人間は幾ら文明を、年代を重ねようとも、「恐怖」と「性」を克服することはできないのだろうな、と哲学的な命題を考えてみる三が日二日目。黒人男と日本人女性による情交の複製品を見ていた際、黒人に対する人種差別の根底は、白人男性の、黒人男性に対する性的恐怖―冒涜的な男性器のサイズと、白人女性の略奪・誘惑―がある。という通説をふと思い出した。
黒人に対する人種差別は、白人男性から黒人男性に対するものが主であった。第一波のフェミニズムであるウーマンリブは白人女性らよる、女性解放を命題とした異議申し立てであった。ともすれば、「黒人女性」という、被差別者の一番下に位置するするであろう存在は、どういった形で語られているのだろうか? という考えも同時に浮かんできた。
職業病というか、AVにしろポルノグラフィにしろ、グラビアにしろ。事が済んだ後―酷い時には使用の最中にも―に眺めていると、沸々と疑問やひらめき、批評が沸いてくる。その辺りについては、一例として、以前にmixiの中で以下のやうな事を書いた。
ジョルジュ・バタイユが指摘するエロティシズムは、死に向かうことに似た衝動、いわば情緒・観念的なエロスである。一方、澁澤龍彦が『エロティシズム』において、現代のエロティシズムは「覗視者(ビジョネイア)」であるとする。や、幻視者であったかもしれぬ。
死とエロスの結び付きは、オルガズムによる飛翔感を伴う恐怖や、メメント・モリ(死を思え)という観念が大きく影響していると思われる。「亜美飛んじゃうー!」という、一見何の変哲もない迷(名)台詞の中にも、バタイユ的エロスをみることができる。
M.マクルーハンはメディアによる身体拡張論を唱えたが、澁澤の指摘する幻視的エロスは、正に身体拡張に他ならない。主に動画ではあるが、複製品となった情交を見る我々は、覗視することで情欲を感じ、まるで、その場に言わせず何処かを見渡せる「神的視覚」を所持したかのような錯覚すら感じさせる。
現在は携帯の大容量化により、情交動画の複製品も簡易に落とせる様になった。その点も、身体拡張による覗視に大きく作用している。電波さえあれば、どこに居ようとも、テレビやビデヲといった機器が無くとも、我々は携帯電話と言う神の手を用い、それによって拡張された覗視によって、現代的なエロスを堪能するのだ。そこに死を思う衝動は無い。あるのは、アウラを失い覗視される愛欲のみだ。(2005,12,17)。
まぁ、どうしても色々な事を考えてしまう性質でして。で、丁度冒頭に述べた疑問が沸いた翌日かその当日だったかな、町田のブックオフを散策していると、ハルセル・グレース,1977,『黒い性・白い性』を105円でゲット。ブックオフでは目的を持たずに散策するのが一番か賢い利用法と云えるな。で、入手後は読むのを忘れていたため、正月二日目はケンタッキーにて昼飯後、そのまま読む読む読む。
そんな正月さ('∀`)。色も季節も減ったくれも無いような調子だ。
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- 2006/01/02(月) 22:03:23|
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これはアレだよな。時代の流れっちゅうもんだ。ホリエモンも豚箱行きになるこんな世の中じゃ。
- 2006/01/23(月) 23:26:32 |
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