もし、脳髄ないしは観念が具現化されたとしたら、それは実に名状し難いものとして我々の瞳孔に映ることだろう。今朝方(28日の明け方頃…寝たのが午前3時半頃だったので)、夢とも無意識ともつかないような状態で――自分の身体感覚が金縛られたような状態の中、<ヤツラ>は姿を現した。それは具体的な姿形は無いのだが、白い後光を携えた…名状し難いヤツラだった。
ヤツラときたら、ベッドの上で身の一つすら動かすことのできない俺を尻目に、天下泰平の憂国論からジェンダー論から、文化コンテンツが我々のライフスタイルに与える影響まで……実に楽しそうに議論してやがるんだ。それもだ、ただ議論するだけに留まるってもんじゃない。ヤツラときたら…うな重を喰いながら楽しそうな議論を続けやがるんだ!
夢にしては、現実的な議論を行いながら、ヤツラは見慣れた自分の部屋に居座っていた。それにしては非現実的な姿形で――そもそも、思想や、モノを思ふモノに実存なんてものはありやしないのだから、そういった非現実的な姿形というものは、それはそれで非常に合理的なのかもしれない。
身を一つ動かすことも叶わず、ただ、ヤツラ観察をすることしか出来ない中で見たモノは確かに、モノを思ふモノであったかもしれない。ヤツラは……何かの極面/誰かの変化や転換に直面した時、「それは、だからといってキミの人生や、キミの生活に何ら関わりを与えるものではない。キミはキミの成すべきことをまっとうすれば良いだけの話だ」と、とりわけて中量の酒を身体に注入した際に口を挟むようなヤツラの正体であったのかもしれない。
それは人間存在ではなく、人間の理性ともいうべき存在ないしは、<観念>とも呼べる存在といえるだろう。少なくとも、ヤツラは2人――いや2体!?――おり、絶えることのない議論を互いに、それも「わかるよ!」とか「そうだね!」というような共感的な反応を一切排除したような議論を続けていた。
人間の体を所有する<自分>、つまりは人間の身体という機械の中に注入された自己認識を差し置いてだ! あの脳髄の連中ときたら! そう、常々身体感覚と脳髄に対する感覚の分離という、非自同律の不快に晒されてきた。ガキの頃からだ! ヤツラときたら、身体や精神がどんなに苦痛や屈辱、そして恥辱を受けようとも、高みの見物の如く、世間ズレした大学教授のような議論を繰り広げるんだ。それも、それが自分たちのアイデンティティであるかのような面をしながら! 人様の脳髄の中で! 今日は一日中、夢とも現実ともつかない連中を目撃したという経験を忘れないように過ごしてきた。
酒を注入しまくったら、ヤツラを目撃した当時の状況や、ヤツラに対する苛立ちが一気に噴出してきたような辺り、つまるところは良い具合に酔っているということだな(・∀・)ガハハハ!
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- 2006/11/29(水) 00:28:53|
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