とりあえず文献資料の渉猟。帰りがけに、19日で飲食半額だから町田の一休で飲んだくれながら読書して――いつもこればかりだ!――電車待ち中。帰ったら色々やる予定があったけど、Gastunkを聞いていたら、飲み直しながら解散ライブのDVDを見たくなった。以下渉猟物。
アン・ハドソン・ジョーンズ(編著)『看護婦はどう見られてきたか;歴史、芸術、文学におけるイメージ』
山本由香『北欧スウェーデンの幸せになるデザイン』
渡辺千春『北欧デザインを知る;ムーミンとモダニズム』
星旭『学生のための音楽入門』
倫理的には性的対象としてみることが望ましいとされない対象を性的対象としてみる――<制服姿の>女子高生の例は以前に述べた。一方、看護婦――いや、それは看護婦に限らず、匿名性を強化し、<個人>を消し去り、制服が示す職業に従事する一介の女であることを強調する(特に献身さや女性らしさが重要視される)職業の多くに当てはまることだが――の図像や在り方をめぐる言説は女子高生のそれよりも複雑に入り組、ある時には介護現場におけるセクシャルハラスメントを筆頭とした、現場の問題として。
またある時には白痴なる男(もしくは、医師や資産家、セレブリティといった豊富な資産を約束された成功者たち)を釣り上げるための、したたかなブランドとして。勿論、果てしなく胡散臭さのあるラブロマンスもありえるだろうが。「白衣の天使」という、酷く紋切り型にはまったイメージの下で、我々や看護婦当人たちの双方が、混沌としたイメージや性的な視線、そして時には政治的な顔すらも覗かねかねない<性を巡る問題>が渦巻いている <状況>を意識しなければならない。(幼児介護を除いた)介護の現場はジェンダーの闘技場という側面を持ちあわせている、と言っても過言ではないだろう。『看護婦はどう見られてきたか』の中で、ジャネット・マフが「看護問題とは女性問題(そしてその逆も真だ)」と述べている(2頁)と指摘されている点からも、それは過言ではないという確信を得ることができる。
「しかしこのような看護婦の仕事の親密な性格は、同時に、看護婦が他の人間の死に近接することを意味する。また、このために看護婦は、超越という霊的な次元に達しうる。これは看護がその最良の意味を持ちうる次元である。どのように名付けようと、これらの互いに矛盾(引用注:性的対象としてのエロティックな看護婦というイメージ)するさまざまな看護婦のイメージは、女性をめぐる文化一般を反映している。伝統的に、女性は天使のような母親か邪悪な誘惑者、言い換えれば聖女か売春婦にステレオタイプ化されてきた。男性としてはベッド・サイドには天使がいてほしいが、ベッドのなかにはいてほしくないということだろう」(前掲:2-3頁)。
「男性の淫らな空想のなかでは、たんに性的に望ましいばかりか、いつでも喜んで身を任せるとおもわれている。潜在的な恋人としての看護婦の例に、「マーティー」の映画版である「銀行のお金」がある。こうしたステレオタイプでは、金持ちの患者の心をつかむためであれ、医師と結婚して玉の輿に乗るためであれ、たんに押さえがたい欲情につき動かされてであれ、看護婦はいつでもベッドを共にする用意があると見なされている。どんな場合でも、大衆芸術では、看護婦はいつも患者を口説いたり口説かれたり、インターンや研修医に言い寄ったり言い寄られたりしている」(前掲:104-5頁)。
脳髄を働かせたら酒が抜けてきたお(´・ω・`)。前掲書に加えて、今読んでいる最中(もう読み終わる)であるアンドレア・ドウォーキン『インターコース;性的行為の政治学』。あとは帰宅後、気が向いたら示すと思う数点の文献を読めば、今日の日記が少し解りやすくなると思うよ。多分。
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- 2006/09/19(火) 22:30:42|
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