毎度毎度センセとソルボソヌ式に飲んだくれて帰宅の路。「哲学は鑑賞に対する能の家言と同様、一字一句・一挙一動を血眼見開いて凝視するものではない。酒でも飲みながら一抹の光明を読み解くべきだと思うよ」というような話を聞きながらだらだらと飲んだくれ。
学問といふものは、分野に左右される部分はあるが、解りやすい解答を出すものではない。また、時間経過と共に批判を受けるべきものでもあるし、問いかけを行い、受け手に<考えさせる>ものである。ただ、多用な読み変え・読み解きが可能な分、受け手の側にもそれ相応の知識・能力。ないしは、投げかける<何か>の各トピックに関する問題意識や問題関心がなければ話にならない。表層的な共感や読む<だけ>で満足感が得られるようなものが欲しければ、次に述べるようなものをパブロフの犬のように消費するか、次に述べるような指導者を偶像的かつ盲目的に崇拝し、その教えや装いを帝国主義的に、暴力的に――無意識下で――布教すれば良い。
表層的な共感、短絡的な解りやすさを喚起するような役割は、インスタントな新書やマニュアル本。そして、大衆の指導者であるテレビを筆頭としたマスメディアや、消費対象でしかないカリスマたちに任せておけばいい。自分はあくまでも、もやもやとした<契機>。状況批判であり、自省のきっかけであり、現状分析であり、個人のルサンチマンにも変化・利用が可能な<何か>を提示しているに過ぎない。
提示しているものは、大層な肩書きではない。読み手に対して開かれることがなく、極めて専門的で、威厳・威圧的で、空虚かつナルシスティックな知識のひけらかしでもない。好奇心と嫌悪感――時には笑顔を見せたり、子どもと戯れたり、名所を背景に写真を撮るような統治者[フューラー]に共感を示すよりも、もっと純粋にファシズム的な傾向を示す大衆(大衆といっても、それは第三帝国と同様<全体 >ではない)。見世物として最適な一場面のみを切り取られ、提示された、あのファシズムのイメージを先鋭的に模倣し、尚且つその思想こそが正義であり常識であるかのような<連中>に対する嫌悪感であるのだ。
とりあえず、酒でも飲んでぐだまきながら小難しいこととか、メタフィジックな恋愛論とかをこねくり回し給へよ(´・ω・)y-~
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- 2006/10/20(金) 00:47:56|
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