ジョースターさんよう。俺ぁアレなんですよ。いわゆる「学校知学力」―学校(高校までの、教科書依存や偏差値教育)で教える事物の蓄積量・正確さを問う「学力〔gaku-ryoku〕」。言い換えるなら、「頭の良さ」という至極曖昧な概念は偏差値という形を持ってで顕在化され、一先ずは学校知の力量を測るための普遍的物指しとして機能する風潮。そういった流れとは無縁の存在なんですよ。
もし、偏差値という物指しで俺の脳髄を測ったらアレですよ。ジェノサイドですよ。化けの皮が剥がれちまうwww 一気にヒエラルキーの下部に落ち込むワケだ。潤沢な偏差値資本を所有し、それに付随する「学歴という肩書き」しか売りの無い、偏差値階級者供の靴―権力や支配力の証―でも舐めてやるか?(´∀`)y-~~ 偏差値は無いが、ジジイのファックと同様、気合のある言語資本はあるぜ。
例えば、「学校知学力」における「歴史授業」を一つ取り上げたとしても、歴史事件が紹介され、暗記を求める「だけ」で、それが起こった社会背景や、後に引き起こした影響。様々な文脈に立ってみた際浮き上がる、その事件持つ多彩な意味の無検討を強いられる。その点は「学校知学力」の悪癖の一つと言える。数式や記号の暗記や、語学という文脈はまた別の話になってしまうため、割愛。というか、歴史を例に出した「学校知学力」批判が一番解り易い―自分が人文系にどっぷりな人間であることも手伝って―ためである。
まぁ、「学校知学力」に疑念を呈する身としては、事件の起こった年号を、一桁の末尾まで正確に暗記する必要は感じない。むしろ、事件を自分の言葉で如何に解釈・批評・理解するかが問題なわけだ。例えば、自分の例を挙げるならば、フランス革命の以前・以後―すなわち、18世紀以前以後を節目として考える。まぁ、サド侯爵殿が世の中に放たれる前か否かをひとつの節目として考える。つまり、歴史を把握するには、自分なりの節目を得ることが非常に大事であると考える。
自分なりの近代史でも良い。近・現代史や社会史でも良い。自分が興味のある、または、潤沢に語ることのできる引っ掛かりを軸として、歴史の体系を把握するのだ。それは、金太郎飴のような「学校知学力」では成し得ない点であり、学ぶ喜びや知の実感を体験できる行為でもある。
中学生レベルまでなら、基礎学力―歴史事件の認識や、歴史の変遷についての確認など―をつけると言う点で暗記型で構わないとは思う。だが、高校レベルでは前述のことを施すには十分では? とも思う。知識を蓄える・暗記することは、確かに重要だ。詰め込み・暗記型教育も、その全てが悪ではない。現に、他の諸国と比較した際の、脅威的とも言える日本国民の識字率の高さは、義務教育と詰め込み型教育の良い帰結と言える。だが、しっかりした思考を展開できる(と思える)年齢においても尚、詰め込みを要求することが問題である。また、それを煽る熾烈な受験戦線―近年は大学の全入がしきりに叫ばれている。また、大学の全入化が進んだ際、塾や予備校といった「偏差値ビジネス」がどのように対応していくのか? という点iには非常に興味がある。
現在、「学校知学力」では得ることのできない、学ぶ喜びや知の実感といった感覚の入り口迄を導いたり、そのきっかけとなる啓発作業を担うのは、大学教育の役目になっている。あとは、個人の関心や意欲の問題だろう。大学教育経験のある・無しによって解釈や批評精神の有無が決まることは、断じて無い。少なくとも、多面的な誌や、難解な本への挑戦心。様々な資料を用いての論展開や、潤沢な言語力。論理的な文章展開。ドッグ・イヤー的に移り変わる社会への対応。自らの専門から見た社会評論。といった点は、やはり、大学教育を受けた側の方が、環境的に恵まれており、能力的にも優劣が出てしまうことがある。という点は否めない。ただ、ここで強調しておきたい点は、
大学教育を「熱心に」受けてきた者でなければ、先に挙げた様々な点を能力として用いることなぞ、できやしないという点だ。それが実益を伴う学力であっても、学問の中でしか通じ得ない学力であってもだ。駒林邦男,1999,『改訂版 現代社会の学力』
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- 2006/02/16(木) 22:48:26|
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