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続・JUNK屋日誌

blogへのテラ・フォーミング(2005/12/17)。遂に時代の流れには逆らえづ、本サイトの日記のみをblogへ移行。

J・G・バラード『クラッシュ』

 奇妙な巡り合わせというものがある。今回の書評(本の山に埋もれながら、気づけば書評の執筆にとりかかるまでに、とんでもないくらい大幅な時間を経てしまった)で本書『クラッシュ』を受け取って、ふと思い出したことがある。
 
 確か、中学生時代の頃の青臭い思い出だが、中学生という年齢上、アダルトビデオを借りることは出来ない。しかし、思春期に特有のあの悶々とした感じを押さえることはできない。交通事故の映像で欲望を昇華するような性癖を持っていれば、反乱するハリウッド映画で用を足すことができたかもしれないが、お色気シーンの多いアニメ作品や、性がテーマであっても一般作として流通している映画などに、ひとまずのトコロとして性の捌け口を見出していた。
 
 そんな中で、たまたま手に取ったのが『クラッシュ』だった。果たして、お目当てのシーンで目的を果たせたのかどうか、全く思い出すことは出来ないが、どうも最後まで、あの奇妙な映画に見入ってしまった記憶がある。
 
 献本を受け取った後、翻訳は雑誌『映画秘宝』の読者にはタマラナイ柳下毅一郎、映画版の監督がデイヴィッド・クローネンバーグということを知って驚愕し、さらには主演女優がホリー・ハンター(愛する映画のひとつ『ピアノ・レッスン』の主演女優だった!)ということを、つい最近知り、さらに、さらに驚愕した。
 
 そういった経緯があり、この『クラッシュ』はぼくにとって、様々な意味で業の深い作品であるが、その内容もまた、非常にぼく自身の興味を深く掘り下げてくれるものでもある。本作のテーマは表題にも表れているように「激突事故」で、さらに限定していえば自動車の追突事故である。
 
 自動車は、ぼくたちの身近にあり、特に地方都市では生活から切り離すことの出来ない機械であるし、鋼鉄製のフレームで生身の身体を包み込むという点は、まるで鋼鉄の子宮のようにも見える。そして、頭蓋貫通(トレパネーション)を扱っていることで名高い山本英夫のマンガ『ホムンクルス』では、自動車の中で胎児のように膝を抱え、指をしゃぶりながら安眠する主人公が繰り返し描かれている。

 自動車が搭乗者を包み込むという点で、子宮を象徴する一方、走行し、障害物や他の車に激突する自動車はペニスの役割を果たしている。これは、追突事故で「カマを掘る」といった俗語があることからも、容易に想像できると思う。

 停止している時は子宮の役割を果たし、走行中にはペニスの役割を果たす自動車という、極めて近代的な機械(時には<兵器>にもなりうる)に執着する余りに登場する、偏執的な欲望と、交通事故によって一体化する機械の破片と肉体の破片の融合という悪夢的な光景・・・・・・『クラッシュ』で描かれる自動車事故や、鋼鉄のフレームによって貫かれることで生じる身体損傷の場面は、『ビデオ・ドローム』の監督であるクローネンバーグこそが、映画版を監督することが相応しいと示唆しているようにも思える。


 「わたしは事故から回復していった。2つの病棟をなす24のベッドは――最大生存者数期値――航空事故の犠牲者用に空けてある。そのうちのひとつを、たまたま自動車事故の怪我人が使っていたわけだ。/体をおおっていた血が、すべて殺した男のものだったわけではない。緊急手術室でアジア人医師に検査され、両膝が計器パネルに粉砕されているのがわかった。長くのびる痛みは太股から鼠径部まで、まるで両足の静脈に細い鋼鉄のカテーテルを通したかのように走った。」(34頁)

 こういった場面はまだまだ序の口で、『クラッシュ』の中では、激突事故や、事故を起こしうるような状況に興奮するカップルや、事故を通じて身体を鋼鉄のフレームに貫かれることで、性的魅力を発露する女――この時、哀れな女の身体の性的魅力を覗き見するのは、文を追うぼくたち自身だ――などが、極めて冷徹に描き出される。
 
 新聞における交通事故の報道のように、事故による損傷の中でエロティックな価値を付与される女の身体も、傷ましい身体損傷を被った人体も、ひしゃげた車も、様々な体液でねっとりと汚された車内や計器類、そしてガラスやシートも、バラッドの筆の中では、一編のドラマ性を持たず、ただただ冷淡に記述されるのみである。
 
 例えは適切ではないかもしれないが、レイプを主題としたアダルト・ヴィデオや、極めて陰惨な演出によるものは、劇回し染みた男女の台詞に耳を塞ぐ限りにおいては、ただただ、極めて冷徹に、陰惨で暴力的な場面が展開され、ぼくたちの眼前に突きつけられる。『クラッシュ』における性と暴力は、それに似ているのではないかと、ぼくは感じている。
 
 作品のストーリーは、あるひとりの誘惑者の事故<死>の翌日から始まる。そして物語は誘惑者とのクラッシュ・アバンチュールによって、激突狂となった主人公の回想を通じて、様々なシチュエーションにおける、クラッシュ&セックスが冷徹に記述され、時にはサド侯爵のような反復によって記述される。
 
 主人公は、不慮の事故で生じた正面衝突によって、事故の相手を死に至らしめる。事故車に搭乗していた夫妻の夫は死に、妻は生き残る――「衝突によって心から解き放たれた強迫観念によって、わたしは周囲のすべて性的可能性を見いだした。病棟いっぱいにあふれた回復期の航空事故患者が、イメージの売春宿を心に抱くさまを夢見た。2台の車の衝突は、究極の、これまで想像すらされなかった性的合一のモデルだったのだ。いまだとうちゃくせざる患者たちの傷痕がわたしをさし招いた。無限の夢想の百科事典へと。」(37頁)。
 
 最初の衝突事故によって、世間から後ろ指を指されないような、抑圧された性的欲求という足枷を外された主人公の周囲に、一人の男、ヴォーンが現れ、主人公に衝突事故による快楽の手ほどきを行い、主人公の周囲の人間、そしてかつての衝突事故で夫を死なせた未亡人をも巻き込んで、「クラッシュ」の乱交は広がっていく――「ヴォーンを通して、わたしは自動車事故の真の重要性を、ムチ打ち症と横転事故の意味を、正面衝突のエクスタシーを学んだ。」(18頁)。
 
 ヴォーンという存在は、主人公の衝突体験から生じたシャドウないしは分身(ダブル)――ゴシック小説では馴染み深いテーマ――と読むことができるし、ただ単純に衝突の快楽に憑かれた偏執狂と読むことができるだろう。そして交通事故(「クラッシュ」)の中に潜む暴力性と性的要素・・・・・・それらをただ、冷徹に記述するバラッドの筆の向こうに、ぼくたちは何を読むべきか。
 
 新しい身体、技術によって発展した新しいセクシュアリティ、新しい暴力、新しい逸脱ないしは倒錯、あるいは「テクノゴシック」etc…『クラッシュ』のストーリーは、冒頭におけるヴォーンの死(様々な衝突演習を重ねながら、ヴォーンが計画してきた、さる有名人との事故死)から始まり、主人公がどのような経緯で衝突の快楽に気づき、ヴォーンとの演習を通じて、その快楽を深化させてきたかという点に重点がおかれており、読み手は主人公の回想と共に、衝突の快楽を学ぶ旅に連れ出される。
 
 それらはただ、淡々と記述され続けるという点を踏まえれば、サド侯爵の『悪徳の栄え』に近い構造を持った、陰のヴィルトゥング・ロマンスかもしれないが、本作は序文で作者のバラッド自身が「もちろん、『クラッシュ』が扱っているのは想像上の災害ではなく、今現在差し迫った、あらゆる産業社会で制度化されている全地球的災害、毎年何十万人もの人を殺し、何百万人を傷つけている災害である。自動車事故の中に、我々は、セックスとテクノロジーの悪夢じみた婚姻の不吉な予兆を読みとっているのではあるまいか? 現代テクノロジーは、誰も想像もしていなかった手段で、我々の精神病理の扉を叩いているのではなかろうか? 生来の倒錯にたづなをつけるのは我々にとって利のあることなのだろうか? ・・・・・・言うまでもなかろうが、『クラッシュ』の区割りは警告にある。テクノロジカル・ランドスケープの辺境からますます強まりつつある声で呼びかける、この野蛮なエロティックな、光り輝く領域への警戒信号なのである。」(12頁)と述べるように、『クラッシュ』は「素晴らしき新世界」に潜む、名状しがたい、何がしかのテクノ・デザイアとも呼ぶべき、新しい衝動に対する警告でもある。
 
 警告という点では、陽のヴィルトゥング・ロマンスとして、『クラッシュ』を読むことが出来るかもしれない。しかしながら、冒頭で述べた、映画場『クラッシュ』を観てから、多分、十数年以上経過した後、『クラッシュ』を献本として受け取る、少なくとも1年以上前、信号待ちをしていたぼくは。目の前で一般車とタクシー同士の衝突事故を目撃した。

 カマを掘られた方のタクシーが急ブレーキをかけ、後続のタクシーがカマを掘る形になり、どちらに過失があるかということは明らかな事故だったが、掘られた側のひしゃげたトランク部分、追突した側の潰れたバンパー部の凄惨たる<表情>に、わずかながら胸を高まらせた思い出がある。もし、それら、ゲシュタルト崩壊した機械のフレームに、同じくゲシュタルト崩壊した人間の体液が、人間の生態フレームが混ざり合っていたとしたら、バラードの『クラッシュ』を読む前だったぼくは、一体どう感じたのだろうか・・・・・・もしかしたら、あの時以上に、こみあげる熱い何か(something hot)を押さえることが出来ず、もっともっと、前かがみになってしまたのかもしれない。






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  1. 2009/06/29(月) 03:17:05|
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JUNK

Author:JUNK
 いわゆるトコ、侍魂以降のテキスト系サイトとして惰性してから早4年(2005年当時)。日記部のみblogに移行しました。それまでの素性とか、堆積物は「サイト」の方を参照で。現在の方は「mixi」とか。

 飲んだ暮れ。夢想家。澁澤シンパとみせかけて種村派。専攻は一応、文化社会学とか言いたいんだけど、実際の専門的らしい専門はない(と思う)。

『家畜人ヤプー』、沼正三、女性のサディズムと父権制におけるマゾヒズム、少女のエロティシズム、アリスイメージの消費、ロリヰタファッション、ヘヴィメタル、サタニズム、オカルト、タロット、少女小説、テクスト論、表層的SM批判、ジェンダー論、クィアスタディーズ、なんかよくわかんないけど色々。

 文化批評系よろず同人誌「Kultur Trieb」主宰。執筆者、購読者募集中。HPとかはまだ作ってないので、詳しくはmixi内のコミュを参照。

「Kluture Trieb」(mixiコミュ)


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割と、お仕事関連とか、読んだ本とか、クダラナイ話とかもつぶやき中。

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