『ラブやん』の5巻を、バイトが早めに終わったので買ってきた。やっぱ俺、ツインテールに弱いなと改めて実感した。さて、mixiが相変わらず盛り上がっているようで、目が離せない日々であります。
「mixiの目指すコミュニティのあり方と利用者の実情とには、かなりのギャップがあるのではないだろうか。/本来mixiの基本理念は、現実社会で幾らか関係のある者同士が比較的内輪に交流を行う場を提供する、というものだと思われる。
しかし現実的には、「ネット友達募集」的関係、つまり現実社会では一切関係を持たない者同士がネットだけの関係を持つようなケースが多いように思われる。
その最たるものが、男性利用者たちのナンパ行為である。
大規模に調べたわけではないが、どうやら男性利用者が女性利用者に対してナンパ行為を行うケースが多いらしい。つまりmixiが出会い系サイト的として使われているのである。/これは果たしてmixiの目指す「健全で安心感のある居心地の良いコミュニティ」と言えるのだろうか」
※「mixi安全神話の崩壊」より引用
http://www.geocities.jp/wanyan061/#chap3 そのような下りは、自分自身が随分前に――加筆の際についている論考の日付をみると2006年の4月11日――「視覚的人脈の手帳」という論考で批判を加えてきた点でもある。氾濫するナンパ。その先には身体の<所有>や、表層的な権力関係、そして簡素な消費財としての秀てた表層的サド-マゾヒズムを顕在化させるインターコース〔性行為〕への安っぽい欲望――そして、当事者が持つ空虚な肩書き・安っぽい資本的優位性・見下し・その他、性を媒介としたナルシズムに帰結する要素ともいうべき<所有>に対する欲求が、醜い薄ら笑いを浮かべているという事実を否定できる者がいるだろうか?
※「視覚的人脈の手帳」 「女にとって、男に性的に所有されることは、もっと日常茶飯事のことである。女はこれまでずっと、妻として、娼婦として、性的および生殖的召使いとして、男の所有物であり続けている。所有されることと性交されることは、現在も、またこれまでもずっと、女の生活の中でほぼ同じ意味の経験であった。つまり、彼はあなたを所有し、その彼があなたと性交するわけである(中略)性交されることと所有されることは、不可分の同一事であり、その同一事の二つが合体した時に、男性優位という社会制度の状況下での、女にとってのセックスが生じる。そのような性交において、男は、己の支配の地勢を表現する」。アンドレア・ドウォーキン,『インターコース;性的行為の政治学』,118-119頁,(訳)寺沢みづほ。
さて、上記の引用部を読んだ後に、「可視的人脈の手帳」を読み直してみたり「mixi安全神話の崩壊」を読み直した際、少しでも問題関心や現状への違和を抱く人ならば、その眼前に顕在化するかもしれない、リビドーの御旗に導かれた醜悪なる<権力争い>をどう見据えるだろうか?
「近代社会では、事情は明らかに異なっている。女性は、いまだかつてないほど頻繁に匿名性の高い公の場で生活し、働いており、男女を遮断してきた「分離し、かつ不平等な」隔壁は実質的に崩壊してしまった。男性の性暴力が性的支配の基盤をなしているというとらえかたは、以前よりも今日において大きな意味をもつのである。言いかえれば、今日、男性の性暴力の多くは、家父長制支配の連綿とした存続よりも、むしろ男性のいだく不安や無力感に起因しているのである。暴力は、女性の共犯関係の弱まりに対する破壊的反応なのだ」。アンソニー・ギデンズ,『親密性の変容;近代社会におけるセクシュアリティ、愛情もエロティシズム』,183頁,(訳)松岡精文・松川昭子。
「性暴力」という言葉から、字義に振り回されて「ヴァイオレンス」なものや、サドを気取った男性と、マゾを気取り、コケット(娼態)や男性側が持つ神話的・幻想的なフェミニティを盲目に消費し続ける女の饗宴、陰惨なる性的暴力の現場を思い浮かべる方は多いだろう。しかし、その「性暴力」というものは、全てが陰惨でヴァイオレンスであるとは限らない。先に提示してきた事例の数々にも、多用さを持つ「性暴力」は存在するし、性暴力が異性間の――男から女に対ねる一方的なものであるとも限らない。むしろ同性間の「性暴力」――例えば性規範に対する無言の重圧や、コケットを用いた戦略が常々話題の中心になるなどといったもの――の方が、多大なる悪影響を及ぼす可能性があるとは思えないだろうか。
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- 2006/10/10(火) 23:08:01|
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