という題名で、自国(イスラエル)のエクストリーム・メタルシーンについて書いてた論文があったな。そいつを発見したのは、もう去年位のことだけど、全然読み進めてないや。内容については、グローバルな展開、即ち英語歌詞で世界に進出することに、嬉しさと自分たちのアンダーグラウンドな領域から離れていくことに苛立ちを感じるファンたちについて書いてあった感じ。ときに、自分は日本に対する嫌悪は、過去の日記で様々な暗喩によって論じてきた。その辺りを、今回は少し突っ込んで書こうと思う。
壱:自国に対する悲観主義(ペシミズム)
冒頭から暴論を振りかざすならば、日本人が、世界に誇れる日本文化として堂々と誇れるものは「アニメ」「マンガ」「カラオケ」、そして「ファッション」しかない。武士道? 茶道? 芸者? その他諸々の、前近代的日本文化を引き合いに出して日本が如何に素晴らしかったかを説こうとする輩も多い昨今だが、忘れてはならない点がひとつある。それら、古きよき日本独自の――日本文化というものが、そもそもにして中国や朝鮮文化の混血児であることを踏まえるならば、その言い方にも語弊があるのだが、ここでは便宜上――文化の多くは、欧米諸国によって評価されることによって、日本人たちが自らを評価するためのツールに成り得たということだ。
自分たちが、常に先人として憧れてきた欧米文化の担い手たちが自分たちの(古い)文化を価値あるものとして認めてくれた。すなわち、古来にある文化は世界に誇れるものなんだ! という盲目的なナルシズムには、飽き足らない程の嫌悪感を覚える。進んだ西洋/遅れたアジアという図式を持ちながら、アジアの中でも日本は少し先駆的であり、アジアの主導者となるべき――アメリカの経済・文化的植民地であるのだから、それは当然といえば当然だが――という傲慢な姿勢にも苛立ちを隠せない。
弐:外国人信仰
壱と被る部分も多いのだが、日本は<名目上>単一民族による国家とされている。あくまでも<名目上>。世界地図を見ても解るとおり、日本は極東の島国であり、アジア圏でもある。従って、当然ようにアングロ系――金髪の白人たち――やアフリカンは、圧倒的に少ない。だからこそ、希少性のある肌を持つ連中を外人(エイリアン)として見ることは仕方が無い。しかし、同じアジア圏といえども、韓国・朝鮮の方々や、中国・ベトナム・フィリピンその他中東やモンゴル人や内蒙の中国人等々だって、れっきとした外国人であるのに。そして、その多くは日本の各地、<英会話教室 >とか<外国語講師>とかではなく、飲食店やスーパー、加えて水商売といった、身近な生活に根ざした職種で働いており、日本国籍を持ち、日本語を話しながら<外国人>との交流を求める多くの連中と接する機会が多いというのに。何故に、必要なまでに「外国人信仰」を叫ぶのかという点に嫌悪感を覚える。
ああ、ヤッパ、奴らには、とりえず肌が白か黒で英語を話す連中しか、外国人として認識できない脳髄構造があるんだな。白人を指して「モデルみたい!」とか「到底追いつけない!」と、美醜的価値を嘆き、悲観に暮れるものも多い。「追いつけない」という点は確かに一理ある。しかし、欧米的な美の規範が真理ではない。現在、欧米的な美の規範が派覇権を握っている状況もあるのだが、アジア人たちが欧米の白人たちの、身体構造の差異からくる美に憧れること同様に、欧米人たる彼・彼女たちも、我々アジア人の身体構造から立ち表れる美に憧れ、追いつけないことを悔やんでいることは多い。アジア人たちと欧米人たちの、お互いがお互いを敬いながら憧れているのだ。だからこそ、背が高く、スレンダーな白人を指して「外人さんは美しいね」という輩には、「彼・彼女たちは、外人さんは美しいねという視線を我々にも向けているよ」というのだ。
参以降はまた今度、気が向いたら書くよ。今日はガンガン酒あけて、GastunkとVOLCANOのDVDを見まくってたら翻訳作業が全然進まず、衝動的な文章を書き綴っていた。今は反省している。
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- 2006/10/24(火) 00:42:58|
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