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続・JUNK屋日誌

blogへのテラ・フォーミング(2005/12/17)。遂に時代の流れには逆らえづ、本サイトの日記のみをblogへ移行。

ブログ能力の効用

  先月の末くらいに、下記のような内容をmixiの日記に書いていた。




 寝すぎた。床の中、肉蒲団でもないのにあまりにも快適すぎて寝すぎた。昔の殿方はよく、ヴァギナの中にはファロスを噛みちぎろうとする牙や歯があると思いこんだらしいけど、蒲団の中にも似たような歯だの牙だのがあったら怖いなと思った。躯のダルサに加えてやる気まったく上がらず。

 しかし、ホントblog。ぬこも杓子も、有名/芸能人もblog。テキストサイトブーム以降の個人サイト文化についてまとめている論考を、ライフワーク気味に書き連ねている手前、blogの影響力やチカラについて考えてはみるものの、なんだか、どうも影響力については眉唾めいたものがあるんだけど、なんだかうまく言葉にできない。とりあえず塾講バイトに向かう道中。本日の教練はイギリス語ですの。

 (´・ω・`)結局んトコロ、ハードやツールとしてのblogよりも、ソフトとしての文章の問題だろう? などと、blogを用いた書評投稿によって、献本という甘い汁を啜ってる俺がいっても、これといった説得力がないから困る。なんかしら、オモシロイことでもないものかね。

 本日のまとめ:来月は是非、チョコをくだされ(´・ω・`)





 そんな調子で、今日も午後2時頃まで寝ていた。一日が無駄死ぬ。そうさ俺たちはダニーボーイ。それでblogね。blog。実のトコ、日本のblogは娯楽やエンターテインメントの一種以上の地位を確立するのは難しいんじゃないかな? とか、相変わらず思い続けている。

 張り付けた日記にもあるように、ツールないしはハードとしてのblogに原因があるのではなく、ソフトとしての書き手の意識や能力の問題じゃないのかな。セレヴリティばかりがblogの価値になっている現状がひっくり変えれば、何かが起こらないとも言い切れない。

 ジョン・フィスクの『テレヴィジョン・カルチャー』などを訳している、伊藤守さんが早稲田大学で行われたジェンダー関連のシンポジウム(確か2006年)で、フロアからの質問で「ブログは社会に影響を持つか」という趣旨の質問をされた際、「多分、大きな影響を与えることはないかもしれない」とばっさり否定していたことがあったのだけど、あれはあれで痛快な一コマだった。その一方、社会批判としっかり結びついた、草の根ジャーナリズムとしてのアメリカのblogについては、常々羨ましいものがあったりする。

 だから、というわけではないのだけれども、blogに文章を書き連ねるよりも、文芸批評系の同人誌を主宰して、色々と原稿を準備している方が、やり甲斐があったりするんだよね。件の同人誌、Kluture Triebの方は創刊準備号(パイロット版)の編集・製本作業、絶賛遅延中です(´・ω・`)サーセン。
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  1. 2008/02/12(火) 22:01:52|
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『ラヴクラフト全集 別巻(下)』

 本書は『ラヴクラフト全集 別巻(上)』に引き続き、ハワード・フィリップス・ラヴクラフトが推敲や添削、そして代筆(1920年代、パルプ・マガジンが一世を風靡していたアメリカでは、代筆自体は珍し者ではなかった)を手がけてきた作品を年代順にまとめて収録したものである。また、上・下巻を通じた作品解題も本書に収録されている。ただし、ズィーリア・ブラウン・リード・ビショップの「墳丘の怪[The Mound]」は、「この小説は、一種のユートピア都市であるクン=ヤンを描き、ラヴクラフトの添削の中でも最大の力作」(382頁)と、作品解題の中で作品に対する賛辞が向けられているにも関わらず、2冊からなる別巻には収録されていない。

 「墳丘の怪」が収録されなかった理由は「あまりにも長すぎるために(引:パルプ・マガジン「ゴースト・ストーリィズ」に)採用されることが無く、ダーレスが添削をおこなったものが<ウィアード・テイルズ>の1940年11月号に掲載された」(382頁)という記述から推測するに、頁の都合という理由が濃厚であるかもしれない。なお、「墳丘の怪」は『クトゥルー 12 暗黒神話体系シリーズ』(精心社文庫,2002年)などで読むことができる。

 本作、『ラヴクラフト全集 別巻(下)』の収録作品は、ヘンリィ・セイント・クレア・ホワイトヘッドの「罠[The Trap]」、ヘイズル・ヒールドの「石の男[The Man of Stone]」、「羽のある死神[Winged Death]」、「博物館の恐怖[The Horror in the Museum]」、「永劫より[Out of the Aeons]」、「墓地の恐怖[The Horror in Burying-Ground]」。ドウェイン・ウェルドン・ライムルの「山の木[The Tree on the Hill]」、「墓を暴く[The Disinterment]」。ウイリアム・ラムリィの「アロンゾウ・タイパーの日記[The Diary of Alonzo Typer]」。ケニス・スターリングの「エリュクスの壁の中で[In the Walls of Eryx]」、「すべての海が[Till A’ the Seas]」、「夜の海[The Night Ocean]」となっている。

 収録作品を見ればわかるように、ヒールドの作品が下巻に収録された作品の大部分を占めている。これは、私自身の好みも少なからずあるのだが、ホワイトヘッドの作品、特に「博物館の恐怖」はラヴクラフト自身が実に執筆を楽しんでいるようにも思えた。この特徴は、苦悩の作家として、自己の内面に蠢く恐怖を描き出そうとしてきたラヴクラフトとは異なった、純粋な恐怖作家としてのH.P.ラヴクラフトという感想を私に抱かせるものでもあった。
 
 本書評では、収録作品について逐一の解説や感想を述べることはしない。上巻も同様だが、下巻に収められた作品は全て短~中編のオムニバス作品であり、気軽に、短い時間で物語の顛末と恐怖を楽しむことができる。だからこそ、丁寧な解説や作品紹介を、<こんなところ>で逐一行うよりは、上・下を含めた『ラヴクラフト全集 別巻』の書評に興味を持った名状しがたい読者が実際に本書を手にとって、恐怖の断片に触れて貰いたい。
 
 上巻について、私はラヴクラフトを知らない読者に開かれた入門書的な機能を持っているという感想を書いてきた。上巻とは対照的に、下巻はラヴクラフトや「クトゥルー神話体系」について知識がある人間であればあるほど、ニヤリとさせられる要素が数多く(これはラヴクラフト自身の確信的な「筆遊び」に他ならない)埋め込まれている。「博物館の恐怖」は、ラヴクラフト原理主義者にとっては賛否両論があるところもあると思うのだが、私としては映画「ナイト・ミュージアム」の場面を思い浮かべながら、ゴルゴン、キマイラ、ドラゴンといった幻想的な生き物、サド侯爵やジルドレを筆頭とした奇人・狂人、そして「定まった形のない黒ぐろとしたツァトゥグアも多数の触手を具えたクルウルウ、長鼻のチャウグナル・ファウグンをはじめ、『ネクロノミコン』や『エイボンの書』やフォン・ユンツトの『無記名祭祀り書』といった禁断の書物に述べられる冒瀆の生物も展示されていた」博物館で夜を明かす主人公が体験した恐怖にゾクゾクしながらも、ツァトゥグアやクルウルウ(クトゥルー)が展示された忌々しい展示室の姿を思い描くと、奇妙な興奮を覚えてしまう。そういった点からも、ラヴクラフトの描き出してきた恐怖の世界を暗躍する宇宙的恐怖や怪異の知識があると、下巻に収録された作品の数多くを、ぐっと楽しむことができる。

 収録作品はラヴクラフトらしい短編の不条理的恐怖小説から、金星を舞台にしたSF調のものなど、上巻と同様にヴァラエティに富んだ構成になっている。多くの作品に共通する要素としては、人間の世界に外世界(宇宙や古代、そして闇の世界)の者共が侵入したり、超常的な技術/技法/科学が偶然的に現実世界に現れるというものがある。現実世界と異なる者やモノが現実世界に投げ込まれるという構図、これは「ファンタジー」の基本的なプロットでもある。

 私が下巻の収録作品の中で気に入っているものは、既に称賛を投げつけてきた「博物館の恐怖」、そして同じくヒールドの「羽のある死神」と「永劫より」と、ヒールドの作品が続く。だが、私がヒールドの作品に引きつけられる理由には、ひとつの理由があると思われる。ラヴクラフト自身は、「博物館の恐怖」についてリチャード・イーリイ・モースとの書簡の中で「『投げ捨てたくなるほどお粗末な梗概に基づき、わたしが代作したものなので、実質的にわたしの小説なのです』」と述べるばかりか、ロバート・ヘイウォード・バローウに宛てた1935年4月20日の書簡の中では「永劫より」はヒールドより「(遺跡より発見された)古代のミイラの脳が生きているというアイデアが寄せられただけ」と述べているように、「永劫より」も実質的にはラヴクラフトの作品であるといえるためだ。

 しかし、それらはラヴクラフトの筆による作品ではありながら、「ラヴクラフトの作品」ではない。これは他人の名義で発表された作品であるということではなく、ラヴクラフトが「ラヴクラフト自身」と向き合うことで書かれた作品ではないということだ。ラヴクラフトが自身と向き合い、恐怖と苦悩の坩堝に投げ込まれる中で創造し続けてきた絶対的な恐怖や不安とは異なった恐怖、「ホラー」というよりは「テラー」に近い恐怖――私が好んで使う表現でいえば「ウォルト・ディズニー的な恐怖」を、ヒールドの作品の中で感じることが多かった。

 詳しくは下巻に収録された作品解題を参照して頂きたいところではあるが、ここで少しの説明を加えたい。『~全集 別巻(上)』の書評でも述べてきたように、ラヴクラフトが活躍した1920年代のアメリカ、マニアックなジャンルをねらい打ちするようなパルプ・マガジンのスキマ産業が隆盛を極めていた1920年代のアメリカでは、金を支払っての代筆業は珍しい現象というわけではなかった。

 ラヴクラフトの文章添削・代筆業は「1933年8月31日付けの書簡には、読むだけ、批評するだけ、添削するの3項目に渡って、語数ごとの細かな料金が付されており、最高の料金は完全添削――ラヴクラフト本人の言葉を使えば「代作」――の場合で、タイプ用紙1枚辺り2ドル50セントになっている。当時ラヴクラフトが<ウィアード・テイルズ>から得ていた稿料と比較すれば、およそ7分の1にすぎないが、稿料というのは採用されてからはじめて得られるのに対し、添削は仕上げさえすれば確実な収入になるので、この料金は一概に安すぎるとはいいきれないだろう。ちなみに、当時のパルプ・マガジンの低下は10ないしは25セントだった」(大谷啓裕による作品解題,(下)363-364頁)ということになっている。

 とはいえ、ラヴクラフト自身は生粋の作家らしく、「投げ捨てたくなるほどお粗末な梗概」という程の苦言を呈していた「博物館の恐怖」を見事な恐怖作品(識者にとっては創造者による恐怖世界のセルフパロディとも映りえる)として完成されているばかりか、上巻の冒頭を飾る「這い寄る混沌」や、「幽霊を食らうもの」といった作品と下巻に収録された作品を比較してみると、恐怖作家としてのラヴクラフト(狂気に取り付かれた個人としてのラヴクラフトではない)が添削・代筆業を通じて自身の文章表現を鋳造させるばかりか、文章を、物語を創ることを本当に楽しんでいるのだということを感じることができる。これは、私自身のラヴクラフトに対する思い入れもあるかもしれないが、上下巻を手にした方は、是非とも上・下巻のそれぞれに収録された作品の文体に見られる堅さや、自身のセルフパロディをも含んだラヴクラフトの筆遊びを比較して頂きたい。

 また、ラヴクラフト自身はパンのタネとしてのみ、添削・代筆業を捉えていたわけではなかった。例えば、ラムリイの「アロンゾウ・ダイパーの日記」についての「ラヴクラフトはラムリイの創作意欲が掻き立てられることを期待して、この添削の報酬は受け取らなかった」(392頁)という記述にも見られるように、後継者の育成という機能を添削・代筆業に見いだしていた可能性が高い。

 『~全集(上)』のラヴクラフトの経歴で述べたように、ラヴクラフト自身は存命中に成功することがなかった作家であり、その名声は死後、弟子たちによって高められてきた。存命中に大成を味わうことのできなかった不遇の作家は、自らの狂気を世に放つ作業の傍ら、自らの弟子たちが、ラヴクラフト自身が果たせなかった商業的成功を勝ち取ること(実際にそれは果たされたのだが、ラヴクラフトの人間の傲慢を排除した絶対的恐怖の牙城を揺るがすことにもなってしまった)に期待をかけていたのかもしれない。

 7冊に渡る『ラヴクラフト全集』に収録された作品の多くは、「作家」としてではなく、狂気の世界に対峙し続ける個人としての「ラヴクラフト」の筆によるものである。一方、2冊の別巻に収録された作品は、これまで述べてきたように「作家」としてのラヴクラフトの筆による作品である。2冊の別巻を通して、読者は「作家 ラヴクラフト」の多彩な筆遣い、そして恐怖小説に対する愛着のようなものを感じることだろう。この2冊の別巻は、ただ単純に恐怖小説のオムニバスとして読むだけではなく、「純然たる作家としてのラヴクラフトという、ハワード・フィリップス・ラヴクラフトの横顔」や、ある創作者の執筆活動に対する愛情のようなもの想起しながら読んでいくべきかもしれない。




ラヴクラフト全集
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書評/ミステリ・サスペンス

  1. 2008/02/04(月) 22:07:43|
  2. 書評〔本が好き!による献本〕
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『ラヴクラフト全集 別巻(上)』

 ハワード・フィリップス・ラヴクラフト(H.P.L.)。「オタク」や、「サブカルチャー」が好きだと自称するならば、この狂気の作家を避けて通ることはできないだろう。世界初のCDROMゲームとしての地位も、そろそろ忘れられつつあるゲーム「天外魔境-FAR EAST OF EDEN-」の原作者として(一部では)知られている「P.H.チャダ」の名前はH.P.L.からきていることで有名であるばかりか、ゲーム――「ネクロノミコン」「黒の断章」「デモンベイン」「クトゥルーの呼び声」――を中心に多くの作品の中でラヴクラフトが創造し、後にオーガスト・ダーレスが拡大していった、「クトゥルー神話体系」と総称される世界に登場する様々なモチーフが流用されている。例えば「ネクロノミコン」「ナコト写本」「エイボンの書」「サドカイ教徒の勝利」といった架空の書物や、「クトゥルー」「ダゴン」「ヨグソトト」「アザートス」といった、名状し難い戦慄を読者に与える害宇宙的恐怖や怪異など。また、クトゥルー神話だけでなく、日本のゲームや漫画、そしてアニメなどには「ナチス」や「キリスト教」のモチーフが好んで流用されていることは、今更いうまでもないことだろうと思う。

 本書、『ラヴクラフト全集上・下』に収録されている作品は、ラヴクラフト自身の名義で発表された作品ではない。ラヴクラフトが副業として行っていた推敲・添削、そして時にはゴーストライターともいえるほどの代筆を手がけた作品が収録されている。上・下に渡って収録されている作品はラヴクラフトが手を加えた作品を年代順に並べている(年代などは、近年、ラヴクラフトの書簡などから推測されたものを根拠にしている)。つまり、上巻の冒頭を飾る、イリザベス・バークリィー名義の「這い寄る混沌[Crawling Chaos]」から、下巻の最後を飾るロバート・ヘイウォード・バーロウの「夜の海[The Night Ocean]」までが、ラヴクラフトが手を加えてきた他者名義の作品である。

 御代ラヴクラフトについての前提知識がない方のために、ここでラヴクラフトについて軽くふれておこう。ラヴクラフトは1890年、アメリカのロード・アイランド州プロヴィデンスに生まれた作家である。幼い頃から病気を患い、その精神も偏執的な傾向を帯びていた。度重なる悪夢、極端な人間嫌い、心の内に潜む父親の影、人種主義、女性蔑視、そして魚介類や異教に対する慄然たる恐怖心といった、彼の心のうちに潜む闇の部分が、様々な怪異、宇宙的恐怖、そして超常的なモノに対峙した人間の絶望感や無力感の表現に繋がっている。
 
 ラヴクラフトが作家として本格的にデビューし始めた1920年代のアメリカでは、いわゆる「パルプ・マガジン」(ジャンルが細分化された大衆向けの娯楽小説雑誌)が一大産業を誇っていた時代であり、実力のあるなしを問わず、多くの素人作家が必用とされる、もしくはデビューを夢見ていた時代であった(この辺りは下巻の解説に詳しいので、そちらを参照のこと)。1920年代のアメリカといえば、ジャズ・エイジという言葉に象徴されるように、豊かな社会におけるギャッツビー的な放蕩が尊まれた時代でもあった。そういった華やかな時代の影で、けっして多いとはいえない闇や恐怖を欲する好き者たちに向けられたパルプ・マガジン「ウィアード・テイルズ」が、ラヴクラフトの主要な活躍の舞台となった。しかし、存命中は大した名声をあげることができないばかりか、まともな単行本を出版する機会にすら恵まれることがなかった。ラヴクラフトの魅力を大衆に植え付けたのは、ラヴクラフト弟子であり、善悪の概念を持ち込むことによって「クトゥルー神話体系」を大きく発展させたオーガスト・ダーレスであった。
 
 ラヴクラフトの小説がもつ特徴といえば、「冒涜的」であり「慄然たる」形容詞の過剰な乱用や、人間の無力さを見せつけられる救いのない、もしくは不条理な結末である。しかし、非日常的な恐怖に対して救いや合理的な結末を求めようとする心持ち自体が、人間の傲りであるようにも思える。多くのホラー作品、そして(ホラー)SF作品は、怪異や機械/技術に人間の理性が翻弄される様を描き出すが、その多くは結末において人間の理性が困難を打ち砕き、オーディエンスの心をカタルシスに導く体裁をとっている。つまりは、物語の結末を人間中心主義に落とし込むことによって、一抹のカタルシスや商業的な成功を得ているということだ。しかし、ラヴクラフトの作品には、人間中心的な救いというカタルシスや慈悲は存在しない。メアリ・シェリーの『フランケンシュタイン』と、トビー・フーバーの映画「悪魔のいけにえ」をミキサーにかけてぶちまけた純粋的な恐怖と絶望感、それがラヴクラフトの描き出す恐怖の世界である。
 
 上巻に収録された作品の多くは、ラヴクラフトが他者の原稿を手伝い始めた初期にあたることもあり、収録作品の多くにはラヴクラフトらしい形容詞の乱立や、不条理な結末が見られる。特に、上巻の冒頭を飾る「這い寄る混沌」は、「クトゥルー神話体系」きってのトリック・スター、「ニャルラトホテプ/ナイアーラトテップ」(怪異や邪神たちの名は、人間の声帯器官ではその冒涜的な名前を正確に発音することができず、複数の名前――例えば“Cthulhu”について、「クトゥルフ」と「クトゥルー」と「クルルフ」など――が混在している)が登場する、1920年に発表されたラヴクラフトの秀作「ナイアルラトホテップ[Nyarlathotep]」(『ラヴクラフト全集5』に収録)が書き上げられた直後に発表された作品である。上巻の冒頭を飾る作品であるということは、ラヴクラフトの手が加えられた最初の作品である。その故に、ラヴクラフトを読んだことのない読者は面を食らってしまうかのような、ラヴクラフト節が縦横無尽に展開される。しかし、作品を追っていくごとに極端なラヴクラフト節は形を潜め、段々と読みやすくなっていくので、「這い寄る混沌」の大仰さに我慢できないという読者は、全体を流し読みして見た感触で読みやすいと思った収録作品から読んでいくか、先に下巻を読んでいく方がいいかもしれない。

 上・下巻に収録された作品のほとんどは、他者がある程度の筋書きを作っている原稿ということもあり、ラヴクラフトの「死体蘇生者 ハーバード・ウエスト[Herbert West-Reanimater]」(1922)のように、絶対的な悪人が最終的に制裁を受けるという構図を持つ作品が少なからず収録されている。繰り返しになるが、そういった要素を持つ作品は商業的な筋書きを持った作品でもあるということだ(商業的悪いというわけではない)。これも繰り返しになるのだが、ラヴクラフト作品の魅力は、そういった勧善懲悪、因果応報を俄然と突き放し、ただ恐怖に怯えるしかない人間の無力や絶望を執拗に描き出すところに魅力がある。とはいえ、本書に収録されている原稿は発表された時点では他者の名義であり、ラヴクラフトがいつもの調子で筆を進めるわけにはいかなかった。ただし、ラヴクラフトが自らの内側に蠢く恐怖や不安、苦悩、悪夢、混沌と向き合う必用を強いられなかったためか、自らと対峙することで産み落とされるラヴクラフト名義の作品とは異なった筆遣いや、後継者を育てる楽しみのようなものを作品の端々(特に下巻の収録作)に感じ取ることができる。
 
 既に述べてきたように、ラヴクラフトは存命中に成功や名声を得ることが叶わず、作品の多くは、出版社「アーカム・ハウス」を設立したダーレスらによって世に放たれてきた。「クトゥルー神話体系」を形作る作品の多くは、「アーカム・ハウス」の苦しい経済事情もあり、人間に味方する「旧神」と、人間に仇をなす「邪神/旧支配者」という、人間を中心に据えた善悪の二項対立を設定してしまい、その人間主義的なご都合主義に対して、ラヴクラフト原理主義者ともいうべきコアな読者からは、少なくない批難が向けられている。

 上・下巻に収録された作品の中では、「旧神/邪神」の対立が明確に描かれるものはないが、人間同士の対立においては、善と悪が明確にされたものが少なくない。しかしながら、収録作品の中、例えば上巻でいえば「這い寄る混沌」や、ズィーリア・ブラウン・リード・ビショップの「メドゥサの髪[Medusa’s Coil]」のように、ラヴクラフト節が相変わらずの調子で展開されており、ラヴクラフトを愛好する読者の1人としては安心するものもある。ただ、作品として退屈なもの(ラヴクラフトが手を入れたということもあり、除外するわけにはいかなかったのだろう)が含まれているのも事実であるが、その点はラヴクラフトに慣れていない読者でも、ゆっくりとラヴクラフトの世界に触れていくことを可能にするかもしれない。

 また、いくつかの作品にはラヴクラフトが創造した世界にモチーフを組み込むような<遊び>が展開されており、ラヴクラフト自身が原稿を修正する過程で、遊び心を発露させているばかりか、「クトゥルー神話」に精通した読者が思わず「ニヤリ」としてしまう部分が多い。
 
 本巻に収録された作品の特徴といえば、「化学」が登場することであろう。それも具体的な薬品や物質の名前を列挙しながら。これは下巻に収録されている作品の一部についても、同様のことが言える。ラヴクラフトの作品では化学、ないしは科学技術が登場することは少なく、登場したとしてもシェリーが『フランケンシュタイン』(1818)の中で提示した、具体例をもたないが超常的な力を発露させる科学技術に留まるものであった――それこそ、「死体蘇生者 ハーバード・ウエスト」で用いられた、正体不明の蘇生液のように。そのため、ラヴクラフト作品における化学/科学と、ラヴクラフトが関わった作品における化学/科学の語られ方を比較してみるのも一興かもしれない。
 
 本書に収録されている作品は、(一部を除けば)恐怖小説としてのスタンダードな体裁を有しており、ラヴクラフト名義の作品にみられる、例の大仰で、しつこい程に<くどい>形容詞の羅列(実際はそこが魅力なのだが)も、比較的静かに潜んでいる。そういった意味では、ラヴクラフトを読んだことのない人にとっては、手を付けやすい作品だといえる。作品の多くは、ラヴクラフト的な絶望感から、勧善懲悪のカタルシスを感じさせる娯楽作品らしいもの。そして、唐突に始まり唐突に終わる不条理の恐怖と、バラエティに富んだ構成となっている。 
 
 ラヴクラフトの恐怖の源泉について此処では長々と語ることはしないので、またいずれ機会があれば述べていきたいと思う。なお、上・下巻の収録作品についての作品解題や1920年代の出版事情については下巻に収録されているので、できることならば上・下巻を同時に購入することをお勧めしたい。なにぶん、様々な作家の作品が収録されているので、ひとつの作品を読み終えるごとに作品解題に目を通して、ラヴクラフトが作品に費やした労力や、作品に与えた影響、そして個人の作品とは異なった側面をみせるラヴクラフトの文体についてもじっくりと吟味していただきたいと思う。
 


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  1. 2008/02/02(土) 03:46:45|
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JUNK

Author:JUNK
 いわゆるトコ、侍魂以降のテキスト系サイトとして惰性してから早4年(2005年当時)。日記部のみblogに移行しました。それまでの素性とか、堆積物は「サイト」の方を参照で。現在の方は「mixi」とか。

 飲んだ暮れ。夢想家。澁澤シンパとみせかけて種村派。専攻は一応、文化社会学とか言いたいんだけど、実際の専門的らしい専門はない(と思う)。

『家畜人ヤプー』、沼正三、女性のサディズムと父権制におけるマゾヒズム、少女のエロティシズム、アリスイメージの消費、ロリヰタファッション、ヘヴィメタル、サタニズム、オカルト、タロット、少女小説、テクスト論、表層的SM批判、ジェンダー論、クィアスタディーズ、なんかよくわかんないけど色々。

 文化批評系よろず同人誌「Kultur Trieb」主宰。執筆者、購読者募集中。HPとかはまだ作ってないので、詳しくはmixi内のコミュを参照。

「Kluture Trieb」(mixiコミュ)


◇twitter
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