さあさあさあ、お立会い。可哀想なのはこの子でござぁい。見てやってくださいこの結果。心の教育を唱える教育機関によって、度重なる搾取を受け。もはや狂信的なまでに、子供に対する教育に幻想を持つ親御さん方からは罵倒され、生まれた結果が自殺の選択。ああ、皆悲しき自殺の結末。
福岡のいじめによる自殺に続いて、今度は新宿区で新任女教師(当時23)の自殺に関する報道がなされた。詳細はとりあえず下記のURLを読んで頂くとして、この報道をたまたまつけていたNHKで目撃してしまった自分の感想としては、死者に鞭打つようだが「社会舐めてるな」の一点。ただ、NHKの報道では、新任の<女教師>であること、学内のトラブルを解決できなかったことや、相談相手の教師がいなかったこと。そして、親からの批判などが自殺に至る主な原因として報道されていた。
http://www.kobe-np.co.jp/kyodonews/news/0000148191.shtml
この事件は一見するならば、社会を舐めた教師もどきが、理想と現実の格差に絶望して、周りに対する原因。そして教師という職種が持つ社会的責任に、酷く無自覚な状態で自殺を行ったという、非常に下らない事件として片付けることができる。特に、自分の場合は母親が私立教育機関で経営者兼教諭を30 年以上に渡って続けてきており――育児休暇などなく、0歳の自分は籠に入れて教育現場に連行され、生徒や先生の中で育てられてきた。親からの批判、先生同士の派閥争い、労組運動等々。多くの人には神聖な職や幻想として映る教育現場という洗浄の中にある醜い現実を、親の話を通して間接的にだが享受してきた。
つまり、自分は「親のバッシングごときで自殺するのなら、うちの母親なんか100回以上死んでるだろうし、過労を問題にするならば、うちの母親は先生方が帰った後でも、午前三時位まで居残って作業してるわ!」という決定的な批判を堂々と叫べる<特権的立場>にある。まぁ、そういった特権的な立場にあるものだけが、親の批判を苦に自殺したという点を厳しく糾弾できるというわけではないのだが、自分が前述したような批判を行う際、自分は <特権的な立場にあるのだ>という点を、自省の意を込めて表明している。
NHKの報道、その流れは無意識的なものであるだろうが、特に気になったのは先にも述べたキーワードたち。「新任女性教師」「学内での孤立」「親からの批判」という辺りから、「だから女は弱いんだ」とか「子供を産み・育てた経験のない若い女に教師なんか・・」というような、無意識的な性差別を視聴者たちに植えつけるのではないか? という危惧があった。フェミニズムや助女性学に対する決定的な批判としても「あなたたちは子供を産み・育てた経験が無いから説得力などない」というものがある。
確かに、出産・育児の経験は大きなウェイトを占めるだろうし、そけを経験した者同士には強い連帯感や共感が生まれることだろう。しかし、出産・育児経験のみを、意見の正当性や、自らの正当性の拠り所にしようとする姿勢は不埒であり、白痴的だ。自ら考えることを止め、批評することを止め、自分たちに都合の良い意見や都合の良い側にいる人間以外を認めないという暴力的な言論弾圧に繋がりかねない。
重要なのは、各個人がテレビの報道によって導かれるような解答――先の報道を例にするならば、「精神的に弱い存在としての女」という幻想を信じ込ませるような流れを疑ってかかるような、潤沢な知識や批判能力を持つことだと考える。
ただ、件の女性教師が精神科に通っていたという履歴もあり、典型的な心の時代の消費者または犠牲者をどう考えるべきか・・・という点も難しい問題ではある。「打たれ弱いヤツは教師なんかにするな!」と感情論的に一喝してしまえば、多くの可能性を潰す代わりに、現状よりは安定した教育現場――いや、むしろ荒廃と紙一重の教育現場が生まれる可能性はあるだろう。ただし、最初は打たれ弱くても、打たれるという経験意を通じて成長していく可能性がある(かもしれない)教師たちを最初から排除してしまうことはナンセンスでもある。
こういった話題は面倒臭いし、カリキュラム論に則った立場か、それとも教育論か、もしくは教育法か、といった話にも広がりかねない、また気が向いたらね。
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- 2006/10/24(火) 22:28:15|
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