2005年1月、横浜黄金町の赤線地帯―ご存知の方も多いであろう、京浜急行の高架下に並ぶ、あの不気味とも言える雰囲気を携えたスナック街(中身はチョイの間である)―の一掃作戦が敢行された。現地である黄金町を訪れたのは2005年の12月。昼も夜も、竹刀を持った警察官位しか人影は無く、珍しくロシア語までが記載されたストップ・ザ・エイズを訴える看板が更に退廃感を煽っていた。
日が沈み、夜になった頃、黄金町の赤線地帯に立ち、桜木町駅の方を向けば彼方に見えるMM21という名を持つ進歩の象徴が見える。土着的で猥雑な領域と、桜木町駅を挟んだ向こ岸に見える進歩的な世界。その滑稽な対比が腹を抱える位に可笑しかった。それと共に、黄金町を訪れる半月程前に見た渡辺孝明監督の『生きる』―1981年における寿ドヤ街の記録映画―を思い出しながら、それまで不可視だった横浜の顔を、再び垣間見れたことに対する満足感を感じるこた嬉しさも湧き上がっていた。
私は、生まれも育ちも大田区であり、自宅からは多摩川が近い。多摩川土手から川向こうを眺めれば、戦後の占領軍を塞き止めた横浜を市抱える神奈川県の川崎市が見える。母親が横浜市内で事業を起こしていることもあり、川崎・横浜は馴染み深い町である。そして、最も強く、猥雑さのある蒲田と相対的な煌びやかさを持つ大都市横浜のイメージを植えつけたのは1989年の横浜博覧会である。
バブル景気の真っ最中で、事業の景気も非常に良く、みなとみらいの壮大さに喚起しながら、遊覧船―氷川丸のような気もした―に乗り、煌びやかな中華街を満喫し、そごう・高島屋などに驚く。子供心にして、横浜は超大都市のように感じていた。余談だが、今は無き川崎西武(跡地はヨドバシカメラ)や、かろうじて残ってるような感じもある川崎さいか屋のイメージか、川崎もまた、とてつもない大都市のように感じていた。
映画『生きる』を見たことによって、それまで不可視と感じていた寿ドヤ街の実情や風景―町の歴史であったり、進歩・発展に伴って覆い隠されてきたもの―を認識したように、伝説的(となった)な娼婦であるメリーさんを取り巻く文脈を追っていくことで、MM21のイメージの下で不可視・周縁化とされていた横浜の顔を認識することができた。
父親は、1960年代後半から新宿で頻発していた紛争を度々目にしていた団塊世代であり、メリーさんについても実際に目撃したわけではないが、噂は良く聞いていたという。私が横浜方面に出入りし始めた頃―恐らく、博覧会以降の90年頃で、当時は9歳前後である―はまだ、横浜にメリーさんの姿があったと思われる。また。高島屋にはゲーム売り場を目当てにして頻繁に訪れることかった。だが、14年近く前の記憶を逐一思い出せるわけではないが、メリーさんに遭遇した記憶は無い。遠い記憶とはいえ、白塗りの老いた貴婦人の姿をマジマジと見ていたら、メリーさんの写真を見た時に「ああ!」という声を張り上げるだろう。残念ながら、メリーさんの写真を見た時、そのような感嘆の声を張り上げることは無かった。
私が良く口にする言葉に、
「白い仮面の天使」(2006/01/02)でも書いている、人間は「性と恐怖を克服することができない」というものがある。
『さよならメリーさん』を読了して、「メリーさんは過酷な人生の中で、少なくとも性を克服することが出来たんだね」などと、出来すぎた感想を持つはずも無く、より一層、「性」と「恐怖」という二点を克服することは、まだまだ出来やしないのだという感想を、メリーさんの生涯や言葉の端々から感じとった。
メリーさんを知ったのは、映画
『ヨコハマメリー』の封切り決定(2006/04/15公開予定)の報がきっかけであり、前述の『生きる』を見てから暫く経った頃のことである。『生きる』と同様、輝かしい大都市のイメージを持つ横浜の下に隠れた猥雑さ・土着性・歴史の連続性といったものの中でも、特に不可視に追いやられているものを浮き上がらせてくれるような―それこそ、横浜風景を描いたジグソーパズルを完成されるために必要でありながら、忘れられている1ピースの存在を知るきっかけを与えてくれる映画であるという期待を持っている。
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- 2006/04/03(月) 20:49:20|
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はじめまして。
「メリーさんの故郷の写真」というブログをつくっています。
「ヨコハマメリー」とはかなり違う視点からメリーさんを扱っています。
↓ ↓ ↓
http://yokohamamerry.jugem.jp/
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- 2008/05/04(日) 13:37:52 |
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- 檀原 #lEgQRMPs
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