知っている人は知っているが、我が家は皆身勝手な生活時間を持ち、それこそ経済活動を行うための最小単位のユニットとして、家族が機能している。昔は、父母ソレゾレが経済的独立を果たしていたが、現在は一部生活費(主に食)のみ母方に父方が依存しているという調子。
近年、ドコぞの家父長気取りが金銭トラブル(弁護士で話つけてあるのに、先走ってキタらしい)で押し掛けてきて、22時頃を回っても、誰一人として帰宅しない状況の襟首を掴んだ調子で、うちの家庭に対する批判を展開した。22時を回った時点でたまたま俺が帰ってきた。しかも随分と酒をかっくらっていた。そして、家父長制の下でヌクヌクと栽培された権力を謳歌しているかのような下品な面を持つ醜悪な気取り屋はこういった。「キミんとこの家族はどうかしてるんじゃない?」と。
前述したように、俺は鳥万で飲んだくれてきた帰りだったから「うちの連中はメディアが垂れ流すようなお行儀良い家族像とはかけ離れたXXXXだからさ。ステレオタイプ然とした家族像を念頭にして語んなよ」と言い返す。
権力者気取りはこういうね「じゃあ家主が帰ってくるまで家の前で待たせてもらう」――その日、うちの経済的権力者が帰宅したのは午前2時過ぎてた。気取り屋は何時頃だったか忘れたんだけど、帰宅してJackassを見ながら飲みなおしをしているうちに、痺れを切らして帰宅したみたい。とりあえず、俺の忠告を聞かなかったから貴重な時間を無駄にしたのは自己責任極まりないというヤツ。自分の周囲の状況が運良く一般常識――いわゆる「理念型」に近いからといって、それがさも世界の真理で世の中の常であるかのように無批判に信奉し、自らが信奉する事象に照らした尺度でしか物事を測れないような連中をボクは最も軽視するッ!
まあ、そんな手前。近所づきあいなんざ、昔は濃密だったが今は疑心暗鬼。(今は静まったが)一時紛争中だった隣家は夜23時頃に犬の散歩に行くが、俺が家にいる際、飯と酒を求めて本を抱えて出歩くのが同じ位の時間。
今日もその時間に犬の散歩に出ていた隣家のオヤジと自宅の坂上にある踏切ですれ違い、少し過ぎた辺りで振り向くと俺が右か左のどちらに向かうか凝視してて何かとアレね。集合住宅の人間は隣人の顔よりも、米国の大統領やアラブ世界のテロリストの名や顔を良く知っているという寓話がある。
しかし顔を凝視すれば思いだすような近隣住民に監視されるような状況も中々妙なモンでねえ。身勝手に設定している基準や規範――当人たちは、それが如何に根無し草で、<皆がそうだから>とか<常識的/当たり前だから>という曖昧な根拠に基づいたものだという点については無自覚にいるからタチが悪いよね。
主は「汝の隣人を、汝の如く愛せよ」と言ってるんだ。あくまでも、それは共通の神を唯一的に信仰する際にのみ、隣人は汝の隣人として扱われるべき存在だとか深読みをせずに字義通りに解釈して俺を愛せ! とか思うよね。いみじくもバロウズが「ブラザー、シスター文句なしに愛こそが答え」と書いているように。まぁ、どんなに酷い噂が近隣住民に対して流されようが、生活時間が近隣住民と重ならないんだ。別にそれがどうということもない。連中は人づてに聞いた我々の生活様相をあ嘲り笑うのみだろう。
だがそれがどうしたことか? 家庭内の誰かが近隣住民と日が出ている内に顔を合わせるワケでもないし、世間話だの回覧板だの地域協力だのといっ多様な個人、多様な家庭像、多様な親密性といった事例が噴出して、それが自明のものとなっている現在において敢えてなお、多様性を持った家族/多様性になりうる可能性を持った家族を建前染みた共同体に押し込むような制度から自由であるのだから、それはそれで幸せだというこった。そんなツマラナイ/クダラナイことをいちいち気にしていたら、人生という戦場を歩くことなどできん。
俺自身、大学生時代ら友だちが全くいないような状況を長年続け、ピーク時の学食で独りで昼飯を食うことに対して名状しがたい後ろめたさと孤独感を感じてきた。しかし、大学という戦場を単独で生き延びるにはどうしたら良いのだろうか? ということを命題として様々なことを実践してきた。少なくとも、大学は戦闘訓練場であったといえる。そういった経験が実社会における同調志向や他人志向といったくだらんイデオロギーに対する批判の精神――ほぼ恨みつらみ〔ルサンチマン〕と同義のクダラナイ被害妄想だが――を築き上げてきた。
とりあえず週明けにでも『華麗なるギャツビー』とか、ギブスンの著作を数点借りてくるかな。
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- 2007/04/29(日) 01:02:04|
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