三人の女神は、あたしの傭っていた女衒がパリで見つけ出した娘たちのなかの、もっとも美しい三人によって扮装されたものでしたが、男達の欲望の一瞥を感じ取るやいなや、即刻お尻を丸出しにして、彼らの方へ差し出すのでした。二人の道楽者はこれに接吻し、ぺろぺろ舐め、理由もないのに噛みつきました。
「おお、サン・フォンさん」と侯爵が言いました、「この女神達に鞭打たれようではありませんか」
「鞭は薔薇の樹の枝がいい」とサン・フォンが言いました。
そこで二人の好色漢は裸の尻を突き出し、薔薇の花束や、この女面鷲身神(ハルピュイアイ)たちの蛇の鞭で、きびしく打たれました。
――マルキ・ド・サド『悪徳の栄え』
私は逞しいブルンヒルデに婚礼の新床で縛められるダンター王を嫉妬し、気まぐれな女王に狼の毛皮の中に縫い込まれて野獣のように犬に追い回される哀れな吟遊詩人を嫉妬しました。剛胆なアマゾネスのシャルカにプラーハの森の中で奸計の罠にかかって捕らえられ、ディヴィンの城に拉致されて、しばし暇つぶしの種に弄ばれてから車裂きにされたあの騎士スチラードが羨望に耐えませんでした――。
――ザッヘル・マゾッホ『毛皮を着たヴィーナス』
現代人は、もっとも勇気のあるものでさえ、自分自身にたいしては恐怖を抱いている。未開人の肉体毀損の習慣が。悲劇的にもいまだに自己否定という形で生き残っており、それがわれわれの生命を傷つけているのだ。人間は拒絶すればかならず罰をうけるのだ。われわれが衝動を絞め殺そうとすると、それは今度は精神の内部に潜り込み、われわれを毒し続ける。肉体はひとたび罪を犯してしまえば、その罪と手を切ることが出来る。行動とは一種の浄化作用にほかならぬからだ。罪を犯したあとに残るものといえば、快楽の思い出か、悔恨という豪華な感情だけなのだ。誘惑を除きさる方法はただひとつ、誘惑に負けてしまうことだけだ。
――オスカー・ワイルド『ドリアン・グレイの肖像』
とある店先の、背が高く幅のせまい鏡の中に、歩いてゆく自分の姿が見える。少し顔が蒼ざめ、眼がぼんやりしている。ぼくが求めているのは、ひとりの女ではなく、女の全部だ。ぼくは身のまわりに、ひとりひとり女をさがしているのだ。女はぼくのほうへ寄ってきたそうな様子を見せながら、そのまま通りすぎ、どこかへいってしまう。
――アンリ・バルデュス『地獄』
昨日はマゾッホ、今日はサド、今夜辺りはホッピーでも飲みながらミルンの『クマのプーさん』を少しばかり読むか。それよりも、『悪徳の栄え』が面白すぎてヤバイ。ジェットコースターにでも乗った気分でサクサク読めるよね。
一昨日は『ドリアン・グレイの肖像』、昨日は『毛皮を着たヴィーナス』、今日は『悪徳の栄え』という調子で、貪るように「そのて」の作品を読んでいるわけだが、3作品に共通なのは、可能性を持つ人物を、退廃や悪徳のヴィルトゥオーソへと導いていく教育者や、個人に対する「崇拝」である。
なんか昨日は久々にSlipKnotを爆音で聞いていたら、原歌詞の方をぼーっと眺めてたら、どんどん鬱々とした気分が上昇しいって、酒と、深夜のテンションが相まってネジが吹っ飛んで、明け方まで、身体は寝たいのに脳が寝ることを拒否するという酷い状態にあってまいった。
脳がさ「私も、崇高(sublime)を獲得し、崇拝されてみたい!」とかいってんの。鼻で笑っちゃう。市井の隠遁社が、キテレツな文章を紙の束に詰め込んだ阿呆船を世に放った暁には、誰か俺のコミュでも作ってくれwwww
帰宅して、とっととタロットについて書いて、アリスについて書こうと思ったのに・・・また無駄な日記を書いてしまった←普段、ほとんど携帯から日記書いてるから、早めに帰ってきた時くらい、ついついキーボードで日記を書いてみたくなるわけサね。
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- 2009/06/14(日) 20:51:24|
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