とりあえず、外で酒を一杯引っ掛けて、また家で飲んでいるわけなんだけども、アレだよ。酒が切れたし、『Jackass』を見た後の余韻を愉しみながら、ちょっと昔話でもしてみようか。
お前さん方、俺が酒を燃料代わりと感じているのは、このクダラナイ生き地獄な常世と、不安に苛まれ続ける自分とを繋げるための手段じゃあないかなぁ? なんて思ってきたわけだ。近頃。
学校から地元の飲み屋に向かう最中は毎度の如く、酒を片手の本片手。そんな排他的な様相なんぞを振りまきながら、電車内に溢れる「凡庸な人々」―大衆と反対大衆の線引きをした際、後者が前者を卑下する流れでの呼称―と言うか、器用で健全で、爽やかな奴ら。もしくは、「彼/He・彼女/She」から「所有の関係」に押し込められることに何の批評も抱かず、トレンディなイデオロギーに操作されるような連中。即ち、反大衆を自負する人間たちが、己のアイデンティティを保持すめための合わせ鏡とも言うべき連中。そんな奴らを観察して、自分が何故に、酒と知性に耽溺しているかを省みてみた。反大衆的という点を、優越や真性の拠り所にしている人間が。
不安な自分のアイデンティティとかいう近代的発明を安定させるため、「駄目すぎる俺(友達がいない)/器用な奴ら(友達がいる馬鹿学生ども)」という、二項対立を嫌悪しながら、筋肉少女帯の「蜘蛛の糸」的精神で、ミカエシテヤル! とガムシャラに勉学―何かを学ぶというよりも、とりあえず反吐が出る位に醜悪で、無力で、不器用な自分をどうにかしたかった―に励んできた。それが無気力から立ち直った大学3年から、大学4年の前半にかけてか。
ガムシャラな勉学活動と平行して、ガムシャラに、差異と優越を付ける為の衝動―いわば外的目的だったように思えた勉学が、内的なものへと向かい始めた頃。つまり、知の快楽が芽生え始めた辺りから、それまで以上に酒を浴びるようになった感じがある。知の快楽に目覚めたと同時に、生というか、常世に対する強い執着心のようなものが芽生え始めたのかね。
帰りの電車の中で酒飲みながら本ばかり読んでいたせいか、知の快楽ってのが、酔いによる錯覚だったのかもしれないね。案外。その錯覚を馬鹿正直に信じて、突っ走ってきた結果が、今か。ふと気づけば、晴れ晴れしいココロと、少しはマシになった大学レベルでの学力を得たっていうもんだ。
さぁさぁさぁ、お立会い。可哀想なのは、この子でござぁい。見てやって下さい、病んだ精神。親の因果が子に報い。はたまた、海に沈んだ神殿の、奥に眠りし邪神の目覚めか、生まれた息子は駄目人間! 嗚呼、我悲しき駄目人間。日がな図書館を這いずり回っては、書物を抱えて空笑う。彼岸花を指さして、夜毎に酒を浴びて飲む。
酒を浴びてはヒシヒシと、電車に揺られて書に浸る。口を開けば哲学なぞと、形而上学振りかざし、立派な人々批判する。書を捨てられず街へ出て、月夜の下で頭振る。ダルマ女に血を吸う宇宙。顔面奇形の象男。消しゴム頭に、電鋸振りまう皮の面。赤いテントで人さらう、一大解放治療に収監されるが相応しい狂人脳内サーカスの始まり始まり。お代は見ての帰りで良いよ!
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- 2006/03/20(月) 00:15:48|
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