口語感覚で「セクシャリティ」とか言ってたら、実は「セクシュアリティ」だったということを、ギデンズの『親密性の変容』を読んでいて気づいた。でも、飲みながら読んでた。なんで、今頃気づくのだ。それはアレだな、ポストコロリアニズム〔脱植民地主義〕が言いにくいからと「ポスコロ」と略しちゃうような感じだな。ついつい「セクシャリティ」と口語にしてしまうのは。
して、カルチュラル・スタディーズ〔Cultural Studies〕を「カルスタ」と略す流れには、へヴィ・メタルを「ヘビメタ」とか略すような嘲りがあってボクぁ「好きくない」なぁ。「象さんにヘビメタ聞かせてやりてぇぜ!」とか騒いじゃう時代は、もう20年位前に終わったんだ。でも、「天才たけしの元気が出るテレビ」のDVD(゜д゜)ほすぃ。年食った今なら、あの忌々しい「ヘビメタ企画」シリーズも、広い心で見つめられそうだ。なんたって「ゲイリー・ヨシキ(20)」だからなぁ(´・ω・)。
大学時代、「平成バンドブーム」を主軸とた日本のロックシーンの変容史といった内容の卒論を書き、幸運にも優秀卒論発表会のゼミ代表に立たせて頂いた過去があるんだ。そして、参考資料として、Xの「やしろ食堂ライブ」の映像を大スクリーンで、先生方や学生諸君の目の前で流した。本とは、「ヘビメタ大運動会」の映像も流したかったのだけど、時間の関係で断念した。友達ができないから、オーケン張りに、学食でカレーをモフモフ食い漁っていた俺が、大学生活の中で唯一ぶちかましてやった瞬間だったな。大画面でヘビメタ企画(しかも韓国語の字幕付き)を流してしまったというのは。
当時の卒論を引っ張り出して、眺めてみるとね・・・。次のようなことが、厚顔無恥ら連々と書きなぐりまくってるのね。105頁近く。
「宮台の指摘にある「内輪のファン(宮台1994)」は、先に述べたナゴムギャルや、トランスレーベルのファンであるトランスギャル、といった特定のレーベルへの帰属(服装などで)を表す若い女性たちのことを指すが、宮台の指摘はナゴムやトランスを引き合いに出す場合、それらのレーベルを支持する若者の大半が女性層なので多少は仕方がないが、視線が女性ファンに偏りすぎてしまっている。
宮台の指摘では、常に男側につきまとうバンドに対する憧れという視線が排除され、東京ロッカーズにおいての指摘と同様、現象の本質的な部分を捉えきれてないようにも思える」。
「平成バンドブームが終わって久しい現在は、誰もが気軽に・日常的にバンドを組み、メンバー募集の張り紙やネットなどでの投稿を見ると、猫も杓子もプロ指向・メジャー指向とも形容でき、第二次平成バンドブームと呼べる状況である。しかし、冒頭でも述べたとおり、アマチュアバンドの数は増えているにも関わらず、バンドブームとしての認知はなされてはいない。インディーズも過去に獲得した意匠は消え去り、メジャーの予備軍(野球でいえば二軍)的な位置へと甘んじている。そして、ブームとしてのバンド活動は下火に、ごく当たり前の活動となり、とりたてて注目を集めるような事では無くなった(中西, 2004,126頁)。
私が以前見た事例の中に、中西による、ごく当たり前になったバンド活動という指摘の好例があった。その事例というのは、東京都某区のイベントにおいて、同区内にある私立の女子中学生で構成されたバンドが、椎名林檎のコピー曲で出場し、区の役員たちから高い評価を得たというものだった。
多少乱暴にいってしまうと、審査員である役員にしてみれば、ブラスバンドによる合奏であろうが、ロックバンドであろうが、青少年らしい< 健全さ>や<爽やかさ>が表れていれば評価の対象となるのだろう。演奏曲は、ロックであろうと音楽教育における定番曲であろうと。演奏形態もまた、エレキであろうと、アンプラグド(生演奏)であろうと、前述した<青少年らしさ>が表れている限り、その内容や形態を問われることは無いのだろう。本来、学校教育との結びつきが強いブラスバンドが出演するような、区の主催による音楽祭にロックバンドが出場する、それはブラスバンドもロックバンドも、最早並列化した価値を持ってしまったということだ。繰り返しになるが、<青少年らしさ>が表現されている場合に限るが。
ああ、まだ自分の脳内が近代――すなわち、イデオロギーだの大きな物語を幼子心に信じていた齢――であると感じさせられるね。年を食って、脳内もポスト・モダン(この言葉を軽々しい戦略の下に使ってみる)に突入したことを感じさせるね。ギラツキがなくなり、成熟してしまった感もある、現在の文章力や文章の<色>のようものを、先に引用した当時のものと比べてみると。ホント・・・年はとりたくないモンだぜ!
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- 2006/09/24(日) 13:40:44|
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