私の周りではmixiかな離れていく人間が目立ち始めた。その一方で、街で、店で、学校の講義室においてまでも。しきりにmixiの話を耳にすることが多くなってきている。特に、一番興味を惹きつけた話は居酒屋においてのこと。blogの方で書いたかは覚えていないのだが、私はmixiに対する無批評な賞賛―まぁ、mixiに対してのことではないのだが―を酷く嫌悪し、木ばかりを取り上げ、もっと顕在的な「森」を黙認しながら安っぽい口実を用い、健全さをアピールする姿勢に眉を潜めるのだ。私の嫌悪した「木」と森について、少し説明的になるが記そう。
毎度の如く、酒を飲みながら読書をしていた私の隣席にいた今風の若者たちの会話からもmixiが出てきていた。mixiはどのようなものか? という説明は実に単純明快な「業者の少ない出会い系サイト」というものだった。実に失笑を禁じえないのだが清々しい。先に述べた「木」ばかりを取り上げ、若者たち、つまりは「大衆」や「にわか層」が持つ認識である「森」の意識を黙認・周縁化する言説というものを次に紹介してみよう。
「もともと女性にも安心して使ってもらえることを意識して作ったサイトということもあり、比較的女性の割合は高かったのですが、現在では男性対女性が6:4。直近では半々に近い数字になってきましたので、通常の社会と変わらなくなってきたと思います」(mixiの達人クラブ,2005,『mixiでこんなことまでできた!』,204頁。イーマーキュリー代表 笠原氏のインタビューより)。
実のところを申せば、笠原氏自身の発言では「森」も「木」も見ていないのだ。では、その言説は誰が捏造しているのかといえば、上記の引用元を筆頭としたガイドブックの類である。
私のスタンスを少し語るならば、反大衆的に加え既存のジェンダー構造―特に男女間における所有と従属の関係。性的主体としての男性象という虚構に支配される男。性的客体に追いやられることを被害者意識と混同し、神経質にわめき立てる女性言説などを滑稽と評しつつ、何故かしら女性との交流ばかりが多い。
つけ加えて、私が交流を持つ女性の殆どはロマンティック・ラブイデオロギーに懐疑的であり、リベラルとまでは行かないが、積極的に性を語る女性たちである。そのためか、性や恋愛というものを語る際は男性的ではなく、女性的―それもフェミニンともリベラルとも規定しづらい位置。敢えて、自己規定を行うならば「グラデーション的な性言説」の中間点に立脚し、性の神聖視を嘲笑する澁澤龍彦的エピキュリアンとでも言っておこうか。そのような立ち居地で性言説を語る。なお、澁澤龍彦の性哲学が私の考えはイコールで結ばれないが、便宜上。むしろ、私が敬愛しているからこそ、私の言葉で規定するにあたって「澁澤龍彦的」という自己満足的冠詞を付け加えたことを強調しておく。
そのような立ち位置に居る為、ある種の「あざとさ」に対して敏感に反応することが多い。「あざとさ」には、森を隠蔽しようとする、無批評な賞賛も含まれている。それら、私が苛立ちを隠せない文脈たちに対する、私なりの嘲笑を如実に表しているのが、「mixiの出会い系化」が顕在的になってきたことに対して、mixi内で軽く綴った下記の文章だ。感情論的な若書きであったので、かなりの添削と推敲を加えてあるが。
「mixiは「知り合い系」と称されることが多い。mixiの素晴らしさを称賛するのみに徹する書籍においても、しきりに「出会い系とは違う」と言う点が強調される。 一方、「出会い系ではない」という点を妙に強調するあたり、mixiの称賛に徹した本の著者たちを含めた参与者たち―mixiに関する帰属意識が強い層と解釈できようか―の政治的な意図を感じ取ってしまう」
mixiは売り文句の一つに、「安心感」や「女性参加者の多さ」といったものがある。しかし、「安心感」が高く「女性が多い」という点。さらに、コミュニケーションを取ることの手軽さ(オフでの会いやすさを含む)があるという事実を。それらの事実によって「出会い系(広狭を含む)」的な性質を実際に帯びており、前述のような認識が広く知れ渡っていることを否定する時点で、「知り合い系」という分類にmixiの正当性―というよりも、mixiに対して強い帰属感を持つ者たちが、「健全さ」や「神聖さ」といったアイデンティティ構成に関わる一部分を強化し自己高揚を行うための手段として用いているように感じることが、私の感じる「あざとさ」なのであろう。
結局のところ問題はmixiのシステムではなく、様々な思惑を秘めてmixiという箱庭に参与してくる者たちの意識に依ってしまう。然し、何度も繰り返すようだが、手軽さ・安心感などのポジティブな側面が売りとなり、mixiが「出会いやすさ」を助長している点は明白であり、mixiの会員数が拡大し、マス・メディアに取り上げられ、再び会員数が増える。そのようなダイナミズムの過程において、日に日に「業者の書き込み」や「出会い系サイトへの誘導を目的としたアカウント」が目に余る程増えているこの現状を、(ネガティヴな意の)「出会い系」と言わずして何と言うだろうか。
尤も、mixiに対しての帰属意識や所属感―そのようなものを一切感じていない私としては、mixiが「出会い系」だろうと「業者の巣窟」であろうと関係が無い。ただ、観察対象となりうる様々な事例や、知を狩猟するための指針となりうる情報。興味関心を持つ人物との接続などを得るという点においては、非常に有益である。恐らく、mixi内における醜悪な惨状を見なかったら、下記に引用する一文は書かなかっただろうし、先に述べた「澁澤龍彦的エピキュリアン」思想を体系化することは無かったかもしれぬ。何故ならば、交流を持ち女性が主体として性に向き合うことについての議論を重ねてきた女性の大半が、mixiを経由して知り合った関係であるからだ。
「どうも近頃、mixi内で出会いパーティの参加者募集が目立つようで。それらの催しは「売り」として、参加者たちの出身・在籍大学名をやたらと強調する傾向がある。面白いのが、男の方は「東大、早稲田、上智」。対し、女の方は「白百合、大妻、フェリス」等々。ものの見事に学歴のジェンダーが見て取れる。
マス・メディアにおいては、高学歴を有する女性の出身大が強調され、売りにされる。売りは軒並、六大学であることが多い。だが、先に挙げたようなパーティに目をやると、男は高学歴―経済資本の同義語として用いられる『教養』を、高く保持することのメタファーとして解釈しても良いだろう―が強調される。女においては「極端な女性性」や、男の目に写るブランド―○○出身の女を「モノにする」ということで、自己実現・自己称揚・他の男に対する差異化/優越を得られる可能性との出会いが強調される。」
スポンサーサイト
- 2006/04/11(火) 13:37:24|
- 未分類
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0