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続・JUNK屋日誌

blogへのテラ・フォーミング(2005/12/17)。遂に時代の流れには逆らえづ、本サイトの日記のみをblogへ移行。

モバイル・スポーン

 また暫くの、blogにおける更新の放置期間が続く。mixiの方は、相変わらず一日も欠かさない(様々な情事や放蕩に耽っている際は、たまに欠くこともある)更新を行っている。それは何故かというと、携帯から、内容を思いついた時に、即座に更新しているから。もう、そういった状態なんだ。テキストサイト時代には、「○○日」連続更新というものが、ひとつの売りになっていたけれど、今はもう、そんな時代ではない。mixiのログを観てみると、1月1日~5月14日までは、連続的名更新がなされている。後は、数ヶ月に一回、更新が空いた日――その多くは、飲んだくれているうちに日付が変わったり、淫蕩に耽っているうちに日付を跨いでしまったということが多い。

 つまり、携帯から此方のblogを更新できるように設定するのを相変わらず忘れていたというやつ。明日からは頑張るよ…。多分。酒に飲まれないうちに設定しておこうと思う。さて、在り難いことに、以前…というか、去年に殴り書きをした論考(当時は澁澤龍彦の著作を濫読していたために、当時においても自覚はあったのだが、文体が澁澤龍彦の影響をモロに受けているということが伺える)に対して、書き手の魂を刺激されるコメントを頂き(コメントついては投稿者設定で、管理人のみが閲覧できる設定になっているので、申し訳ないが内容は省略させて頂きたい)、改めて、その当時に書いた論考を見た、今の自分の考えを記してみたいと思う。

 当事の論考、「性前説と環境説のハザマで」は、匿名性に対する一方的な批判と、記名性であることを絶対的な正義とするような偽善者たちに対して向けた批判という趣を持っていた。ちなみに、「生善説」が正しいのであろうが、私のPCのIMEの白痴具合が「性善説」と変換してしまったことに気づかづ、そのまま更新してしまったが、いまさら誤字を直すのもメンドクサイので、そのまま放置しておく。

 論考の中では、ネット世界が独自的な空間であるという思い込みに対する批判を唱えた。匿名性が、いわゆる「潜在的名悪意の表面化」を呼び起こす可能性を持っていることは否定しない。しかし、匿名/非匿名を問わず、悪意は得てして表面かするものではないかと私は考えている。例えば、mixiの様々なコミュニティにおける罵倒や罵り合いを見てみれば、それはすぐさま理解できるだろう。「ネチケット」なる概念は、もはや死語に相応しいものといっても過言ではない。

 では、何故、そのような状況が起こり始めたかという点を考えるなら、一番重要な変化としてはi-modeの登場。そして、それに伴う携帯電話からのインターネット接続の発展に他ならない。「ネチケット」という概念が、インターネットに参与する多くの人々の背後で、ユーザーたちを脅かしていた時代のことを考えてみよう(この辺りの時代を理解するには、恋緒みなとの漫画『俺通AtoZ』を読むのが良いかもしれない)。日本におけるインターネットが、まだ「パソコン通信」と呼ばれていた時代、インターネットの世界に参与するには多くの障壁があった。
 
 この「障壁」を、フリーメーソンを筆頭とした秘密結社に習って「参入の儀礼」と呼んでも良いかもしれない。さて、その儀礼に用いられる<祭具>だが、パソコンは言うまでも無く、通信用のモデム、パソコン通信に関する知識、そして<クレジットカード>である。「テレホタイム」(23時~翌朝8時)に活動できる家庭環境も、付け加えるべきかもしれない。クレジットカードを強調した点は、現在でもインターネットのプロパイダとの契約に際しては、多くの場合クレジットカードが必要であるという点があるからだ。私事について少し述べるなら、私がパソコン通信を知ったのは大体、小学校の5年頃。西暦に直せば1993年頃だと思われる。当事のプロパイダといえば「ニフティ」と「PC-VAN」が二台巨頭であった。幼心に、私はフリーソフトが溢れ、議論が活発なパソコン通信の世界にダイブしてみたいと思い続けたが、最も高い障壁となったのが「クレジットカード」と「プロパイダ契約」であった。
 
 しかし、携帯からインターネットへの接続が容易になり、しかもパケット通信料の定額制度が一般化し始めた現在、私がパソコン通信の世界にダイブしようと試みた際に立ちはだかった二つの壁を簡単に乗り越えられる現状にある。まとめてしまえば、日本における現在のインターネット世界は、参入儀礼を通貨することのない人々が気軽に参入できるような状況にある。彼・彼女らにとっては、非現実/現実、現実世界/電脳世界、リアルワールド/ワイアード、エチケット/ネチケットの境界が曖昧であることが多い、といっても過言ではないだろう。
 
 私がネットの世界に参加し始めた1999年当事の思い出は、常にネチケットを意識し続け、チャットへの参加も、いつネチケットを侵害して他の参加者から糾弾されるかということに対する危惧を持っていたことを今でも覚えている。しかも、初めてのインターネットは「ドリームキャスト」から、一般電話回線を用いてのアクセスだった。
 
 現実世界からネットの世界へ接続した私は、JUNK(思えば、このHNは1999年からずっと使い続けている)というHN(ハンドルネーム)を持った、現実での名前とは全く異なった人物として、現実とは異なった(とはいっても、現実の延長にある事柄は数多い)ネチケットに従う、電脳世界の一人物としてコミュニケーションを行ってきた。最近のHNにみられる傾向としては、現実の名前に近いものや、現実でも使われているあだ名を用いたものが多いようにも思える。この点は、現実世界と電脳世界が曖昧なものであるという認識を、参入儀礼を通過しなかった多くのユーザーに抱かせている要因のひとつだと私は考えている。
 
 携帯電話の技術発展は、(とりわけて)若者に大きな変化をもたらした。これは多くの携帯文化論で言われていることではあるが、形態電話は常に身近にある、もしくは手放せないものであり、携帯電話自身に記録された様々なデータは個人の記録・体験とイコールで結ばれるものである。いわば、携帯デ電話が移動式の個室(プライベート・ルーム)として機能しているということである。
 
 現代で盛んに論じられる「個室」を想像してみよう。個室に欠かせないものとしては、電話、テレビ、そして現在ではパソコンがあげられる。パソコンの用途としては、ワードプロセッサ、インターネット、画像の加工・保存、音楽・音声の再生、そして「ゲーム」などがあげられるが、「ワンセグ」を搭載した携帯電話が定着し始めた昨今、現在の携帯電話は、私が先に挙げた「個室」に欠かせない要素の殆どを満たしているのだ。
 
 携帯=個室論が盛んに叫ばれ始めた頃はまだ、携帯でテレビ放送を鑑賞するという展望はなかったようにも思える。しかし、通話機能、テレビ放送の受像、電子通信、そしてゲームまでも抱きかかえてしまった携帯電話は、より一層の個室感を携帯電話ユーザーに抱かせるものではないだろうか?
 
 mixiのコミュニティで、批判の対象として盛んに取り立たされる問題がある。それは電子時代の変体文字/少女文字――80年代にサブカルチャーとして一世を風靡した「丸文字」や「少女文字」を想起されたし――ともいうべき、「ギャル文字」や「小文字」、そして「絵文字」の使用である。mixiのコミュニティでは、相談や質問のトピックが立てられるのが慣例であるが、トピックのタイトルや本文の中に前述した現代の変体文字が含まれる場合、レスポンスの最初にくるものは、「質問なのにギャル文字や小文字を使うとは何事だ!」という糾弾である。私が見た中で、特にすさまじかったものは、ライターや文章関連のコミュニティで、トピックや本文に前述した文字群を乱用する質問に対して、大人気ない参加者たちが「文章書きや、そういった業界を志望するなら、まず正しい日本語を使え!」という大糾弾を繰り広げる様であった。
 
 とはいえ、大の大人が参入儀礼を経験しない無垢な若者たちの襟首をひっとらえて、これみよがしに糾弾する様については、失笑というか嫌悪感を呈し得ないのも事実ではある。糾弾という悪意が表面化した連中のどれだけの数が、トピックを立てた若者を糾弾するほどの文章力や日本語力、ついでに道徳的人格を持ち合わせているのだろうか? この点については、甚だ疑問に思うところでもある。
 
 さて、何故そのような自体が頻繁に巻き起こるのかといえば、前述した個室化の議論が主要な原因であると私は考えている。携帯が高機能化すればするほど、若者(時には成年・中高年ですら)携帯を持つことで、外にいようとも自分が満足できる個室の環境を携帯できるという錯覚に陥るということだ。特に、若者の場合はファッションだけでなく、自分たちの世代や仲間内で通用するような言語用法(これをスラングと称していいかは一考するところではあるが、『時計仕掛けのオレンジ』におけるドゥルーギー(仲間達)の中で用いられる奇妙な造語…例えば「デポチカ/女」「イン・アウト/性行為」「ガリバー/頭」「ホラーショー/ロシア語のハラショー的な意」といったものに近いかもしれない)を用い、自分たちと近い人たち/そうではない人たちを区別する傾向が強い。自分に近しい人間たちと付き合い続けることは、コミュニケーションによる失敗をできるだけ避ける、つまり傷つく可能性を徹底的に排除することでもある。対人関係で傷つくことからの回避について、90年代半ばに宮台真司や中島梓らが盛んに論じてきたものであるため、興味がある方は参照されたし。
 
 携帯電話が個室にいることを錯覚させるという点については、既に述べたとおりだ。また、個室にいる感覚を維持しながら、特定の、コミュニケーションに伴うリスクの少ない仲間達と、各種変態文字で綴ったメールを交わすことによって心の安息と、円滑な対人関係が達成されたことによるに満足感を手に入れることができる。そういった満足感の延長の中で、彼・彼女らはインターネットの世界に進出しているといっても過言ではないだろう。ただし、あくまでも個室の中にいる感覚からは抜け出さないままで。
 
 ありきたりな言い回しだが、彼・彼女らは「内と外」の区別ができていないのだ。mixiなどの開かれた場、いわば「サイバー・パブリック・スペース」とも呼称できるような電脳世界の外界で変態文字群を利用するユーザーは、携帯電話からインターネットにアクセスしていることが多い…というのは私の私見ではあるのだが、携帯電話からのインターネットアクセスや、今で言うところのblogに相当するようなweb日記のサービスが充実していなかったテキストサイト時代(ブームとしては2001-2003年頃までを指す)には、変態文字群が登場することは少なかった、もしくは、ほぼ無かったと記憶している。もっとも、携帯メールの中ではかつてのポケベルに見られたような暗号めいた変態文字が乱立していた可能性はあるだろうが。
 
 これは、携帯のインターネット接続サービスが便利かつ普及するにつれて、個室にいる感覚を維持したまま、仲間内の閉じた世界のノリでサイバー・パブリック・スペースに点在する他者に語りかけているということを意味している。
 
 如何に合理的なハード、つまりはネットワークやネットサービスを整備しようとも、ソフトに相当するユーザーは個々人の<意思>と、個々人が内包する<善/悪>の価値によって、好き勝手に行動している。その流れを制御することは難しいというのが私の考えでもある。真面目な質問に変体文字を使うとは何事か! という糾弾に対して、私は一部分では賛成であり、一部分では糾弾者に冷や水を加えたい感覚にも駆られてしまう。木ばかりを祀り上げて、何故に森をみないのか? という話だ。
 
 個々人のネチケットが欠落していることをあげつらう前に、参入儀礼無しに、携帯型の個室からネット世界へ飛び込んでくる新世代の来訪者たちに対して、どのようなネット/メディア・リテラシーを伝えていけるのかを模索することが重要なのではないだろうか? 匿名/非匿名を、単純な善悪二元論に還元してしまうことや、正しくない(そもそも正しい日本語の定義は?)日本語を公的な場で使うことは悪だと一方的に糾弾し、何故そのような状況が起こるのかを考えようとしない怠惰な姿勢こそが、諸悪の根源なのではないだろうか。

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  1. 2007/12/02(日) 02:44:09|
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JUNK

Author:JUNK
 いわゆるトコ、侍魂以降のテキスト系サイトとして惰性してから早4年(2005年当時)。日記部のみblogに移行しました。それまでの素性とか、堆積物は「サイト」の方を参照で。現在の方は「mixi」とか。

 飲んだ暮れ。夢想家。澁澤シンパとみせかけて種村派。専攻は一応、文化社会学とか言いたいんだけど、実際の専門的らしい専門はない(と思う)。

『家畜人ヤプー』、沼正三、女性のサディズムと父権制におけるマゾヒズム、少女のエロティシズム、アリスイメージの消費、ロリヰタファッション、ヘヴィメタル、サタニズム、オカルト、タロット、少女小説、テクスト論、表層的SM批判、ジェンダー論、クィアスタディーズ、なんかよくわかんないけど色々。

 文化批評系よろず同人誌「Kultur Trieb」主宰。執筆者、購読者募集中。HPとかはまだ作ってないので、詳しくはmixi内のコミュを参照。

「Kluture Trieb」(mixiコミュ)


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割と、お仕事関連とか、読んだ本とか、クダラナイ話とかもつぶやき中。

@junk666
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