最近は日本語教育のオベンキョ実行中。日本語を外国語のように把握・理解する営みの何とも愉快なことよ! あくまでも「教育」が前提であるため、日本語は日本語で教えるのが良い――日本語クラスを想定した場合、生徒全員が英語を母語と、もしくはアルファベート圏に属する言語を母語にしているとは限らないため――という感じの記述を読む。Ich auf!
とはいえ、日本語よりも英語をまじめにやれ! 神様にお祈りは? ドイツ語はどうした! 使い魔をだせ! ノルウェー語はまだか!? 霧に姿を変えろ! 部屋の隅でガタガタ震えて命乞いをする準備は OK? ハリーハリーハリー! というお叱りの声が各所から聞こえてきそうな状況にある最近。
ムキー! 言語学習は複数言語を同時に学習した方が効果的なんですぅ! 日本語を外国人に教えるには、相手の母語(繰り返すが、<外国人だからといって英語>とは限らない)に少なからず精通しておくと意志疎通もスムーズであるばかりか、教育者自身の能力向上にも繋がるのです。
――閑話転回
俺が横浜に行く際は大抵、偶然にも新古書セールをやっているわけで、昨日も横浜にいたら開催中だった、依然として。新古書セールが。二週間前位にはムンクの版画集を買ったっけね。
――また、新しい仲間が増えました
沼正三の敗戦・911・『家畜人ヤプー論』などを含んだヱッセイ集『マゾヒストMの遺言』、それから「ROCOCO」なるロリータ/ゴスロリ・パンクスタイルを扱かったムックの1・2号。カストラートについての特集があったり、「ゴスとは何か?」を問い直す特集が掲載されていたので手にとったら、平成バンドブーム辺りから近年に至るロリ服の変遷年表が――ゴスロリに絡めたゴシック論を構想しているのだけれど、そういった年表みたいな資料をどれだけ欲したことか! ついでに黒色スミレについても頁割いてあるから、2冊とも手に入れてきた。ソレにしても沼正三ね。
「マゾヒズムにはキリスト教的な立場からのキルケゴールとは質を異にするも"死に至る病"といったものが心奥深く刻み込まれているものである。フーコー亡きあとはジル・ドゥルーズだと期待され、マゾッホ研究に哲学的思索を傾注したフランスの思想家の彼が、病苦のためだとはいえ、突然或る日自死を遂げたことなどが頭の片隅によぎりつつ、矢川澄子氏の自死は私にとってはひとかたならぬ衝撃であった。同時に、死とは、さなきだに常に私を誘惑してやまない不可知なるあるものであったからである。上昇よりも下降を、向上よりも堕落を、安吾ではないが堕ちて堕ちてなお堕ちよ! である」
前掲書から適当な頁を引いてみたけど、ホント、沼正三の筆先からは素晴らしい文章漏れだしている。『家畜人ヤプー』の方は、ヤプー学の講釈やチン棒の下りではエキサティングだが、中だるみして寝た記憶がある。加えて、前・澁澤龍彦夫人という肩書きをつけたほうが興味を引きやすい矢川澄子ね。
「さいごにひとつ、おねがいがあります。『家畜人ヤプー』と『ある夢想家の手帖から』の二作を以て活字の世界から姿をくらましてしまわれた沼先生、いまはその生死すらも定かならぬ先生に、もしもあと一作、何かを世に遺すだけの余力がおありでしたならば、この上はどうぞ珠玉のメルヘンの一篇をわたくしどもの書架にお送り下さいますよう/どんなものを? さあ、スウィフト以上にスウィフトな、ワイルド以上にワイルドな、とでも申し上げておきましょうか/それは美少女の残酷です」――矢川澄子「一架空作家への手紙」『反少女の灰皿』(1981)
沼の文体と同様、矢川のそれは名状しがたい高揚感や至福感――make me a happyな感覚を与えてくれる。嗚呼、死ぬまでに一度で良いから、沼や矢川の文章を読んことによって己が眼前へと突きつけられたた感動や衝撃のある文章を書いてみたいね。自らが記した文章を自分の手と目を使って読んだ際に、沼/矢川的な感動が牙を剥きながら擦り寄ってくる感じの文章を。
スポンサーサイト
2007/07/31(火) 21:40:11 |
未分類
| トラックバック:0
| コメント:0