ものスンゴク大雑把に括ってしまえは、mixiは内であり、blogは外である。その差異は、プロフィールをある程度積極的に開示しつつ特定の相手に文章を公開するか、最低限のプロフィールを公開しつつ、不特定多数に情報を公開するか、というところだ。
それを踏まえると、mixiにおける日記・テキストは必然的に日常生活や、雑記的なものに終始する可能性が高い。しかし、そこはアレだ、内だろうが、誰に見られようが、お構い無しに書きたい文章―内から湧き出る批評を書きたてる始末。mixiの更新は6割方携帯から行っている(携帯からの分際で長文多し)。そのため、家に帰ってきてPCの電源を入れた後は、誤字・脱字の手直しや文章の一部推敲を行う程度で、新規に文章を書き下ろすという習慣が減りつつある。ここ最近のblogに対する更新頻度が低い原因の一端はそこにある。
そのため、お茶を濁すかのようにmixiに書いた文章の再録が続くわけだ。今回のテキストもだが、mixiには載せてない書下ろしの文章もちょくちょく書くから、そこら辺りは勘弁してくれヨ。
さて、mixiの方はキャラクター性―それを構築するために、潤沢な自己開示(プロフィール)が存在している―が日記・文章に大きな影響を与えている部分が大きい。これは、かつて黎明を極めた侍魂以降のテキストサイトブームについても、似たようなことが言える。ただ、そのキャラクター性=お約束ネタや売りばかりを頼っていては、発展を見込むことができず、いつかはネタを切らしてしまう。「テキストサイトがつまらなくなってきている」という言葉を最近聞くようになったが、前述した悪癖に依る部分は少なからずあるのでは? と、キャラクター性に頼った文章を、侍魂のブレイクと共に始まった2001年のテキストサイトブーム以降、大体1年半に渡って垂れ流して来た私は思う。
かつてのように、「非モテ」や「痛い」キャラばかりを前面に打ち出し、どうでも言いような事をさも大仰的に、フォント弄りを駆使して書き連ねる手法にはもう飽き果ててしまった。その反動か、「中身のある・読ませる文章を!」という強迫観念に苛まれる模索期を経て、現在のスタイルに落ち着いた経緯が、私が四年以上に渡りネット上に垂れ流した文章には存在している。
とまぁ、そんな昔話は擱いてく。さて、私は先ほど、mixiは潤沢な自己開示があるという点を指摘した。併せてキャラクター性が文章に影響―先には書かなかったが、それはポジティブな評価を錯覚させるフィルターとして機能しうる―を与えることを指摘した。一方で、blogはmixiに比べて自己開示が少ないという点を指摘した。つまり、blogはポジティブなフィルターがmixiに比べて得にくいということに繋がる。
だが、blogにもポジティブフィルターを得るための手段はある。それは、「積み重ねること」である。テキストサイトブームの頃、内容は短文であろうとも毎日更新されるサイトに通うことで、サイトや管理人・文章に対する愛着が沸くという構図があった。とりわけ、短文・ワンパターンなネタに終始するサイトに対して、そのことが言えるだろう。blogもそれと同様、内容が少なくとも・無意味であろうとも、毎日の更新を積み重ねることによって、ポジティブな評価―それは文章に対する好意的な歪曲であり、管理人への愛着をも意味する―を得る可能性がある。
ただ、その点については閲覧者の価値観。とりわけて、「ネットで読む文章に何を求めるか?」という点に左右される部分がある。テキストサイトブームを支えた主要層が、侍魂の大ブレイクによって流入してきた大衆層・ライトユーザーたちであることは重要な点である。そのライトユーザーの価値観を重視するならば、内容を問わない更新の積み重ねによってblogへのポジティブな評価が高まるケースは多いだろう。
だから私は、積み重ねに頼らない文章。どの日の投稿を開こうとも、一つの批評やエッセイとして、読むに耐える文章をできる限り目指そうと思った。天邪鬼も良いところだな。テキストサイトブームの凋落については、過去に、「テックウィンよこんにちは―女帝と私」などのテキストで軽く触れたが、また、気が向いた時にでもちょろちょろと書き綴ってみようと思う。尚、mixi内では、「内意識」からか、過去の栄光であるテキストサイトについて語ることが、何故か少ない。そのため、このblogにおいてテキストサイトに関する文章を見かけたら、軒並み書き下ろしであると邪推して貰って良い。
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- 2006/01/25(水) 01:06:38|
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