団鬼六の『外道の群れ【責め絵師】伊藤春雨列伝』がヤバイ。妊婦吊しで、髪フェチの伊藤を筆頭に、『デカメロン』他、エロ・グロ・ナンセンスしまくって御上にしょっぴかれまくった、梅原北明、ついでに伊藤の最後の弟子にして、女の筆名で「奇クラ」で責め絵を描いてきた美濃村晃、ついでに好色社会主義者、大杉栄や、少女の友にして意外とアレな竹久夢二とかが出てきて、まさに大正、好色、外道の宴!
北原童夢や秋田昌美の著作を濫読するっつう、ハイソな趣味を持った紳士・淑女の皆様には、毎度お馴染みなオールスターの大行進。大正エロ・グロ・ナンセンスの陰の立て役者たちの饗宴(シンポシオン)ってな調子でしてね、ウヘヘ・・・・・・夕方にいその・えいたろう『AV監督』を一気に読破したっつうのに、夜に酒飲みながら7割近く一気読みしてしまった。
んでまぁ、『外道の群れ』は、関東大震災以前までの伊藤春雨と、その周辺の群像劇を主題にし、伊藤のエッセイ、美濃村の証言、歴史資料等を元に再構成された物語形式の体裁をとっているんだが、これが中々、大正時代の雰囲気や文化的な情景をたっぷり描いていて、谷崎、乱歩、夢野辺りのファンには是非勧めたい。団センセイだからといって、拉致監禁とか浣腸はないから、おとうさん・おかあさんにも安心だゾ☆。
それにしても、JUNKさん、文化的気質は大正ロマンと1980年代的なキッチュかつキャンプな精神で、人格的には1960年代のイカレる若者たちを引きずっている(本人は1980年代産まれなのに)とよくいわれるのだが、『外道の群れ』での大正時代の文化的情景の描写にゾクゾクとキすぎて参った。
なんせ、お昼の「午砲(ドン)」が鳴り響き、学生はマント姿、飲み屋には阿呆陀羅経を唱える遊芸人が訪れ、チャカポコとなる木魚の代わりに、「カチャカチャ」となる竹の拍子木を鳴らして、道化経文を唱え始めれば、中年の流しがやってきて、ヴァイオリンを弾きながら「カチューシャ」を歌い始める。
帝劇ではトルストイの「復活」が上演されて、帝都の街には松井須磨子の『カチューシャの唄』氾濫し、新聞記者は舞台の、いわばレヴュ中の松井須磨子の「プロマイド」を小脇に抱え・・・・・・「サクラ大戦」すぎるな・・・・・・。
それはそうと、一部の好色者たちによる外道の群れは、「好色研究会」(「変態研究会」や「責めの研究会」なる名前の候補があった)なんて、秘密倶楽部を組織し、メンバァのひとりである精神分析学者サンは「私も伊藤先生の如くかかる責めの妄想については長年研究したものでありますが、伊藤先生の倒錯せる性情というものは、相手を虐待し、それにて快感を得るという種のものであり、これはフランスの作家マルキ・ド・サドの名前からクラフト・エービングが命名したものであります。」(125頁)なんて、フツーに出てくるから、性科学に傾倒していたり、北原・秋田辺りの本に慣れしたんでいる身にはたまらなさすぎる。
とりあえず、もう少し涼しくなって、色々と書き物が落ち着いたら、去年くらいからいってる気もするが、緊縛術をしっかり学ばなければと思うの、私。やっぱり、21世紀なんだから、これからのジェントルマンはタロットだけでなく、緊縛術にも精通し、東西を問わない幅広い文化と、ヴィクトリア朝時代の児童文学に精通しているべきだと思うの・・・・・・私。
とりあえず、「カチューシャ」。帰宅してひたすら「カチューシャ」関連の動画を見ているうちに、くにおくんのドッジボール部にぶちあたったよ。ああ、俺がカチューシャ(を筆頭にした、ロシア民謡、「トロイカ」、「黒い瞳」、「悲しい天使」、「ボルガの舟歌」、「ともしび」)が好きなのは、きっと、こいつのせいなんだろうなと思った。
もるどふ(笑)
【作業用BGM】くにおくんドッジボール部対ソ連戦BGMがひたすら流れる動画
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- 2009/06/30(火) 03:40:00|
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久々にヴァイオリンのレッスンで、久々に労働のない月曜日で、久々に夕方にドトールにいて、いそのえ・えいたろうの『AV監督』が読み終わって・・・・・・久々に、早めに帰宅したので、残ってる作業の仕上げをやろうとしたと・・・・・・いいます。
PCが立ち上がるまで、たまたまPCのトコにおいてあった『わたしは真悟』の7巻(最終)を読み始めて・・・・・・(´;ω;`)ウッ。昨日は、資料を基に、散々っぱらアリスについて喋りまくって、予想通り、今日は夢の中でもアリスについて、ムニャムニュ喋っていたワケだが、楳図センセ・・・・・・やっぱりキャロルだなぁ。
いづれ『わたしは真悟』とキャロルを絡めた、子供の情景や大人社会に対する反抗みたいな感じで、奇っ怪な論考を書くか・・・・・・。でも『不思議の国』はなるだけ使いたくないし(ありきたりすぎるし、手垢がつきすぎている)、やっぱり『鏡の国』と『シルヴィーとブルーノ』だよな、『わたしは真悟』と絡めるには。後者は全体を理解するには手間がかかるし、鬼のように読み辛いし、途中で寝た記憶もあるから骨が折れることになると思うが・・・。
早く帰宅→『わたしは真悟』7巻を読む→(´;ω;`)ウッ→ラストの佐渡島関連の語られ方が気になり、解説サイトを閲覧しているうちに、2chの『わたしは真悟』スレに辿り着き、読める範囲の過去ログを漁ってた→/(^q^)\気づけば2時間近く経過していたと・・・・・・いいます。
ところで、ここ3ヶ月ほど本棚に対する楳図インヴェィジョンがやばいwww『わたしは慎悟』文庫版1~7巻、『漂流教室』文庫版1、2、6巻、『神の左手悪魔の右手』コミック版全巻、『赤ん坊少女』文庫版、『恐怖』ハードカバー版全2巻、『洗礼』文庫版1巻、『恐い話』の文庫版が何冊か、SVCの『へび女』、秋田書店版の分厚い単行本版『おろち』(3巻だけ)etc....年内でドコまで増えるのかということを考えると「ギャーッ!」って感じ。
- 2009/06/29(月) 20:09:01|
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奇妙な巡り合わせというものがある。今回の書評(本の山に埋もれながら、気づけば書評の執筆にとりかかるまでに、とんでもないくらい大幅な時間を経てしまった)で本書『クラッシュ』を受け取って、ふと思い出したことがある。
確か、中学生時代の頃の青臭い思い出だが、中学生という年齢上、アダルトビデオを借りることは出来ない。しかし、思春期に特有のあの悶々とした感じを押さえることはできない。交通事故の映像で欲望を昇華するような性癖を持っていれば、反乱するハリウッド映画で用を足すことができたかもしれないが、お色気シーンの多いアニメ作品や、性がテーマであっても一般作として流通している映画などに、ひとまずのトコロとして性の捌け口を見出していた。
そんな中で、たまたま手に取ったのが『クラッシュ』だった。果たして、お目当てのシーンで目的を果たせたのかどうか、全く思い出すことは出来ないが、どうも最後まで、あの奇妙な映画に見入ってしまった記憶がある。
献本を受け取った後、翻訳は雑誌『映画秘宝』の読者にはタマラナイ柳下毅一郎、映画版の監督がデイヴィッド・クローネンバーグということを知って驚愕し、さらには主演女優がホリー・ハンター(愛する映画のひとつ『ピアノ・レッスン』の主演女優だった!)ということを、つい最近知り、さらに、さらに驚愕した。
そういった経緯があり、この『クラッシュ』はぼくにとって、様々な意味で業の深い作品であるが、その内容もまた、非常にぼく自身の興味を深く掘り下げてくれるものでもある。本作のテーマは表題にも表れているように「激突事故」で、さらに限定していえば自動車の追突事故である。
自動車は、ぼくたちの身近にあり、特に地方都市では生活から切り離すことの出来ない機械であるし、鋼鉄製のフレームで生身の身体を包み込むという点は、まるで鋼鉄の子宮のようにも見える。そして、頭蓋貫通(トレパネーション)を扱っていることで名高い山本英夫のマンガ『ホムンクルス』では、自動車の中で胎児のように膝を抱え、指をしゃぶりながら安眠する主人公が繰り返し描かれている。
自動車が搭乗者を包み込むという点で、子宮を象徴する一方、走行し、障害物や他の車に激突する自動車はペニスの役割を果たしている。これは、追突事故で「カマを掘る」といった俗語があることからも、容易に想像できると思う。
停止している時は子宮の役割を果たし、走行中にはペニスの役割を果たす自動車という、極めて近代的な機械(時には<兵器>にもなりうる)に執着する余りに登場する、偏執的な欲望と、交通事故によって一体化する機械の破片と肉体の破片の融合という悪夢的な光景・・・・・・『クラッシュ』で描かれる自動車事故や、鋼鉄のフレームによって貫かれることで生じる身体損傷の場面は、『ビデオ・ドローム』の監督であるクローネンバーグこそが、映画版を監督することが相応しいと示唆しているようにも思える。
「わたしは事故から回復していった。2つの病棟をなす24のベッドは――最大生存者数期値――航空事故の犠牲者用に空けてある。そのうちのひとつを、たまたま自動車事故の怪我人が使っていたわけだ。/体をおおっていた血が、すべて殺した男のものだったわけではない。緊急手術室でアジア人医師に検査され、両膝が計器パネルに粉砕されているのがわかった。長くのびる痛みは太股から鼠径部まで、まるで両足の静脈に細い鋼鉄のカテーテルを通したかのように走った。」(34頁)
こういった場面はまだまだ序の口で、『クラッシュ』の中では、激突事故や、事故を起こしうるような状況に興奮するカップルや、事故を通じて身体を鋼鉄のフレームに貫かれることで、性的魅力を発露する女――この時、哀れな女の身体の性的魅力を覗き見するのは、文を追うぼくたち自身だ――などが、極めて冷徹に描き出される。
新聞における交通事故の報道のように、事故による損傷の中でエロティックな価値を付与される女の身体も、傷ましい身体損傷を被った人体も、ひしゃげた車も、様々な体液でねっとりと汚された車内や計器類、そしてガラスやシートも、バラッドの筆の中では、一編のドラマ性を持たず、ただただ冷淡に記述されるのみである。
例えは適切ではないかもしれないが、レイプを主題としたアダルト・ヴィデオや、極めて陰惨な演出によるものは、劇回し染みた男女の台詞に耳を塞ぐ限りにおいては、ただただ、極めて冷徹に、陰惨で暴力的な場面が展開され、ぼくたちの眼前に突きつけられる。『クラッシュ』における性と暴力は、それに似ているのではないかと、ぼくは感じている。
作品のストーリーは、あるひとりの誘惑者の事故<死>の翌日から始まる。そして物語は誘惑者とのクラッシュ・アバンチュールによって、激突狂となった主人公の回想を通じて、様々なシチュエーションにおける、クラッシュ&セックスが冷徹に記述され、時にはサド侯爵のような反復によって記述される。
主人公は、不慮の事故で生じた正面衝突によって、事故の相手を死に至らしめる。事故車に搭乗していた夫妻の夫は死に、妻は生き残る――「衝突によって心から解き放たれた強迫観念によって、わたしは周囲のすべて性的可能性を見いだした。病棟いっぱいにあふれた回復期の航空事故患者が、イメージの売春宿を心に抱くさまを夢見た。2台の車の衝突は、究極の、これまで想像すらされなかった性的合一のモデルだったのだ。いまだとうちゃくせざる患者たちの傷痕がわたしをさし招いた。無限の夢想の百科事典へと。」(37頁)。
最初の衝突事故によって、世間から後ろ指を指されないような、抑圧された性的欲求という足枷を外された主人公の周囲に、一人の男、ヴォーンが現れ、主人公に衝突事故による快楽の手ほどきを行い、主人公の周囲の人間、そしてかつての衝突事故で夫を死なせた未亡人をも巻き込んで、「クラッシュ」の乱交は広がっていく――「ヴォーンを通して、わたしは自動車事故の真の重要性を、ムチ打ち症と横転事故の意味を、正面衝突のエクスタシーを学んだ。」(18頁)。
ヴォーンという存在は、主人公の衝突体験から生じたシャドウないしは分身(ダブル)――ゴシック小説では馴染み深いテーマ――と読むことができるし、ただ単純に衝突の快楽に憑かれた偏執狂と読むことができるだろう。そして交通事故(「クラッシュ」)の中に潜む暴力性と性的要素・・・・・・それらをただ、冷徹に記述するバラッドの筆の向こうに、ぼくたちは何を読むべきか。
新しい身体、技術によって発展した新しいセクシュアリティ、新しい暴力、新しい逸脱ないしは倒錯、あるいは「テクノゴシック」etc…『クラッシュ』のストーリーは、冒頭におけるヴォーンの死(様々な衝突演習を重ねながら、ヴォーンが計画してきた、さる有名人との事故死)から始まり、主人公がどのような経緯で衝突の快楽に気づき、ヴォーンとの演習を通じて、その快楽を深化させてきたかという点に重点がおかれており、読み手は主人公の回想と共に、衝突の快楽を学ぶ旅に連れ出される。
それらはただ、淡々と記述され続けるという点を踏まえれば、サド侯爵の『悪徳の栄え』に近い構造を持った、陰のヴィルトゥング・ロマンスかもしれないが、本作は序文で作者のバラッド自身が「もちろん、『クラッシュ』が扱っているのは想像上の災害ではなく、今現在差し迫った、あらゆる産業社会で制度化されている全地球的災害、毎年何十万人もの人を殺し、何百万人を傷つけている災害である。自動車事故の中に、我々は、セックスとテクノロジーの悪夢じみた婚姻の不吉な予兆を読みとっているのではあるまいか? 現代テクノロジーは、誰も想像もしていなかった手段で、我々の精神病理の扉を叩いているのではなかろうか? 生来の倒錯にたづなをつけるのは我々にとって利のあることなのだろうか? ・・・・・・言うまでもなかろうが、『クラッシュ』の区割りは警告にある。テクノロジカル・ランドスケープの辺境からますます強まりつつある声で呼びかける、この野蛮なエロティックな、光り輝く領域への警戒信号なのである。」(12頁)と述べるように、『クラッシュ』は「素晴らしき新世界」に潜む、名状しがたい、何がしかのテクノ・デザイアとも呼ぶべき、新しい衝動に対する警告でもある。
警告という点では、陽のヴィルトゥング・ロマンスとして、『クラッシュ』を読むことが出来るかもしれない。しかしながら、冒頭で述べた、映画場『クラッシュ』を観てから、多分、十数年以上経過した後、『クラッシュ』を献本として受け取る、少なくとも1年以上前、信号待ちをしていたぼくは。目の前で一般車とタクシー同士の衝突事故を目撃した。
カマを掘られた方のタクシーが急ブレーキをかけ、後続のタクシーがカマを掘る形になり、どちらに過失があるかということは明らかな事故だったが、掘られた側のひしゃげたトランク部分、追突した側の潰れたバンパー部の凄惨たる<表情>に、わずかながら胸を高まらせた思い出がある。もし、それら、ゲシュタルト崩壊した機械のフレームに、同じくゲシュタルト崩壊した人間の体液が、人間の生態フレームが混ざり合っていたとしたら、バラードの『クラッシュ』を読む前だったぼくは、一体どう感じたのだろうか・・・・・・もしかしたら、あの時以上に、こみあげる熱い何か(something hot)を押さえることが出来ず、もっともっと、前かがみになってしまたのかもしれない。
[J・G・バラード『クラッシュ』]の続きを読む
- 2009/06/29(月) 03:17:05|
- 書評〔本が好き!による献本〕
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昼は暑すぎて参った。しかし夜はなんだか寒々しく。なにこの砂漠状態な東京砂漠。
そんな調子で今日も脳髄は凶器です。英語にすれば、 todAy Brain Crazyでアナグラムにできそうだよな。アリスとマザーグスの読みすぎです。はいはい、エロスエロス。
そんな調子で今日も肩凝りに悩まされる肉体は弁論の夢を見ると。たまには安眠したいな。脳髄はモノヲ思フフニワ非ず、モノヲ思フは町や時代にへばりついた意識や欲望だったら良いのになと、少年は狂いの世界に憧れる。
まだスモックを着るわけでもないし、17の悪夢としてナイフを握るには年をとりすぎた。時代は「30過ぎを信じるな」とか「30過ぎに俺は死ぬ」なんてポーズを許してくれないほどに狂ってる。
こんな時代の中で狂わずにいれるだけ、息をできているだけ奇跡的にキチ○イじみた業績なんだぜ?
あと、ケイト・グリーナウェイにはまりすぎてやばい。お洋服「カワイイ!」。
借用渉猟
伊藤元雄(編),1993,『ケイト・グリーナウェイ――絵本の詩人――』
Kate Greemaway,1881,『Kate Greenawy's Mother Goose』
Takayuki Tatumi,2006,『Full Metal Apache Transactions Between Cyberpunk Japan ane Avant-Pop America』
山内志朗,2003,『ライプニッツ なぜ私は世界にひとりしかいないのか』
村上嘉隆,1993,『ハイデッガーとライプニッツ』
伊藤剛,2005,『テヅカ イズ デッド ひらかれたマンガ表言論へ』
- 2009/06/25(木) 23:16:41|
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ジュディーはパンクガール。ジョニーは感受性の高いガイ。とりあず、ダラダラした一日だけど、稲垣直樹の『サドから「星の王子さまへ」 フランス小説と日本人』は再読だけれど読み終わった。とりあえず、1冊の本を読み終えただけ、一日をダラっと生きて「明日こそは云々」というよりは、価値のある一日を過ごせたと思う。それが大学4年間の、屈辱と転向を通じて生み出した処世術。
それにしても、ミシェル・フーコーについての記述「パリの国立図書館で暗黒小説、6、70編、暗黒演劇のシナリオ100編以上を私は読みあさった。その当時、前述のフーコーはまだ存命中で、『性の歴史』の第二巻の資料収集の最中であった。・・・・・・かなり特殊な資料を閲覧する必要のあったフーコーも、よくそのコーナーに来て、狭いコーナーでしばしば斜め前辺りの席に座ったものだ。髪の毛をつるつるに剃った頭に金縁眼鏡という容貌魁偉なフーコーは実に目立った。私はその理知的な存在の、文字どおり、まぶしさに、なるべく目をあげないようにしていた。事実関係を誤認した全くの偏見だが、最近話題の恐ろしい病(JUNK注:AIDS)が死因だったとも言われる、その得意な性的志向の噂が当時から流布し、そんな人とうっかり視線が合いでもしたら・・・・・・とも思ったので。」(同前,31頁)が初々しくてワロタ。
なんにせよ、当時は偏見の目で見ていたことをしっかり認めたうえで、それを堂々と告白ないしは自省できることは大事なことだよね。JUNKさんも初めて2丁目に連れて行かれた時、常に菊座をガードしていなければいかんのでは? という被害妄想に取り憑かれていたネ。まだ、若かりしかつプリティでキュアキュアだった頃。
とりあえず、帰宅してまた外出してまた帰宅して以降は、週末に向けてアリスだった。「あと、いったい何枚ほど、『アリスたち』の図版をスキャンしてワードに挿入すれば良いんでしょうか・・・・・・」と思いながら、とりあえず適当なトコロで切り上げる。
でも、帰宅早々は「GO! GO! HEAVEN! 自決少女隊」の続き(2週目)をまた観てしまって、黒雪姫ちゃんが飛び降りする辺りで、思わず「(´;ω;`)ウッ」ときてしまう・・・・・・最近涙もろいんだ。特に、『星の王子さま』を読んでから以降。
あと、最近気づいたのが、飲んだ際に『星の王子さま』の話になると、必ずキツネと、黄色い麦が揺れる光景を見る度に、キミ(王子さま)の姿を思い出すね・・・・・・みたいなお別れの台詞を思い出して、「(´;ω;`)ヴワァッ!」となるクセに気づいた。彼人曰く「感受性が強いのですね」。
あー・・・・・・確かに、「自決少女隊」にしてもそうなんだけど、グっときてしまったものに対して、素直に感動を表せない大人にはなりたかぁない、なんてずっと思ってきた。例えば、星野王子さまを「児童文学だから」とか、はなっから決めつけて、読んでる最中に目頭が熱くなってきているのに、それを「だって俺/私は『オトナ』なんだから」とか、生き辛いだけで何も産みやしない、クダラナイ使命感に駆られて、感受性を押し殺すようなヤツになるなら氏んだ方がマシさとか思うよね。
とりあえず、寝る。今日こそ早く寝ようと思っていたのに、4時とか、何ソレ? 明日はなるだけ早く起きる。
- 2009/06/23(火) 04:03:53|
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今日のまとめ→ガラム愛飲者(ガラマー)=変態、people=Shit。先月くらいに酒飲んでいたときに、冗談まじりに言われた言葉→タロット愛用者=変態。結局、ガラマーでテロティストなぼくは、どうやっても、変態という呪縛から抜け出せないのですね、わかります。
最近は色んな遊び場で活動中。色々とやっているのだけど、意識したとしても、意識せずとも「変態評論家」として、JUNKさんの浮き名が独り歩きしていく・・・・・・そういう時に、いつも考えるのが、「なんでまた、こんな奇妙なアウトゾーンつうか、周縁」に迷い込んでしまったのだろうという疑念。
多分、どこかしらで道を間違っていなければ、日々の暮らしだとかに呪詛を吐いたり、「自分は本当はこんなことなどやりたくない!」とか嘆くような側にいたんだと思う。ある意味。そっちの側にいた方が、夢の中でさ本を読んだり、なにがしかについて議論することもないから、ある意味では楽なのかなぁ、なんて思うこともある。
とりあえず。軽く告知。いつも遊び場を提供して貰ってる「勝手に表象ゼミ」だが、次回は6/28日(日曜)、下北沢でやるよ。とりあえず、いっかいこっきりの参加で、ただ発表を聞いているだけ(できれば、休憩中だとか、打ち上げとかで、多少感想を教えて貰えるとウレシイな)。今回はJUNKさん、「日本と19世紀のイギリスにおけるアリスのイメージ」なるテーマで、
「アリス」のイメージが生まれた背景と、日本での受容の変遷、ついでに、ヴィクトリア型子供服の誕生についてゴニョゴニョするよ。
来月はそれらを踏まえたうえで、19世紀ヴィクトリア朝時代の子供服の影響が、いかにロリィタファッションの中に、アリスともども浸透しているかという点について、6月の続きものとしてやる予定(6月・7月のどちらかに出ても内容は解るようにするけど、両方出るともっと楽しい)。
8月にはタロットについてやるゾ、みんな、ちょっとでも興味を持って貰えたら、ぜひ参加してくれよな。たまには、頭を体操してみるのも良いじゃん? 金銭的な利益にはならないけど、人生を楽しく生きてみたり、好奇心を持って、周囲に溢れる事物を見るための指針にはなるはず。少しでも気になったら、レッツ コミュ参加&次回ないしは次々回の集いについての参加表明!
○勝手に表象ゼミ(mixi内URLにつき、見れない方には申し訳ない)
http://mixi.jp/view_community.pl?id=3951406 んで、今日は今日とて、「SM文学研究会」に出てきた。次は、発表を行う俺の予定次第ということになると思うのだけど、8月の第一土曜日になると思うよ。今回やったのは「サド侯爵」、「マゾッホ」だけど、次は倉橋由美子の「マゾヒストM氏の肖像」、天野哲夫の「K女史の肖像」、ついでに天野の『三者関係の罠』のラストで描かれた、遠藤周作の奇行辺りについてやろうかと・・・・・・情報は後日。
- 2009/06/21(日) 03:54:09|
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俗にいうゴシックとかいうヤツだが、アリス同様にイメージがひとり歩きしてるもんだ。小池滋の『ゴシック小説を読む』の年表を眺めてたら、ちょうど、ゴシック小説群と入れ替わるカタチで、我がヴィクトリア朝児童文学に、主流なバトンが渡されていることに気づいた(今さらか! という声には「やっとだよ!」としか、返答せざるを得ない)。
なんのかんの、ある種のミッシング・リンクを見て取ってしまったから、ちょっと本気を出して、三文ゴシック論にでも取り組もうかなと思ってきた→ゴシックについて、耽美だの崇高だの、極めて捏造されたイメージを付与する連中を啓蒙する感じのヤツ。
女のパンツなんてただの布ですよ、なんてよく言うけど、それとおんなじように、ゴシックなんて、ただの三文小説ですよ! なんて笑い飛ばしちゃうようなヤツ。しかし、ゴシックがB級でも、キャンプでも、キッチュだとか、なんだかんだいってゴシックの冒険心や崇高性は大好きだけどね。もちろん、ゴシック・ロマンスな耽美性も。
アキバ的なゴシック(詳しく語るのはめんどくさいから、TH叢書の『ネオゴシック』を読んでくれ)にこだわる薄っぺらいゴシストの脳髄に啓蒙の天誅を、という調子で書くと思う。気が向けば年内、さもなきゃ来年辺り。
Q:ゴシックを論じればモテる?(´・ω・`)
A:モテるよ~。モテちゃうよ~。モテモテ~、だよ~。(byペルリ提督)。
じゃあ書こうかな。ただし、ただでさえ元から安っぽい「ゴシック」という言葉に、理想という名で塗られた中二病メッキを剥がすような作業になるからなあ。それでもなおモテるなら、ちょっと前向きに、作業を前倒ししても良いかなとか考える。
「ゴス」? 知らんがな(´・ω・)y-~~
借用渉猟
スティーヴン・マーカス『もうひとつのヴィクトリア時代 性と享楽の英国裏面史』
ピーター・コンラッド『ヴィクトリア朝の宝部屋』
エドマンド・バーク『崇高と美の観念の起源』
坂井妙子『おとぎの国のモード ファンタジーに見る服を着た動物たち』
コリン・ウィルソン『超読書体験』(下)
- 2009/06/20(土) 23:24:07|
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最近、午前中に起きられなさすぎてやばい。梅雨だもんね、気分も鬱々してくるさ。でも、気分いやいやながらも、習性とし本を読んだり、何か書かざるを得ない。
昨日はサドの『美徳の不幸』の残りを読んで、ドゥルーズの『マゾッホとサド』を再読したぜや→後者はいつもの店で読んでて、キリのいいトコで切り上げるつもりがラストまで読んでしまう→店でたら1時半/(^O^)\。
今日は昼過ぎに起きて、シャワーを浴びてたらあまりにも肩凝りが酷いから風呂に切り替えて、文庫版の『ゾンビ屋れいこ』の4~7を読んでしまい、風呂から出たら3時過ぎ/(^O^)\2時代だと思ったよ。
ザクっと支度して、別冊宝島の『変態さんがいく!』(SM編)と『官能本大全』、矢切隆之『世紀末 性のワンダーランド日本の超変態系性現象』あたりを、マゾッホの『ヴィーナス』、サドの『美徳の不幸』、あと『グノーシス陰の歴史』なる本、ついでに昨日読んでたドゥルーズなんかが入ってる鞄に放り込んで出撃。東横線混みすぎワロスwww
変態および倒錯関連の資料は、十分とはいえないまでも、今日の集まりのために使えそうな資料を選別するのに迷う程度にあるけど、もっともっと×1000000くらい充実させたいよなあ。
- 2009/06/20(土) 16:13:25|
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ふたりはでかけました。ふたりのいったさきがどこであろうと、またその途中にどんなことがおころうと、森のてっぺんの、あの魔法にかけられた場所では、小さな男の子とクマが、いつも遊んでいることでしょう。
――A・A ミルン『プー横丁にたった家』
関東でのゲリラ豪雨が酷すぎてススムちゃん大ショック! 最近ますます回りの人間を見る際(自分を含めて)タロットでいう「愚者の旅」のフィルターを通してしか見えなくなってきた。アリス憑きと同様、現在タロットについて色々書いているためだと思う。
「愚者の旅」では0番の「愚者」が1番の「魔術師」を契機として、いろんな人に出会い生き方を教えられ、9番「隠者」から内省の旅に向かい、やがては宇宙的な領域に向かい、世界に達する。
そして再び「愚者」として、新しい旅を再開する、というワケなんだが、世界への到達は、あるひとつの悩みや問題についてのゴールでしかなく、人生だとか、人間の完成におけるゴールではないんだな。
久々に、自分の過去を「愚者の旅」に照らし合わせて考えてみたら、何度も世界に達しているけど、また新たな局面においては、0から旅を続けているんだなと思った。カードの意味は、悩みや問題という文脈に則して複数のものが提示されるように、「愚者の旅」もまた、人が色々と悩む限り(ゲーテに言わせれば「人は努力する限り悩む者である」)、色々な状況の旅があるもんだよね。
あとね、俺のバイブルである、「GO! GO! HEAVEN! 自決少女帯」をまた見直し始めた。ドラマで何度も見返すのって初めてかも・・・そう考えると、うちにはなんて恐ろしいDVD- BOXがあるんだ! 全話見ても6時間とはいえ、1話見だすと「もう1話!」となるんだな。
今回は原作マンガ版1~3巻を読破したうえだし、結末を知っているからこそ、リーダーのジュリアを除いた「自決少女帯」のメンバーが、「バンドをやること」や「自決少女帯」というバンド名に難色を示す場面がね・・・くるんだよ。今回は、1日1話の原則を守ってる・・・・・・DVDを手に入れた時は、1日3~4話(1話30分、ディスク1枚あたり4話収録)を一気に見てしまい、何度明け方になっていたことか!
- 2009/06/17(水) 02:21:28|
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「翌日スブリガニはクレアウィルに毒を飲まされた挙句、地獄の悪鬼どものところへ行って、女の身体のなかに住んでいる悪魔は、詩人や祭司たちが描いてくれる冥府の悪魔より、千倍も恐ろしいものだということをつくづく語り合わねばなりませんでした。」―マルキ・ド・サド『悪徳の栄え』
『悪徳の栄え』(下)が読み終わる。ってか、読み始めたのは今日の昼間だっけ?
まさにそれこそが悪徳!あの痛快なジェットコゥスタァのスリルに身をやつした者ほど、千鳥や若気を行うかのように頁をめくる手を止められない輩はいない。金・土と私はマゾッホでした。日・月と私はサド公爵でありました。そして公爵様はちょっぴりフェミニストな面があるなと思いました。
S(男)×M(女)という構図しか意識のないクソ牡どものアナルカントに、ぜひ公爵様のバイブルをねじこんでやりたい、と思うのは、まだ私があのいまいましい美徳に支配されうる部分があるのでしょう。
とはいえ、悪徳を賛美し美徳を憂う、あの「神」の嘆きの雷、あの敬虔な美徳者であり、唾棄すべき異端者でもあるジュスティーヌを鞭打った天のさばきは、何故に私の上に落ちないのか?私にとっての「愛しいお友達であるデュラン」がまだ現れていないということもありえますし、私自身がデュランとなる役割を背負い、「愛しいお友だちジュリエット」を待つ役割を背負わせたというのでしょうか、忌々しい悪徳の化身、デミウルゴスは。
私はラオコーンのようなマゾッホ精神あふれる殉教者(「殉教」という呼称は適切ではありませんが)にも、はたまたヘリオガバルスのような放蕩者にもなる気はありません。私はタロットの「吊られた男」が戯れに演じてみせたオーディンに憧れ、同じく「悪魔」のカードが演じてみせたサタン、悪徳という名誉によって堕落という進歩を被った黒のプロメテウス、ルシフェルという名のハ・サタンを羨望し、グノーシス主義者が称えるサタンのような知の誘惑者となり、この世の綺麗事を暴くために、「皇帝」のカードが左手に抱える帝国の林檎(Reichsapfel)を世にあまねく全ての人々の口で、契水で、菊座で、それよりも、なによりも、脳髄で味わって頂きたいと思うのです!
ああ、窓に! 窓に!
- 2009/06/16(火) 01:25:22|
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三人の女神は、あたしの傭っていた女衒がパリで見つけ出した娘たちのなかの、もっとも美しい三人によって扮装されたものでしたが、男達の欲望の一瞥を感じ取るやいなや、即刻お尻を丸出しにして、彼らの方へ差し出すのでした。二人の道楽者はこれに接吻し、ぺろぺろ舐め、理由もないのに噛みつきました。
「おお、サン・フォンさん」と侯爵が言いました、「この女神達に鞭打たれようではありませんか」
「鞭は薔薇の樹の枝がいい」とサン・フォンが言いました。
そこで二人の好色漢は裸の尻を突き出し、薔薇の花束や、この女面鷲身神(ハルピュイアイ)たちの蛇の鞭で、きびしく打たれました。
――マルキ・ド・サド『悪徳の栄え』
私は逞しいブルンヒルデに婚礼の新床で縛められるダンター王を嫉妬し、気まぐれな女王に狼の毛皮の中に縫い込まれて野獣のように犬に追い回される哀れな吟遊詩人を嫉妬しました。剛胆なアマゾネスのシャルカにプラーハの森の中で奸計の罠にかかって捕らえられ、ディヴィンの城に拉致されて、しばし暇つぶしの種に弄ばれてから車裂きにされたあの騎士スチラードが羨望に耐えませんでした――。
――ザッヘル・マゾッホ『毛皮を着たヴィーナス』
現代人は、もっとも勇気のあるものでさえ、自分自身にたいしては恐怖を抱いている。未開人の肉体毀損の習慣が。悲劇的にもいまだに自己否定という形で生き残っており、それがわれわれの生命を傷つけているのだ。人間は拒絶すればかならず罰をうけるのだ。われわれが衝動を絞め殺そうとすると、それは今度は精神の内部に潜り込み、われわれを毒し続ける。肉体はひとたび罪を犯してしまえば、その罪と手を切ることが出来る。行動とは一種の浄化作用にほかならぬからだ。罪を犯したあとに残るものといえば、快楽の思い出か、悔恨という豪華な感情だけなのだ。誘惑を除きさる方法はただひとつ、誘惑に負けてしまうことだけだ。
――オスカー・ワイルド『ドリアン・グレイの肖像』
とある店先の、背が高く幅のせまい鏡の中に、歩いてゆく自分の姿が見える。少し顔が蒼ざめ、眼がぼんやりしている。ぼくが求めているのは、ひとりの女ではなく、女の全部だ。ぼくは身のまわりに、ひとりひとり女をさがしているのだ。女はぼくのほうへ寄ってきたそうな様子を見せながら、そのまま通りすぎ、どこかへいってしまう。
――アンリ・バルデュス『地獄』
昨日はマゾッホ、今日はサド、今夜辺りはホッピーでも飲みながらミルンの『クマのプーさん』を少しばかり読むか。それよりも、『悪徳の栄え』が面白すぎてヤバイ。ジェットコースターにでも乗った気分でサクサク読めるよね。
一昨日は『ドリアン・グレイの肖像』、昨日は『毛皮を着たヴィーナス』、今日は『悪徳の栄え』という調子で、貪るように「そのて」の作品を読んでいるわけだが、3作品に共通なのは、可能性を持つ人物を、退廃や悪徳のヴィルトゥオーソへと導いていく教育者や、個人に対する「崇拝」である。
なんか昨日は久々にSlipKnotを爆音で聞いていたら、原歌詞の方をぼーっと眺めてたら、どんどん鬱々とした気分が上昇しいって、酒と、深夜のテンションが相まってネジが吹っ飛んで、明け方まで、身体は寝たいのに脳が寝ることを拒否するという酷い状態にあってまいった。
脳がさ「私も、崇高(sublime)を獲得し、崇拝されてみたい!」とかいってんの。鼻で笑っちゃう。市井の隠遁社が、キテレツな文章を紙の束に詰め込んだ阿呆船を世に放った暁には、誰か俺のコミュでも作ってくれwwww
帰宅して、とっととタロットについて書いて、アリスについて書こうと思ったのに・・・また無駄な日記を書いてしまった←普段、ほとんど携帯から日記書いてるから、早めに帰ってきた時くらい、ついついキーボードで日記を書いてみたくなるわけサね。
- 2009/06/14(日) 20:51:24|
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「教訓の方はどうなりました?」
「自然の手になる被造物で、げんに男が惹きつけられている女というものは、男の敵だということです。女は男の奴隷になるか暴君になるかのいずれかであって、絶対にともに肩を並べた朋輩とはなり得ないのです。女が男の同行者になるとすれば、女が権利において男と同等になり、教養も労働も男に匹敵するときがきてはじめて可能なのです。」
目下のところは、金槌になるか金床になるかの2つに1つしかありません。われから女の奴隷になるなどとは、愚か者もいいところでした。そうではありませんか?
ですからこの物語の教訓は、鞭を打たれるものは鞭を打たれるのにふさわしい人間でしかないということです。
――ザッヒェル・マゾッホ『毛皮を着たヴィーナス』
とりあえず、昨日一気に読破した『ドリアン・グレイの肖像』に続き、『毛皮を着たヴィーナス』が読み終わった→次はサド侯爵の『悪徳の栄え』(上・下)か・・・・・・その次は、ああ、ラヴレーの『ガルガンチュア物語』が積んであるし、こないだ仕入れたデイヴィッド・ソズノウスキ『大吸血時代』を読まなきゃイケナイ。
むしろ、『嵐が丘』を、いや『ヴァテック』や『放浪者メルモス』を・・・・・・いやいや、やはり『マンク』を。とはいえ数ヶ月前から積んであるエンデの『鏡の中の鏡』を・・・むしろ、すっかり忘れていたミルの『クマのプーさん/プー横町に立った家』を・・・。
それよりも仕事(カキモノ)だ仕事。アリスについて、タロットについて、色々と書かなきゃ。女王様に首を刎ねられちまう! 久々に日中から自由な時間があるし、珍しくモチベーションが高まってるから、書きかけて放置してある仕事の山を云々。
「教訓の方はどうなりました?」
午前中に起きると、脳髄の調子がよくて気持ち良いね!
- 2009/06/13(土) 13:37:11|
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夕方に近い昼間に、衝動的に手に入れたオスカー・ワイルド『ドリアン・グレイの肖像』が今しがた読み終わり、昨夜から読み始め、夕方に近い昼に蒲田のラーメン大で、野菜少し多目undニンニクのラーメンが出てくるまで読んでた、ザヘル・マゾッホ『毛皮を着たヴィーナス』が、イタリア旅行の直前までしか読みおわらなかったとは如何なることか!
凄まじい勢いで読み終えてしまった長編は、ディック親父の『アンドロ羊』と、バルデュスの『地獄』以来な気もするんだけど、文学以外でも凄まじい勢いで読み漁ってるからなあ。しかし、今日は活動時間のほぼ半分が『ドリアン・グレイの肖像』に悶える行為に充てられていたような気がする。ああ、怠惰な! 極めて怠惰な一日!
しかも、恐ろしいことに、アントナン・アルトーやピーター・ブリュックが書き、17日にやるアルトーのイベントのパンフに載せるエッセイのために、俺が発狂したニーチェの手紙を引いたり、自分の舞台経験を語りながら書いた演劇論が、いともあっさりと、『ドリアン・グレイの肖像』の中で描かれていて参った。
「あのひとは、ある晩はロザリンドであり、ある晩はイモージェンだ。ぼくは、あのひとがイタリアの暗い墓場のなかで、愛人の脣から毒を吸って死んでいくのを見守り、あるいはまた、ぴったり身にあったズボンをはき、胴着を着、粋な帽子をかぶった美しい少年の姿で、アーデンの森をさまよい歩くのも見た。罪ある王の前に現れ、ういきょうを差し出して身につけろと勧め、味わってごらんと苦い薬草を渡したこともあった。なんの罪もないあのひとのほっそりとした咽頭を、嫉妬に狂う黒い手が圧し潰したこともあった。あらゆる年齢のあのひと、そしてあらゆる衣装を身にまとったあのひとをぼくは見たのです。」『ドリアン・グレイの肖像』、新潮文庫版105-6頁。
かなりの天啓を得て書いた一説が、ほぼ2世紀前に、タイトルやあらすじでを読む限り、まったく演劇と関係ないところで、まったく同じように語られていたのがshockだ! 「あの人は」と「私は」の違いはあるけどな。
- 2009/06/13(土) 01:38:17|
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原稿に使う関係で数年ぶりにバロウズの『ゴースト』を手にとったが、キリスト病が世界にはびこって、数千万の予言者が現れて、ついでに昔ながらの伝染病や疫病もパンデミックして、世界が滅ぶ様を楽しそうに描く下り、マジでたまらんわ。
むかしに関わってた大作に使うだけでなく、あまりにも言葉が紡ぐイメージに感銘を受け、訳文だが思わずノートに引用文を書き写したことが昨日のように思い出されるッ!
それはそうと、ここんとこ眠りが全然充実してなくてやばい。不眠じゃないんだけど、寝てる最中のはずなのに脳が全然寝てないっていうの?夢のなかまで本を読み、なにかに関する感想や批評を垂れ流し、もう起きてるのか寝てるのか全く区別がつかない感じ。寝た気がしないまま、早期覚醒して、時間があるからと二度寝すれど、また脳が休まった気がしないままな起きる。
なんかここ2週間くらいずっとそんな調子。起き抜けから夕方までは、なんだかスゴイ鬱々してるんだけど、夜になるか、酒を飲むか、本を読むかしてると精神の均衡が保たれるような気がする。あくまでも気がするだけ。
昨日は帰りがけに蒲田のブクオフ寄ったらディック親父の『アンドロ羊』が105円で投げ売りされてるばかりか、前々から気になってた海外なポップな吸血鬼モノまでも105円だったから、火急的速やかに救出してきた。たぶん、今月一杯は積ん読だろうけど。
んで、今日の帰りがけはしばらくぶりの狩場(神奈川の某ブクオフ)よったら、マンガ文庫版『ステイシー』があったんで、救出してきたが、それ以外は全くめぼしいものがなかった。しかし、原作のハードカバー版と同じく、電車で読みにくいけしからん表紙だな『ステーシー』。ハードカバー版の裏表紙よりはマシだがwwww
借用渉猟
ウイリアム・S・バロウズ『ゴースト』
マルキ・ド・サド『悪徳の栄え』(上・下)
ザッヘル・マゾッホ『毛皮を着たヴィーナス』
山田勝『ダンディズム 貴族趣味と近代文明批判』
パメラ・ホーン『ヴィクトリアン・サーヴァント―階下の世界』
堀江珠喜『ワイルドとホームズとサロメのレヴュー世界』
- 2009/06/11(木) 23:17:10|
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――「もし、全世界が一冊の書物か、ひとつの図書館であるなら、その中ではページはわれわれの足でめくらねばならないし、一行ずつは巡礼の歩みのごとく読まねればならない。」byパラケルスス
読書人の本に対する偏愛を読むのは、考える色情狂の性に対する偏愛(作者不詳の『我が秘密の生涯』やサド公爵やフロイト、そしてコリン・ウィルソンの性に関する著作!)と同じくらい痛快なものである。しばらく積んであった澁澤龍彦(他)『ボルヘス』の世界を読み始めたよ。もうすぐ読み終わるけど。てか、ボルヘスについては、少なからず周りから入れ知恵されながらも、今日はじめてボルヘスの作品(「自伝的エッセイ」)を読んだよ→それこそボルヘス的だ。
「バベルの図書館」で、図書館が宇宙と称され映画シナリオ「はみだした男」で、本屋の主人が天文台という機能を持つ「図書館」を訪れるくだりは、熱いものが込みあげてヤバイ。
「父親が息子をさがしに天文台を訪れることと、一冊の抜き取られた書物(とその同じ書物)をさがして図書館を訪れることとは、ボルヘスにとって同じことを意味している。それは、何億光年の彼方にも見出だすことのできぬものであり、同時にすぐ隣の一冊のなかにもひそんでいるかも知れないもの、だからである。『図書館は無窮』であり、旅行者は一冊の書物の5行目で生まれて、6行目で死ぬかも知れない存在だ――と私は考える。」――寺山修司「図書館の宇宙誌―― 書物の引力について」『ボルヘスの世界』114頁。
なんか宇宙=図書館=世界=タロット・カードという4段進化が確実なものになりはじめ、宇宙やばい!
- 2009/06/11(木) 00:00:46|
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コンラッド『ヴィクトリア朝の宝部屋』が半分ほど読み終わる。ここんとこ、ひたすらヴィクトリア朝に関連した書物を漁ってるのだが、未だにオスカー・ワイルドの名が出てこないことに気づいた。今日やっと、ホガースやミレイといった画家、そしてカーライルの名前が出てきたのに。
いよいよ、本腰いれてディケンズとブロンデ姉妹を読み漁る前に、男色とデカダンに重点をおいたヴィクトリア朝本を読み漁る必要に駆られ始めてきた。しかしどの本も、あの当時に霊感と共に復活させられたシェイクスピアの呪縛からは逃げられなかったみたい。
なんせ、アリスのルイス・キャロルでさえ、『シルヴィーとブルーノ』にシェイクスピアを持ち込んでくるからなあ。
ヴィクトリア朝のキーワード→アリス、シェイクスピア、子供服、ダンディズム、『パンチ』誌、ポルノ、男色、放蕩、メイド狩り、階級制、階級の転落、鉄道、放蕩、切り裂きジャック、幼女、鞭打ち小説、『我が秘密の生涯』、売春価格のインフレ、グリーナウェイ・スタイル、インテリアの氾濫、ロマン主義、覗き見趣味etc.
ほんと、ロクなもんがねえなwww上から下まで見渡してみると。だがソコが良い!
- 2009/06/10(水) 03:08:24|
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昨日からものすごい勢いで読み進めていたスティーヴン・マーカス『もう一つのヴィクトリア時代 性と享楽の英国裏面史』が読み終わった。いやあ、メチャ面白いぞ此れ。
ご存じのように最近はアリスを筆頭とした19世紀の英国児童文学に憑かれていたわけだが、19世紀ヴィクトリア朝時代はメイドや執事が華やかなりし頃で、切り裂きジャックもいて、Baby T.S.S.B.のデザインスタイルの基になった磁気人形があった時代で、さらに子供服が本格的に登場した時代でもある。
加えてヴィクトリアンな『好色一代男』たる『我が秘密の生涯』が出た時期でもあると。それ以前はゴシック・ロマンスが華やぎし頃と。
「カント(女陰)だけが私の救いだった。それだけが私の救いだった。それだけが私にすべてを忘れさせてくれた。他の手としては酒かギャンブルしかなかっただろうが、私にとっては、そんなものよりはるかにカントのほうがよかった。」作者不詳『我が秘密の生涯』
なんて調子で書かれた本と、『アリス』や『たのしい川べ』が同時代に印刷・出版されていたっつうのがすさまじい。前者は富裕階級であるが、常にバロウズのような放蕩やアンダークラスの世界へグランドツアーを行っていたが、後者2つは中産階級の世界に留まっていたわけだ。
もちろん、アリスが児童文学の範疇にあり、キャロルおじさんの性癖もあるわけだが、ひとたび下層階級向けになれば、『不思議の国』で大きくなったアリスが排尿時の心配をしたり(スウィフトの『ガリバー旅行期』における小人国での生理現象の挿話をみよ!)、ウサギがアリスをメイドらしい名前「メアリー・アン」と呼んだ際な発情していたら、アリスを狩り回しても(ここら辺りはヴィクトリア朝の屋敷における階級文化を調べなされい)驚くべきことではない。
いやあ、やっぱり猟奇的な目で見た時のヴィクトリア朝はいかに楽しい文脈か。こうなると、ヴィクトリア朝をお伽に溢れた不思議の国としか語れないやつらは、キャロルおじさんがアリスの読者として想定してきた中流階級的な感性に毒されてるんだろうなあ、とか思ってきた。
ヴィクトリア朝の暗部に下降せよ! さらば知識と天啓は与えられん! その点、『家畜人ヤプー』をアリス的なメルヒェンとして読んできた矢川澄子は、ヴィクトリア朝の上も下も理解していのだと、ただただ敬服するのみである。
- 2009/06/08(月) 22:57:41|
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最近、弩変態という不名誉な称号を賜った俺だが、自らが変態だと呼称したことってあんまりないんだよね。なんか酔っぱらいが「私まだ酔ってませんから、大丈夫です!(><)」と言うような感覚。
本人自体はあまり変態ではなく、猟奇・変態・逸脱・倒錯を実践する人について知ることや、それらの人たちに対する共感がちょびっとばかり強いだけだよ。
あとは、社会の事件や人間の行動、周囲の人間存在や他者の言動などを、性的衝動やタロットを手がかりにして解読せしめようとするフィルターが脳髄の中にインプラントされたくらい→まさに精神寄生体だ!
たまには真面目に翻訳を兼ねた語学学習に時間をかけるかと、町へ出たら→辞書忘れた/(^O^)\→仕方ないから図書館行ったら、なんか「リサイクル本 ご自由にお持ちください」みたいなコーナーがあったんだ。
M-A・デカン『流行の社会心理学』
バルザック『ジャーナリズム博物誌』
NHK世論調査部(編)『日本の若者 その意識と行動』(1986)
T・シブタニ『流言と社会』
上記をおっ持ち帰りィッ!→もう鞄がパンパンパンのパンに貼りまくったぜ/(^O^)\→席ついて辞書借りたら、訳すべきテクストが入ってなかった/(^O^)\。
しかたないんで、某少女水彩画家さんの、作品製作過程の説明を訳してたワケだが、テクストは日本語での口語をかなり逐誤訳じみた固い英語に訳したうえに、さらにそれを和訳するから、読みにくくて読みにくくて、脳髄があぼーんしかけた/(^O^)\。
- 2009/06/07(日) 18:21:50|
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昔から、楽器は習わされてきたが、唯一、弦楽器のみが後世に生き残った。つまりは、ヴァイオリン。ギターは自分から弾きたいと思った楽器だった。でも、ヴァイオリンもまた、後世になって自分から弾きたいと思うようになった弦楽器だった。・・・・・・缶を数本空けたが、まだ狂っちゃいない。・・・・・・息をしているだけ奇跡だぜ。
幼少時に、良い老マイステリンを持ったためだろう。青年になった今、2年ほど前から、昔は遙か巨大な背丈を持ったマイステリンを見下ろすくらいの背丈になった自分が、ピアノ椅子に座りながら、白髪になり、腰も曲がってしまった老マイステリンのヴァイオリンを弾いている姿を上か見下げてみる。昔は、見上げていたのに、それはもう神話的な光景。今は白髪の老マイステリンとの昔話に花を咲かせるのみ。
・・・昔はもっと大きかったのにな「あの人(Madama Sir)」は・・・・・・きっと、「Trinken mich!」なんて書いてある瓶に入った飲み物を飲んでしまったんだろうな。老マイステリンに師事する俺は、まだ狂っちゃいない。今のところ。多分。
基本は弦楽器畑の人間だけれど、ピアノについて、昔の一時期、お作法のように習っていた時期があったから(ヴァイオリンのように、物心が熟しきってから、また始めようという気にはなれなかった)複雑な気持ちがある・・・・・・でも、2つの楽曲というか、2人の作曲家からは逃げられないんだ。
ジョージ・ウィンストンとマイケル・ナイマン。曲でいえばナイマンの「The heart asks the pleasure first」&「The Promise」とウィンストンの「Longing Love」(箱根彫刻の森美術館を背景とした天気予報のBGMといった方が通じるかもしれない)。前者は・・・・・・ちょうどWOWWOWで特集気味に放映していた時期、WOWWOWに加入していなかったから、スクランブルのザーザー音&映像の彼方に、海辺の・・・・・・あのピアノのある幻想的な風景と、ノイズに阻まれつつも、奇妙で熱い感動を与えてくれたナイマンの曲に、小学校高学年ながら、どれだけ心を熱くさせられことか・・・・・・・。
もちろん、ビデオ版を観た際、目にせざる得ないセックス描写に、どう挑んだのか、明確な記憶はないけど、「ぼくはマイケル・ナイマンの感動的な曲に惹かれたんでちゅ! あんな大人のプロレチュ・ごっこには興味なんかありまちぇん!」と「ブルーノ」を演じてみたかもしれないけど、今も昔も、俺には転んだときに、肘をすりむいたときに、優しく慰めてくれる「シルヴィー」はいなかった。たぶん、ルイス・キャロルにも同様だったと思う。あのオッサン、長男だったしな。
今も俺の「シルヴィー」を待ってるって? どうかな・・・別にもう「ブルーノ」を演じる必要もないし、俺の「シルヴィー」になるヤツがいるのなら、戯れに「ブルーノ」になってみようと思うが、柳瀬尚紀の訳を踏襲した「でちゅ、まちゅ」体の「ブルーノ」になるんだったら、『たのしい川べ』のヒキガエルくんみたいな世間知らずになった方がマシさ。「シルヴィー」が少女ではなく、「女」なら話は違うが、ド、ド、ドジスンおじさんはそんな成長を赦しはしないだろう。
「サロメ」?、「ベアトリーチェ」?、「ロリータ」?・・・・・・どうだろう。結局、バルデュスの『地獄』の中には、おれが青い頃に抱いてきた欲望、そしてたまに、今でも鬱になった頃に思い描く、女に対する欲望が描かれていると思う。それは、「我が友ウィルソン」に教わった欲望。気になるヤツは『地獄』を読めば良い。少なくとも、欲望は抑圧するものではなく、肯定すべきものである→例えば、「今、こんな明け方に近い時間に、狂ったように、女に対する渇望にとり憑かれるように、そしていますぐ見て貰って、喝采を貰いたいと渇望するこの欲望を、果たして誰が見るだろうか? 女でなくても良い、この際男でも良い。バルデュスのあの作品の主人公のように『ぼくが見ていますよ』という一言があれば云々!」→というには、いささか感傷的すぎる。
「とある店先の、背が高く幅のせまい鏡の中に、歩いてゆく自分の姿が見える。少し顔が蒼ざめ、眼がぼんやりしている。ぼくが求めているのは、ひとりの女ではなく、女の全部だ。ぼくは身のまわりに、ひとりひとり女をさがしているのだ。」→アンリ・バルデュス『地獄』。
俺は排除主義を嫌う。全員平等に価値がない世界なのに、他の誰かを、会ったこともないくせに、イメージで排除しようとする連中を嫌う。その時点で、可能性のある世界を消し飛ばしているからだ。ロシアンルーレットは、シュレッティンガーの猫と同じく、観察者(観客)が目撃することによって存在する世界を生きるための遊びなんだ。
「可能性」をはなっから遠ざけようとする連中に、ぼくは価値を感じない。人間性も感じない。どんなに偽善的なことを述べ立てようとも、会ったことのない人間に対する罵詈雑言を並べ立てた瞬間、「そいつ」の人間性は価値を失う。でも、それで良いじゃない、人間だから。
他人を知ろうとせず、ただ、紋切り型のイメージや世論に流されているだけの排他主義者(彼/彼女らが、自分の可能性を潰していることに気づくのはいつの日か・・・でも、「人間って不思議だね」)にゃあ、ハナっから関心はないが、ふと、一昨日辺り、嫌煙ファシズムについて議論しながら、煙草飲みながら、酒飲みながら議論していた話を思い出した。
そして、再び『ピアノ・レッスン』と思わせておいて、思春期に話は移る。。中学生の頃、あらすじに惹かれ(よくあるじゃん、セックスが主題になってるけど、一般作として借りれる映画って・・・・・・ポール・バーホーベンですね、わかります)セックス・シーン目当てで借りた映画『クラッシュ』を借りた。
抜いたか、抜かなかったかは、全然おぼえてはないんだが、性に導かれるまま、J.G.バラードが原作で、監督がクローネンバーグだなんて知らずに借りてみた。でも、。不思議なことに、各シーン各シーンは、微妙に記憶に残っているんだよね。そこには女の肢体も、屍体もなかった。乳も尻も太股もなかった。あるのは、鉄でできたフレームのイメージと、事故の速度だけ。あとは何もかも忘れた。でも書かなければいけないと脅迫的な何かを感じたんだ!
劇場版の『クラッシュ』の監督がクローネンバーグだったということを知ったのは、22歳の頃。さらに、バラードによる『クラッシュ』の原作を読んだのは、24の頃。そして劇場版『クラッシュ』の女が、『ピアノレッスン』でサンボンネットを着用し、ピアノを通じて感情を語り、野性的な、ゾラの描いたような「獣人」との愛欲に落ちていったあの不貞女を演じたホリー・ハンターだったということを、ついこないだ知った。
でも、「あの女」の濡れ場なんぞは、とうの昔に忘れた。事故の場面と、バラードによる文しか、今は思い出せない。でも書かなければいけないという脅迫的な何かを感じたんだ! あの白鍵と黒鍵をはいずり回る、録音された指の動きに! まだ若々しい、栗の花の臭いのする白濁の液体を、衝突事故でセックスにふける野獣じみた女に向けたかもしれない。それがあのホリー・ハンターとも知らず・・・・・・昔っから、人の顔を覚えるのは得意じゃなかった。
「ブンガク」も「エイガ」も、何にも知らず、ただ、性に関する欲動に突き動かされていたありし日のガキだった。雄犬が人間の足に対してフェティッシュな感じを抱くよりも、もっと単純なもの。つまりは、自分と近い環境に棲息する雄と雌の交尾を覗き見できれば、それはそれで、なにか内側からこみ上げて、街に出ればでるほど、その感覚を押さえきれない一方で、酷い劣等感に悩む、あの「地獄」に喚起されるドロドロした感情を解消できたかもしれないというワケなんだ。
結局、いくら「エロ」だなんだと語る男たちは、どれだけ陰嚢だとか、精巣だとか、睾丸だとか、無論、このさい海綿体でもなんでも良いんだけど、それらについて、女と猥談をしながら語り合える知識があるのだろうか? 膣だろうが、なんだろうが、そんなのただの「粘膜」ですよとか、たかが「器官」じゃないですかといえるほどに成長しないのだろうか? だったら、キャロル的な子供でいれば良いじゃん、とか思うけどね。
そして話は、思春期にと苦優な、あの栗の花とか、イカなんかに近い匂い満ちあふれた、ネヴァーランドっぽい世界に戻っちゃうの→KiSS。
でも、なんていうか、まだまだ栗の花のカホリ漂ひし性的ピーター・パンな時代には、合法的に解消する方法はない。ポルノ・ヴィデオを借りようとすれば年齢確認をされちまう。エロゲ雑誌(『bin bin』とか『パソパラ』とか『Bug Bug』とか愛読してたぜ!)ではまだモノが足りない。かといって『エマニュエル夫人』じゃあ、ロック座すぎる・・・・・・でも、なんでそこで『クラッシュ』に--しかも監督がクローネンバーグ!--に行き着いたのだろうかと思うと、昔から、既になんらかの因果律があったのだと思う。
バラードの『クラッシュ』の書評を書くんで、献本を貰った際に訳者後書き・解説とかを読んでみた。そしたら、バラードの名も、『クラッシュ』という作品名も知らぬうちに、ただ、(たまたま借りたのがヨウモノだったわけよ)毛唐の雄と雌の交尾を合法的に観たいという借りた、ありし日のあの作品が、今献本された「この本」だった! という事実に直面した時「あれ……初めて見た時…なんていうか……その…下品なんですが…フフ・・・・・・勃起……しちゃいましてね・・・・・・。」ほどの感情を、想起したか否かは、もう知らない.。
それで、何を書きたかったかを、今思い出したのだけど、ピアノの音色は、人の感情を上下左右に、縦横無尽に叩きつける感じがするよね。逆に、自分が弦楽器の学徒のせいか、弦楽器の音色を聞いていると、妙に心が落ち着く気がする・・・・・・。マイル・ナイマンとジョージ・ウィンストンの曲を聴いていたら、こんな日記を書きたくなった。
ピアノの音色に、心を揺さぶられたか・・・・・・ちかぢか、映画『ピアノ・レッスン』を観直したいと思う。『ゴーストバスターズ』と同じく、俺の青春だったんだ、あの映画。もちろん、初めて借りた映画のサントラは『ゴーストバスターズ』で(小学校の時、校内放送で、レイパーカー・Jr.のアレを流したぜ!)、その次は『ピアノレッスン』だったな。
- 2009/06/06(土) 04:32:18|
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坂井妙子『おとぎの国のモード』、原稿仕上げのために3回目くらいの再読with斜め読みしたピーター・ブルック『なにもない空間』、昨日までに半分くらい読み進めていたコリン・ウィルソン『超読書体験』(下)が読み終わった。
帰り道でまだワラワラと鞄内に本があるワケなんだが、次は何を読む? とりあえず来週にはアナトール・フランスの『反逆の天使』とベアトリクス・ポターの「ピーターラビット」を借りてくる。
前者はウィルソン経由で知ったわけだが、サタンが優しすぎて泣ける。『デビルマン』もやはりサタン=飛鳥了のための漫画だよな。『バイオレンス・ジャック』で人犬になってるけどwww巻数が多すぎて、まだ凄ノ王が出てきた辺りまでしか読めてないYO! 文庫版で18巻近くまであるとか、鬼畜すぎるだろう、豪ちゃん! ハニーが出てくるのはいつの日か。
んで、常々コリン・ウィルソンには親近感を抱いてきたワケだが、『超読書体験』の前編に渡る、熱い何か(something hot)とも形容すべき性への渇望と執着と、書物に対する偏愛に触れてイヨイヨ、他人事とは思えなくなってきた。
ルソーの『新エミール』の熱心な男性読者たちは、我が友人ジャン・ジャックを夢想してきたが、俺も「我が友人コリン」を夢想せん勢いでヤバイ。我が友コリンの性的悶々具合に関する告白を読むと、コリンがなぜアンリ・バルデュスの『地獄』(詳しくは2週間前くらいに書いたに「アリス憑きin地獄の国」を読んでくれ)を、繰り返し語りたがるのかが解った気がした。
次は紀田純一郎(編)『ゴシック幻想』とスティーヴン・マーカス『もうひとつのヴィクトリア時代 性と享楽の英国裏面史』のどちらを読もうかしらね。
- 2009/06/05(金) 22:49:36|
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今日は一応ちゃんと起きれたワケで、なんだか幾何学について話すと、タロットや数秘術的な方向に傾きつつ、図形の表す世界を考える辺り、JUNKさんはユークリッド的なアポロニストではなく、ピタゴラス的なロマンおよびディオニュソシストだなと思う。
あと、わらわらとまた借りてきたが、グレアムの『たのしい川べ ヒキガエルの冒険』とA.A. ミルンの『クマのプーさん/プー横丁に立った家』辺りもかりてきて、イヨイヨ本格的に19世紀~20世紀イギリス児童文学世界(ザ・ワールド)に入門を云々。
しかし併せて借りてきたものに業の深さを云々感じると。とりあえず『アリス』は無論のこと、『たのしい川べ』と『プーさん』2作は原著を手元に置いておきたい気に駆られまくっている。
ヴィクトリア朝時代の児童文学は子供への共感という新しい感性を産み出した。また、楳図かずおも、そのラインにあると思うのだけど、俺がキャロル、グレアム、ミル、楳図センセ、さらにはデ・ジュペリ辺りに大きな関心を示すのは、子供への共感を忘れない、大人の体を持った子供たちに対する共感じゃあないかな、なんて思うようになった。
子供への共感ではなく、子供大人(コドナ/Meta Adultish Children)に対する共感だと思うな。もちろん、そこには、一部のコドナが抑圧によって抱いた歪んだ性志向を称賛する猟奇趣味があることをあえて否定しない。
天野哲夫がM的な感性から、さる女性作家(帰宅したら名前確認しとく)の「蟹」という短編の一場面、少女が蟹の手足をもぎ、あわれな犠牲に尿を浴びせかける場面を称賛したように、猟奇趣味的な感性が常に好奇心を産出ということは良くある話だ。
借用渉猟
A.A.ミルン『クマのプーさん/プー横丁にたった家』
ケネス・グレアム『たのしい川べ』
コリン・ウィルソン『超読書体験』(上)
小池滋『ゴシック小説を読む』
紀田順一郎(編)『ゴシック幻想』
- 2009/06/03(水) 22:48:12|
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原作者の養子であり、ピーター・パンのモデルになった少年ピーターは、少年時代からピーター・パンとからかわれた末に自殺した。プーさんの原作者は、プーさんの止まない名声と成功によって、家族は散り散りになるし、リアルなクリストファー・ロビンは一時期、自らの名前を使った父を憎んでたし、『プー横丁にたった家』では、現実を拒否して永久な子供時代を選んだ。
アリス・リデルは別に自殺もしなかったが、早々結婚するし、妹は早々に死ぬし、財産難でド、ド、ドジスンおじさんから献呈された『地底の国のアリス』をオークションにだした。別にアリスはリデル以外にもいるし、お転婆娘は女王になったんだから、ドードーはもう指ぬきをくれない、アリスには。
ケネス・グレアムの『たのしい川べ』を、もっと現代的に、リアリスティックに、そしてアルトーの『残酷の演劇』風にアレンジすれば、豪ちゃんの『バイオレンス・ジャック』になるしね。
まさにこの世は生き地獄(´;ω;)y-~~
なんだかんだ、快活を目指して人間不信や狂気に落ち込んでいったエドワード朝よりは、あんまりにも抑圧しすぎて、最初ッからキ印入っちゃってる人たちがワラワラいたヴィクトリア朝の方が好きだ。イギリス児童文学は。
いい加減6月に入ったし、いつもアリスしてる場合じゃないから、そろそろ猟奇と電脳と魔術が溢れるセックス&ヴァイオレンスな世界に帰ろうと思うの、私→ラブレーの『ガルガンチュア』物語、まだ読んでなかった。
むしろメアリィ・ポピンズを読もう、ポピンズ。原作からだいぶ脚色されてるが、ディズニー作品では一番好きなんだよ、メアリィ・ポピンズ。幼稚園くらいからビデヲでさんざん見まくってたから。
ああ、やっぱ19世紀のイギリス児童文学者になりたかったのかもしれない(´∀`)。さもなきゃ執事さんか伯爵かキャロルおじさん→そういや、海外文学作品で一番読んでるのってイギリスだなあ。ミルトン、モア、スウィフト、ウォルポール、メアリ・シェリー、ワイルド、アントニオ・バージェス、アラン・シリトーと。ひたイギリス。
ついでフランス>ドイツか。アメリカ産はビートとサイバーパンクしか読んでないんだよね。あまり本読まない人に海外の文学の話をしていて、英・仏・独は代表作ガンガン出てくるのに、アメリカの話になると、まず『風と共に』が思い付き、次に『アンドロ羊』と『裸のランチ』ときて、偏食具合が明らかになった(´・ω・`)。
- 2009/06/01(月) 16:57:31|
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