記憶と衝動が忘れないうちに書いとく。毒蟲のMCを担当してる水嶋かおりんのお誘いで、アングラSMショウ「毒蟲」の一周年記念興行atロフトプラスワンに逝ってきた。
ほら、JUNKさんさ、サブカル狂い咲きサンダーロードだけどロフトプラスワンは今日が初めてなんだよね。意外に思われるかもだけど。移転後の新宿ロフトは去年に行ったGastunkの2Days一日目が初めてなんだ。でも、ロフトプラスワンは今日が初めて。「映画秘宝」誌的な文化嗜好を持ちつつ、中野ブロードウェイに出入りしてたり、「創」誌を愛読していたり、オーケンの大ファンだったり、「眼球舐め」とかにグっときちゃうようなサブカル人間だから、ロフトプラスワンに出入りしていても当然とか思われそうなんだけどね。
とりあえず最前かぶりつきでコロナを飲みまくってたり、一番手のゴシック風攻め師(雰囲気的にはゴシックといえばゴシックだが、本質論を追求すると、骸骨や燭台、いかにもな雰囲気のある魔法陣だけでなく、人造物的なペニバンや仮面、血ノリとかあるといい的な)がメタラー的で、中途のBGMにスラッシュ然としたもん流れて、さらに床がライブハウスでおなじみの白黒(発祥は新宿ロフトっつう話だが)で気分はライブハウス状態、その上MANOWAR のTシャツ着て行った以上は…というかメタルヘッドとして、頭振らないわけにはイカンだろう。
中途中途で、スラッシュ的なBGMが流れた際、床に腰をかけていたけれど、一人で頭を振りまくっていた輩はぼくです。TシャツはMANOWAR だけど、靴がCONVERSのオールスターで、風貌はアジカンとかハイスタとか聴いちゃいそうな感じだけど、TシャツはMANOWARなんです。生まれてごめんなさい。始まった辺りで攻め師の従者がワイン注いでくれた――や、むしろソコで聖体の血液だけでなく肉も与えたり、燭台で聖肉を焦がしたあと、観衆の前で引き裂いたりするとソレっぽくて良いよね。
他には、坂口安吾的な――なんせMCで「桜の森の満開の下」という一言が発せられた辺りで、一人興奮して喝采送ったバカですから私――ものがあったり、アセクシャルで白塗りな舞踏(残念ながら土方さんの暗黒舞踏は写真でしかみたこてないが)があったり。坂口安吾的な寸劇が組み込まれた演目の方ではね、勿論、女を背負って桜の花(の飾り)の下を歩いてみたり、最後には「鬼を殺したのだ」といった台詞が織り込まれたりね。坂口安吾はそんな読んでいないけど、漫画家「丸尾末広」とバンド「人間椅子」が大好きな身としては、身悶えを止めるのに必死でありましたしたしたしたした。
ちょうど、家を出る前「女が女を描くということ(仮題)」という原稿を書いていてね、原稿のテーマに近いものを象徴するような、女性の単独or 二人組による極めて肉体的(フィジカル)かつ躍動的で、性的対象としての女体という「枷」をタイトに削ぎ落とした演目に激しく文化衝動を刺激される。女による女の肉体の鼓舞という下りについては、Kultur Trieb誌の方にいつか載せる予定であるけど、個人的には力入れいる一辺、むしろ「女が女を描くこと」はA4×3枚程度を書いた時点でいつにない手応えを感じてる原稿なのですよ。今日現在でA4×6枚程度だけど、肥大化していくうちに書き手としては書き始めの頃の手ごたえを失っていった「制服の修辞学 (上)」に比べて、幾ら書いても手ごたえが衰えないのです。表現者の独りよがりな価値観という感じもあるが。「女が女を描くということ(仮題)」については、Kultur Triebなんか待ってられないから、とにかく読みたいという欲求があるならば、連絡でも頂ければ、完成し次第送ります(wordファイル)。
あとね、ミラ狂美氏ね。もう3、4年前位に今一生の『「出会い系時代」の恋愛社会学』でSM師としての(当時は「くるみらくる」の主催だったか)紹介されて関心を持ったのがきっかけで、まさか見る機会に遭遇するとはですよ。日本型SM(サド・マゾヒズムとは別もの)を特徴づける要素として縄や縛りの存在を特に重視してきたのだけれども、狂美氏、ガムテープを縄代わりにして、なおかつ鞭にまで使いましてね、アタシ目から鱗ですヨ。
んで、ガムテープで作ったムチを観客にくれるゆうので、文化衝動的精神で即座に頂いてきました(写真)。贈与条件として、ステージ前で四つんばいになりMCかおりんに生背や半生尻を打たれたわけだが、ゴールデンバットを加えながら「Yeah! I love it!(竹刀で打たれるジョニー from Jackass Vol1風)」とか「よし、もう一丁! ぶちかませ!」とか叫んでた辺り、SとMが置換可能だということを実践してみせたわけです。
その置換可能な哲学――つまりは、サド公爵殿から澁澤龍彦に受け継がれた真性的なサディズムを見せつける演目(最初は男が威圧的なそぶりで従順な女に針を指すが、次には女が雰囲気、顔、態度の全てが威圧的になり、男が恐怖の表情となり、男が四つんばいになった背に女が跨りながら吊すための針を指すという逆転劇)があり、私、自ら信じて声高に叫んできた哲学が匠の業(わざ)で実践されている光景を目にして目がしらが暑くなる思いでした。
肉体の可能性を劇的に強調しつつ、器具を駆使した一大スペクタクルとして提示する公的(ショウとしての)SMはバロック音楽やオペラ、そして前の二要素とメタルの近似性を指摘するロバート・ウォルサーの指摘に従うならSMショウはメタルとの近似性はあると思う。今日みた限りでも、ゴシック的モチーフ、坂口安吾、さらには最後の単独女体舞踏「アゲハ」さんは、冒頭で攻殻のBGMを使い、身体イメージだけでなく数々の動きが素子をイメージさせまくってた(しかも蟲や野生動物のような動きの強い劇場版)。
つまりだな、ディーナ・ウェインスタインがメタルは「ブリコラージュ」(様々な文化の要素を器用に切り貼りしたもの)といったことと同様、SM もまたブリコラージュだと思うわけだ。そして、これは見る側の予備知識や心構えによると思うのだが、今日みた演目の数々では女体の露出が含まれ、女が攻められる光景を多々見たわけだが、聖アウグスティヌスのように、自らの陰茎が吠えることが全く無かった。
恐らくは性的対象ではない女性の身体は如何様にして描けるかという命題を考えながら見ていたことと、日本型SMをポルノではなく、女体を性的対象としての女性ではなく、男女が利用可能な肉体的キャンバスが表現する肉体芸術[figical art]として捉えていることに起因すると思われる。その下りは、アメリカのボンテージ・アート一派が、自らが称えるアートは性的要素とは無縁であると主張するものに起因していると自己省察をしてみる。
あとね、結論的には毒蟲的なSMショウとプロレスは非常に近いものがあると思った。その一言で済むまとめを言いたかったんだ。
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2007/03/13(火) 02:17:26 |
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