「盲目的な大衆」を絵に描いたかの様な。
家族。とりわけ、苦労を重ねる「大家族」に加え、「愛」や「道徳」を重んじたドキュメンタリーには、常に免罪的な正当性や、内容を問わずに一切合財の批判を禁ようとする醜悪なイデオロギーが付きまとう。イデオロギーに突き動かされる側を「リテラシー能力の決定的な欠如」という一言で片付けることは容易い。しかし、私のような気質を持つ社会学徒としては「何故、愛や家族というものが神聖視されるのか?」「テレビ・メディアが、免罪的ドキュメンタリーをゴールデンタイムに放送することは、単純な視聴率稼ぎの他にどのような政治的意図を含むのだろうか」「何故、疑いの強いドキュメンタリーに対し懐疑的になっていけないのか」等といった問題意識を持つ。
私自身のことを申せば、澁澤龍彦的野次馬精神で、盲目な大衆と懐疑精神を持ち始めた大衆との正当性を巡る争いを観察し、マス・メディアと免罪符的な要素に含まれるコード―先に申したように、筆頭としては「愛」や「家族」であるが、そこに「母性本能」という、社会学が真っ先に批判の矛先とする醜悪な概念も付け加えておこうか―が、如何に読み替えを含んだデコーディングが成され、どのような意見が噴出するのかという点を観察し、意味性を考察する。さらに、澁澤龍彦と似たような匂いを醸し出す旅行者・哲学者である「アルフォンソ・リンギス」のように記述してみる―尤も、それは理想論であるが―することばかりに興味をそそられる。
◆参照
・大家族を巡る盲目派・懐疑派の発言がまとめられたサイト
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- 2006/04/15(土) 18:46:43|
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