本稿は、さるblogにおいて<公開>されていた匿名性批判の投稿を受けて書かれたものである。しかし、当該投稿にトラックバックを張る前に、半ば挑発的な――表層の襟首のみを捕まえて喧嘩を吹っかけるような、浅はかな感情論と、<匿名/非匿名>という部分を強調しながら、都合の良い様に己の正当性を擁護しようとする投稿は、本人によって削除されてしまった。削除の前後には、2chねらー有志による突撃・指摘・批判もあった。しかし、私見を申すならば、<あの内容>では批判を受けることも止むを得ないといえる。しかし、私見のみを申して読者諸氏の判断を誘導することはフェアではない。また、先にも述べたように本稿は当該blogに対する反論として書かれたものである。そのため、本稿単体では、当該文章を知らない読者諸氏にとっては議論の流れが不透明なものとなってしまう。
そのため、下記に前置きとして削除――都合の良い逃げと批判に値するものだが――された文章を引用しておく。繰り返すが、当該の投稿は万人に<公開>されていたものであり、blogを見たところ引用に関する規則はない。また、読者諸氏に対する配慮と、公平な議論・判断材料のために、2chねるの某スレッドに張られていた当該文章を下記に引用する。
2ちゃんねるのmixiつぶしとその攻防
テーマ :【情報システム】
ブロガー : 今駒 哲子(こんま てつこ)
投稿時刻:2006年10月11日(水) 20時39分
2ちゃんねるは、すべての掲示板を否定するわけではありませんが、おしなべて
管理がほとんどなされておらず、無法地帯になってしまっています。
一方的な実名入りの書き込みで、被害を受けたひとは数知れないのではないでしょうか。
すこし気に入らない、そんな感覚を持っただけで、集団でどんどんでっち上げていっても
まったく自責の念をもたないひとたちがいます。裁判になっているのは、それらのうちの
ほんの一握りでしょう。
2ちゃんねらーは、自分の名前をさらさないことを担保に、他人の実名やプライバシーをさらし、
暴言、誹謗中傷を集団になっておこなっているので、いわば言論の暴力集団ではないかと思われます。
ひとたび個人情報や弱みを握れば、mixiで実名検索して本人の実名やその周辺の多勢の
仲間に対して攻撃し、mixiの中で集団で大暴れとなります。
ネットでの正常なコミュニティ構築をおこなう上で、こんな危険な集団はいません。
http://rblog-ent.japan.cnet.com/geeklog/2006/10/sns_84ac.html
匿名については、以前、
「洞窟の匿名性」という論考で論じたことがある。「洞窟の匿名性」でも論じたように、私は、非匿名が善であり、匿名が悪であるという非常に浅はかかつ、<感情論>的な問い立てには失笑を感じえない。そもそも、極論を申すならば公的機関や商業的機関でもない限り、インターネット上で非匿名――たとえば、mixiにおいて頻繁にみられる履歴書まがいの自己紹介――性を保持して意見を述べることは非常にリスクを伴う問題である。
ネット上で履歴書まがいに素性を公開することは、何故リスクを伴うか? 答えは単純明快なのだが、ネット上も現実社会と同様、プライベートな情報を安易に漏らすことは非常に危険極まりないというだけのことだ。ネット上は<仮想空間>、即ちヴァーチャルな世界であるから、現実では危険と思われるような行為をすることに対するハードルは低くなるし、対人物理距離や、他者の視線がないために<不特定多数の他者に見られている>という意識が酷く欠如してしまっている。その意識が、部分的な<非匿名>者に善意を与え、匿名者たち――その多くは2chネラーが標的にされる――には、<偽善者>どもが容赦ない批判を行うための口実を与える。
さてミナサマがご承知のように、現実社会は酷い有様だ。経済・政治・性暴力・人種差別など、大小様々な紛争が起こり、<本当の自分>や<独自性>という、きな臭い概念を追求することが求められ、本来は落ち着くはずの役割(=アイデンティティ)を拒否し、答えのでるはずもない自分探しに没頭しながら、人生の節目節目で中身の無い理想と厳しい現実の間で妥協を迫られる。そんな現実社会だからこそ、ネットという仮想社会に<桃源郷>を求めようとする気持ちは、全く理解できないということはないが、酷くナンセンスだ。トマス・モアの論じたユートピアは、理想郷とは程遠い管理社会。すなわちディストピアであった。ネット上の社会も、デストピアに限りなく近いユートピアと同じものであると、私は考えている。
そもそも、ネット上ごときに理想の社会――現実社会においてすら達成できえない幻想――を見出すことが間違いなのだ。「ネットだから」「ネット上では」という言い訳は問題ではない。中途半端な非匿名性をバカの一つ覚えのよう正当化し、匿名性の巣窟である2ちゃんねるを、これまたバカの一つ覚えのように批判する白痴どものネットに対する日和見主義を是正していことは必要であるが、決して<急務>ではない。むしろ、是正の必要性が早急に必要というべきヒトビトが大量にいるからこそ、ネットの世界は現実世界よりも激しい攻防や、やじうま魂(ゴコロ)を捉えて離さない<祭り>――木村敏がいうところの「フェストゥム」――が頻繁に起こり、常に「アンテ・フェストゥム(祭りの準備段階)」に突入する可能性を孕んでいるからこそ、フェストゥムに対してダイアローグにコミットメントできるネット上での<祭り>は、マス・メディアを通してモノローグ的にしかその全貌を享受できない現実社会の<祭り>よりも魅力的であるのだ。
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- 2006/10/11(水) 23:40:04|
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