こないだ、色々と飲んだくれながら弁証法してたら、最近はアリスにまつわるドグラでマグラな挿話とか、少女文化表象論とか、ザ・澁澤・シング[邦題的に言い換えれば澁澤からの物体X]を書いているワケで、少なくとも電脳空間における他者の視線を通じた対他のペルソナは空想的ゴシックでお耽美な感じだと思うのね。我輩の。
さすればやはり、装いだの、私生活の身ぶりだの、ロールプレイ気味に、そちらの世界に近づけていかなければならんのか、とか思う下り。私生活を上手く幻想世界的なものに結びつけられる人に劣等感を感じているのかしらん。
THシリーズのゴシックの回で、樋口さんと高原さんと小谷さんが対談してて、高原さんが「いかにも」な装いな辺りに、やはりこうあるべきかと感じつつも、四谷シモンの講演会で観た生四谷さんの第一声が「いや~、すいません。今朝方まで飲んでたもんで。今日はあまり面白い話が云々」。話が始まれば「あの頃は新宿にある店の二階の部屋で、金子国義たちと睡眠薬やりながらしょっちゅうアッパラパーになって階段から落ちたりとかね」と仰る。
あー、やっぱ文化人たるものこうでなければイカンし、我輩もそういふ輩を羨望しながら、一門のアッパラパーでいたいよね。どこかしら、そういう私生活と作品世界が分離した多形的な性格を流儀に則ってスキゾとし、なおかつ70、80年代的な潮流とするならば、ファッションや作品世界を私生活における振る舞いや嗜好にも反映し、パラノイアックなこだわりを追求するのは90年代以降の潮流なのかなと思う。
パンダの足がプルプルしてるTシャツ着て、下町の酒場で親父に囲まれながら鶏皮串を並べてホッピー飲んでバタイユの神殺しの愉悦や、眼球譚における背徳性や、沼正三における下降願望や、会田誠の少女エログロ残酷絵巻について饗宴なんかしちゃうの。イイじゃない?
気分が浮わつくぼくは、やっぱ耽美系パラノよりは、耽美系スキゾだね。とりあえず雨がうざすぎる(´・ω・`)雨ニモマケヅ今日もイヒ・アルバイテ[g]
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2008/09/29(月) 17:48:49 |
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生存権に復帰する時期になったので生活のリズムを改善せな、という調子。リハビリ幾日かめ。朝の弱さは相変わらずだけど、脳髄は夏期冬眠前と同様スキゾフレニックに平常通り運行中。
なんだか存在論だとか、「あの時ああしておけば」的な、みみっちい話をしながら、本が壁一面に積まれた精神と時の部屋で、70~80年代話や、90年代社会事件大反省会に加えて、ビートニクなウダウダ話をしてた。タイマンで。
北アフリカのタンジールに向けられた「レッドツェッペリンⅢ」的なオリエンタリズムや、ソドムとゴモラを見るような眼差しですね、わかります。
たまたま、酒瓶が並ぶ机のうえにバロウズの『おかま[QUEER]』とかが積まれてたりする調子。うちにも『裸のランチ』やサンリオ版、諏訪訳の『ノヴァ急報』や『デイビッド・クローネンバーグと裸のランチ』なんかの蔵書がありますね。解ります。
そういった関係で『現代詩手帖特集版 ビート読本帳』を貸される。挫折したビート族やフラワーチルドレンの聖灰から、ブラックレザーを身に纏って這い出した邪悪[evil]が俺の専門領域なんだよなとか思いながら楽しく読みふける。帰り道。
2008/09/25(木) 22:57:31 |
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秋ですね、おまいら。大戸屋の秋刀魚がさり気に美味かった。あと、ここ最近は「カワイイ!」ものを沢山見ているので、「カワイイ!」を説明できるような論理を模索する。das Kawaiilichkeitをめぐる冒険て感じ。
冒険の一環として、H.U.G.(Harajuku Unlimited Genelation)の第三回に行ってきた。テーマは「カワイイ!」。デコ&ニッキがかなりツボる。あとリラックマは確かに「カワイイ!」が、やっぱりボクぁ「たれパンダ」が好きだな。
リラックマは癒し系だが毒がない、優等生なんだ。しかしたれパンダ癒し系なんだけど、トロロノウズイしちゃうような「やってしまった」感があるような気がする。
13日に梅田にオープンした「リラックマストア」の社長がプレス向けの話で言った「キャラ単体で数百人を集客できるのは今のところリラックマくらいです」という一説がかなり印象深い。
ディズニーやサンリオは、豊富なキャラクター資源、というか所属タレントを用いることで集客が可能となるが、リラックマはリラックマ、ただそれだけで店が成り立ち、リラックマ(+2匹)のみを求めて数百の客が詰めかけるというのがすごいと思った。
藤崎詩織が独り歩きしてヴァーチャルアイドル化しちゃう辺りと似ているよね(いや似てないか)。ただ、リラックマストアの店長の言葉に、リラックマが飽きられた時に対する杞憂があるようにも思えた。多分、これから数年の間が、リラックマがハローキティのような神話に成るか否かの瀬戸際だろうなと思う。
2008/09/23(火) 23:52:43 |
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こちらを更新するのは暫くぶり・・・・・・。私生活は多忙を極め、精神的にも困憊。今夏は、やがては御上に搾取される金に糸目をつけない稼ぐために日々労働に明け暮れつつ、日々日々、最近手がけている「沼正三論」の構想を練りながら、沼正三オヨビ天野哲夫、加えてマゾヒズムや精神分析、サイコ・パス、ついでに宝島的な「変態」に関する文献を渉猟し、むさぼり尽くす日々。
北原童夢から秋田昌美を経て、やがては天野哲夫に辿り着き、天野哲夫から「ヤプーの館」へ。「ヤプーの館」から康芳夫へ。康芳夫から「オリバー君」へという、サブカル大躍進の日々。そのうち、相方と「狂い咲きサンダーロード」の鑑賞会をやろうと思います。石井監督のDVD-BOXなら我が家にあるッ!(最近のやりとりで、「モーレツ! オトナ帝国の逆襲」、「変態村」、「カネル」&「カノン」、「アイデン&ティティ」、「デリカ・テッセン」、「エイリアン4」、「アメリ」、「バットマン・リターンズ」を辺りを、年内の間に鑑賞しつくすということと、「飯田橋ギンレイホール」のペア会員権を作るという協定を定める)。
日々サブカルチャーです。サブカルチャーをサブカルって省略するのは、ヘヴィメタルを「ヘビメタ」と略すことや、オナホールを「オナホ」と略すことと同じくらいの咎なんだからネっ! そして、携帯からも、こちらのblogを更新できるということを、暫くぶりに思い出した。
2008/09/23(火) 03:59:33 |
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アラン・B・チネン『大人の心に効く童話セラピー』 おとぎ話の中に教訓譚や道徳教育といった側面が含まれていることを否定する人はいないだろう。実際、グリム兄弟がつむいできたグリム童話の多くには、女子に対する教育的要素やドイツナショナリズムを鼓舞する(グリム童話がつむがれた19世紀初頭という時代における、ドイツの状況を想起されたし)が見受けられる。
童話が子どもにとって教育的である一方、ある種の童話は大人、とりわけ中年の生き方に対しても様々な知恵や教訓を与えてくれる可能性があるかもしれない。本書は、そういった観点から「中年童話」という言葉を用い、古今東西、様々な国のおとぎ話を紹介しながら、中年期に訪れる人生の危機(とりわけ男性の弱体化と女性から母親を経て、中年女になった女の強さ)に関する処方箋を提示する。
本書はユング派の精神分析医アラン・B・チネンの『大人のための心理童話(上・下)[Once upon a Mid Life]』(1995)を再編したものである。著者が精神分析医ということもあり、ある程度はフロイトおよびユング派の専門用語が登場するが、おとぎばなしの多くはエディプス(もしくはエレクトラ)コンプレックスに溢れているため、たまたまの好奇心で本書を読み、不幸にも「エディプス・コンプレックス」という言葉を知ってしまったら、あなたの身の回りにある様々な文化が、いかに親殺しの欲望を内包しているかという点に気づくのも良いかもしれない。
本書の内容は巷に溢れるハウトゥー本や、症例を紹介し、その筋の「専門家」がさも御神託のように解説を垂れ流すような体裁をとってはいるものの、イスラム圏や韓国のおとぎばなしという、私たち日本人が「おとぎばなし」と聞いて、すぐさま頭に思い浮かべる「お伽草紙」的な物語や、宮崎駿のアニメ作品に色濃く受け継がれた感もある、少年少女が困難に打ち勝ち成長する様を内包した「メルヒェン」とは異なった作品群に触れられることができるという点では、一読に値するかもしれない。
もちろん、全体を読む中で巷に溢れる「その手の本」にありがちな、「専門家」の視点を通じて語られる楽観主義というか、「しょせんは他人事」というような姿勢を感じないわけではない。
しかしながら、著者のコメントは巷に溢れる同様の本よりは物語の水先案内人的な役割が強く、おとぎ話に関するコメントをつけながら、その解釈は読み手の人生という文脈にそった形で解釈されるべきだという余地を残しているようにも思えた。その点においては、私は本書に対する好感を覚えている。しかし、本書の中に癒しがあるとは思わない。これはただ単純に、私が癒されるべき中年に達する妙齢に達していないか、あるいは、同書の中で取り上げられる中年(その多くは妻に虐げられ、少年のような冒険心を失ったしまった哀れな男たち)にならないだろうと、(傲慢な思いこみであったとしても)確信しているためかもしれない。
多くの人は、『大人の心に効く童話セラピー』という購買欲をそそる邦題と、ファンキーな表紙にひかれ、某氏の『小さいことにくよくよする!』や、また別某氏の『モテる技術』のように、本書に癒しの効果があることを期待して、本書を手に取るかもしれない。
しかし、前述したように、本書の中に癒しがある可能性は少ない。本書が提供するのは、男たちが虐げられ、中年女たちが男を手玉にとり、かつての男たちのようにめまぐるしい冒険に興じる挿話や寓話である。
そういった挿話を通じて、中年男は改めて、女に押しつけられてきた「セクシュアルなもの」を卒業することによって力を持った中年女たちの前では、例え自分自身の下腹部にファロスが生えていようとも、もはやそれが見せかけだけの泌尿器に過ぎず、いかに自らが無力であるかを思い知らされるかもしれない。一方、中年女はサード・・・いや、フォース、フィフスとでもいえるようなステージに立ち、男たちのような冒険を力強く行える機会や力が、自らの中にあることを学ぶかもしれない。
私自身は、ジェンダーの領域に両足を踏み入れているため、かつては男尊女卑であることが不文律とされてきた、男女間における力関係が「性(セックス)」を捨てること、つまり中年になることによって、その力関係が大きく変化するという点にばかり目がいってしまう。そのため、中年女性にとっては癒しになるような感想を抱いた。率直な感想をいえば、受動的な癒しを求める、疲れた中年男性よりは、苛立つ中年女性にこそ読んでもらいたい本だと感じている。
では、本書は中年男性に相応しくないのかというと、そうでもない。かつては隆起するペニスのように力強かった自らが、年齢的にも、社会的にも、そして性的にも衰えることによって無力な存在になってしまったということを、「中年童話」を通じて教訓的に学び、新しいステージに進みたいと思う気があるならば、本書を手にしてみるのも良いかもしれない。
そういえば、『デカメロン』を読んでいた際に、本書のキーワードになっている「中年童話」が頭をかすめることがあった。周知のように、『デカメロン』は当世の社会に対する痛烈な皮肉をこめた寓話を集めたものであるが、その登場人物の多くは「人妻」(どの女性も、総じて美貌と才気の持ち主である)なのだが、世渡りの逞しさや、機転の利かせ方は「中年童話」に登場する多くの女性たちに通ずるものがある。
この書評を目にした皆さんには是非とも、ボッカチョの『デカメロン』(個人的には、読みやすさや『大人の心に効く童話セラピー』に収録された挿話との比較のし易さを考えて、阿刀田高の『花のデカメロン』を推したい)と『大人の心に効く童話セラピー』を併せて読んでいただきたいと思う。
大人の心に効く童話セラピーAmazonで購入 書評 /
心理・カウンセリング
2008/09/23(火) 03:39:57 |
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