(12月23日)
毎年恒例のクリパ逝ってきましたよ。atキュアメイドカフェの。で、まあ恒例なプレゼント交換会で貰ったもの――一升瓶(宝舟)。加えて店が用意したプレゼント抽選で頂いたメイドカフェコレクションのフィギュ(キュア)をイタダキマシタ。
で、二次会@和民。久しぶりに駄目人間大集合な感じで、「つまみに何がイイ?/少女子(こうなご)で!/本場アメリカンなのを!/お前らなんかなあ、妹ブルマだ!」とかいう感じの話が飛び交いまくるカオスな飲み会です。
しかも二次会参加者全員が、先のフィギュアを貰っている罠。机に並べまくったり、箱から出す人がいたりとか、カオス極まりないです――ああ、久しぶりに自分の中に「あっち側の血」が刻まれていることを感じた。
俺が用意したプレゼント(Jackass劇場版と小シャンパン)が、マイミクでありキュアのパーティで数年前に知りあった斑猫さんに渡っという罠。
(12月24日)
世紀を股にかける、人類史上最も偉大な山師でありながら、時世の権力者たちによって都合の良い解釈をなされ続けてきた救世主様の足元にキスをしな。クソ島国で日和ながら、腐れ商業主義の百姓どもに養畜された白痴の豚どもが!
Why God! DとGを入れ換えたら神様なんかお犬様じゃないですか。つまり、西洋史的な人間なんぞは所詮万物の長には成れず、契約したはずのカミサマは実は犬だったわけですよ。クリスマスを冒涜する悪い子(ご)はい゛ね゛がぁー。
たかだか17、8年程前に、腐れマス・メディアが火をつけた割には、自浄作用かマンネリの打破か。現代日本社会で、尚も強い影響を有し続けるプロパガンダ――トレンディドラマで狂奏曲を梵に帰すような<フリ>をすれど、プロパガンダは相変わらず続くのでありまして、たかだか17、8 年前に盛られた<毒>が、仕方のない常識であると考えることが既に養畜されている――クリスマスを冒涜する悪い子(ご)はい゛ね゛がぁー。商業の手垢まみれの腐った常識を疑おうとしない(頭の)悪い子(ご)はい゛ね゛がぁー。
(12月25日)
救世軍の社会鍋や、キリスト教の皮を被った終末論者がたち町に溢れるようになると年末な感じがするな。今日は私用続きで上野~渋谷~横浜と回るわけだが、今渋谷。バイト先に来月のシフト出して、息抜きにゲーセン向かい中。
さすが渋谷だ、上野以上に終末論者が町に溢れ、街宣車ヨロシクに「聖書」や「救い」とかいう文字をデカデカと張り付けた車まで出動してやがる。多分ヨコハマにも連中は溢れてるだろうな。ヤツラはサド公爵殿の否定精神の前に論破されるべきだ。
とりあえず年末年始はどうしましょう的なアレ(´・ω・)y-~ みんなはどう?
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2006/12/26(火) 02:34:40 |
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毛の生える皮を纏ったヴィーナス
あれは高校一年の頃。確か、新しい環境におかれた生徒たちが円滑な人間関係を築けるようにと配慮された遠足に行く際のバス内での出来事だったと思う。当時、私はまだ15歳のペーペーであった。だからこそ、今のように社会に対して疑問や批判を投げかけることもなかったし、世間でいうところの「ジェンダー」――社会的に定義された性役割――を口実として、世間の様々な出来事や、常識とされていたものに懐疑を抱くこともなかった。
つまるところ、社会が<現実の生々しさ>を隠蔽し続けることによって作り出されてきたもの。我々男性が見出してきた女の表象を純粋にも信じていたのだ。今現在の、私の思想体系や人となりを知る人ほど、この話を読んでしまうと、こみ上げる失笑を押し殺すことが苦痛になるだろうが、私にもこんな<純>な時代があったという点に思いを馳せながら、連々と続く一文を読んで頂きたい。
当時の出来事に話を戻すのだが、遠足の目的地にはバスで向かっていた。高校という新しい環境の、新しいクラスにおける初めての行事である。当時、まだ純であった私もまた、新しい環境の新しい仲間たちとの交流を円滑に進めるために、今では信じられないことだが当世のポピュラーミュージックのヒットチャートを丹念にチェックし、ヒットチャートの上位を占める楽曲をテープに録音したものを用意していたのだ(!)。これは、現代の若者たちにとって、ポピュラー音楽を通したコミュニケイションが如何に重要なウェイト占め、また一方で同輩間のコミュニケイションをとるための容易な手段であったかを示す一例であるのだが、そういった点については、またいずれの機会に論じていきたい。
まず認識して頂きたいのは、当時の私がこれまたえらく商業的なコミュニケイション手段に参与している位に純だったという点なのだ。そして私は見てしまった。ある女子の肢体を。半袖のポロシャツから見えたワキの状況を……私は見てしまったのだ。毛皮を着たヴィーナスという高尚なシロモノではない。腋毛の生えたヴィーナスを見てしまったのだ! そして、何かこう…(男性社会)におけるタヴー禁忌を垣間見てしまったことによる劣情感を強く喚起された。禁忌に関する部分は、これから述べていく点でもある。また、別稿――「老化変身、または老人と性」――にて、老人女性が性欲を表明することはグロテスクであり、忌避される行いである。そういった表明は、絶対的な社会や集団の側から絶対的な否定を突きつけられる。つまるところ、性から切り離された聖母としての老マリアは、絶対的な承認を持って社会や集団の中に迎え入れられるのだが、老いてもなお淫蕩に浸ろうとするマグダラの老マリアという人物像は誰にも期待されていないし、絶対的な否定の下に、化外の者(例えば山姥)として扱われる。といった趣旨の文を書いた。
強調しておきたい点は、これから述べる禁忌性や、別稿で指摘したマグダラの老マリアの不必要性は前述したように、男性社会によって、ないしは男性の理想に即した形で性対象(Sexual object)と化した女性の身体の規範に基づくものであるという点である。前述のことを捕捉する形になるが、ここで一つ、女性の皆様に対する弁明を行うことをお許し頂こう。
<我々>、ヘテロセクシュアルな男性たちの世界では陰毛以外の毛が生やした女性の身体というイメージが常々支配性を有している。陰毛以外の毛を生やした女性は様々な文化テクストの中、例えばグラビア写真やテレビ番組、ピンナップにアイドルのイメージビデオ、ポルノグラフィといったものの中で群雄闊歩することは許されないのだ。もし、それが許されるとするならば、それは見世物ないしはフェティシズムの領域に留まるものであろう。
一例を挙げるならば、脛毛や腕の毛・・・そしてギャランドゥ臍毛。そのような、女性たちにとってはムダ毛として認識される体毛が顕在的に生えている女体。つまりは自然的な女性の身体を目の当たりにしてしまうことは、陰毛以外の体毛が<事実上>見えないものとされている性的対象としての女性の身体に慣れ親しみ、もしくは、そういった女体の表象ばかりを享受してきた男たちにとっては、ムダ毛を生やした<自然的>で<生々しい>女体というものは実にトラウマティックに映ることだろう。
聖・マゾッホ氏は、代表作である『毛皮を着たヴィーナス』の中で、豪著なる動物の毛皮を身にまとうミストレスを描いてきた。よくいわれることだが、動物の皮――毛皮だけでなく、レザー製品は酷くサディスティックな要素を持っている。レザーの魅力というか、我々の眼に映り、我々が感じる特徴的なイメージ常々サディスティックなものである。
「素肌にレザーをフィットさせた時の快楽は、おそらく想像以上だろう。その質感は煽状的であり、内部に眠っていた欲望を強烈に呼びさます。それはおそらく、レザーが動物の屍体の一部であるからだろう。コットン、シルクといった素材は植物繊維であり、有機的な生死とは無関係だ。しかもそこには”殺した”というサディズムの影がつきまとう。ほぼ同じ生態系をもつ獣を殺したという行為、獣の視が一枚のレザーには刻印されている」――北原童夢『フェティシズムの修辞学』,35:頁。
話を毛、いわゆる<ムダ毛>の方に戻したい。男性によって性的対象とされた女性の身体が有する体毛を制限すること。つまり、陰毛以外の毛を男たちの目に映さないようにするという慣習は、先にも述べてきたように男社会によって形成されたものであり、理想的というよりは、男性社会に則した形で形成された、常識的な女性の身体イメージよって形成されたものである。女性の体毛に限った話ではないのだが、我々が常識的なものだと思っている多くの事柄、例えば恋愛・男女関係の理想像や、男らしさ/女らしさのイメージ、諸外国の特徴に関わるイメージ、世論の状況、その他多くの事柄は、多かれ少なかれ我々を取り巻くメディアのコンテンツに影響されていることが多い。
ポピュラー音楽、特に甘いラブ・ロマンスを主題にしたポップソングが、トレンディドラマと同様に当世の若者たちが思考して実践するような恋愛観に対して、多大な影響やマニュアルを与えているという点はよく言われるものである。身近なところに存在するポップソングの歌詞やプロモーションビデオがマニュアルの役割を果たすケースは多いと思われる。特に、カラオケではプロモーションビデオと歌詞を同時に見ることができる場合があるため、前述した影響の効果を熟考することは、決して無駄ではないだろう。話が毛から離れ始めているので、再度、ムダ毛の話に軌道修正を行いたい。
例えば見世物小屋の「熊女」などは、毛を生やした女性が如何に奇異であるか、もしくは禁忌性を有しているかを説明するための好例である。熊女は一般的には多毛症の女であると考えられている。多毛症とは、女性の体毛が男性と同様に、ないしは男性以上に成長するという症例であり原因の一つとであり、その原因としては男性ホルモンの過剰分泌が考えられている。そして、熊女は、小人やダルマ、ふたなり半陰陽などと同様に奇形を売りにした見世物であった。
性同一性障害は、いわゆるGID〔Gender Identity Disorder〕――心の性別と身体的な性別にズレや違和を持っている人たちの総称である。GIDは「障害」と称されるように、便宜上は精神病を検査する際に用いるDSMに照らし合わせて診断される疾患である。GIDを巡る問題は複雑かつ、非常に入り組んだ問題でもあるので、またいづれ誌面を割いて論じていく予定であるが、次に例として提示するのは、トランス・セクシュアル〔Trance Sexual〕――性を越境する者/性転換者――である。TSはトランス・ジェンダー(Trance Gender)包括的なカテゴリーに含まれるひとつの括りでもあるため、一般的にはTGという言葉の方が広く流通しているように思える。捕捉的に付け加えるならば、TGはTSだけでなく異性装者を指すクロスドレッサー(Cloth Dresser)や、同意味を持つトランス・ヴェスタイト(Trance Vestite)、そして半陰陽(Inter Sex)といった性的少数者(セクシャルマイノリティ)を含んだ言葉になることもある。
本筋を大きく外れていくと思うので、各セクシャルマイノリティの説明は省略させて頂く。各種セクシャルマイノリティに興味を持った読者諸氏は、MTFのGIDである宮崎留美子さんの『私はトランスジェンダー』や、新書版なので読みやすく入手も容易な伏見憲明さんの『性のミステリー』、そして自らを「女装家」と称し和服の着用を推進する三橋順子さんが共著者として名を連ねる『トランス・ジェンダリズム宣言』などを参照のこと。私は後述するが、大学3年~4年頃、一時的にではあるがセクシャルマイノリティに関わる研究を行ってきた。現在は問題関心こそは残っているが、関わりは随分と薄いものになってしまい、TGやセクシャルマイノリティを巡る議論や文献については当時の記憶や資料を頼りにしているため、現在的状況とのギャップがある可能性があるので、そういった点には気をつけていただきたいと思う。
さて、トランス・セクシュアル(Trance Sexual)についても細かい説明は省くが、簡略化して説明を行うならば、心の性(性自認)と身体的性の不一致に対して、非常に強い違和感を持ち外科手術によって性の転換を望む人たちである。男性えのトランスを望む女性(Female to Male)であれば乳房の切除、男性ホルモンの投与、擬似的男根の装着などの外科手術や、心理面をも含めたアフターケアを長期間続け、緩やかな性の越境を行っていく。ホルモンの投与や外科手術などは様々なリスクを伴うのだが、ここでは詳細について触れないので、GID/TSの当事者たちによる著作を参照して頂きたい。代表的なものとしては、ドラマ『3年B組 金八先生』でGIDの生徒をテーマにした回があったのだが、生徒のモチーフとなった「虎井まさ衛」さんの著作などがある。
話は再び毛に戻る。大学時代にTGやセクシャルマイノリティに関わっていたことは前述した。その流れの中で、TG当事者で、現在FTMトランスの真っ最中という方にインタビューをする機会があった。インタビューの中で最も印象に残っているエピソードに毛の話がある。ムダ毛ではなくヒゲなのだ。インタビューを行った当事者の方は、トランスする中で顕在化したヒゲに対する関心――顎の周りに<男らしい>無精ヒゲ、鼻下のヒゲが濃く、しっかりと生えてきたということについて、憧れてきたものに手が届いたというような喜びを語ってくれた。
この話も余り深入りしないが、TGは全般的に「男/女らしさ」を強く意識していると指摘されることが多い。元は彼女という呼称が充てられていた現在の<彼>も同様に、ヒゲという男にのみ許され、生やすことを承認された毛。つまりは男らしさを構成するためのモチーフのひとつに憧れを持っていた。
男たちは恥部以外に毛の生えたヴィーナスを欲しておらず、自らのアゴや鼻下に生えるヒゲに対しては厄介もの、ないしは清潔な身だしなみを維持するために駆除しなければならない<侵略者>という認識がある。私事であるために、多くの男性がそういった経験を持ったことがあるとは言い切れないが、思春期前後の少年たちもムダ毛に対する嫌悪を持つことがある。私も経験があることだが、生え始めた脛毛や腕毛、腋毛に腋毛などを忌避して抜いたり剃ったりといった<処理>を行うのだが、御周知の通り、体毛はヒゲ剃りなどで剃ってしまうと、さらに多量の体毛が生えてしまう。そのため、体毛の再生産に気づかずに体毛を剃り続けると…ふさふさと生い茂った体毛が体を征服し、男らしさ――体毛が隠蔽され、全体的に丸みを帯びた女性の身体に<キレイ>という形容詞使った際、<キレイ>に対比させるところの<キタナイ>というイメージを錯覚的に感じ、悲観にくれると共に、自らの男としての身体を嫌が応にも承認する必要に迫られる。
その一方で、女らしい身体を忌避して、男に憧れる女性はTGでなくともヒゲや体毛に対する憧れを示す。顔に生えるヒゲなどは男性ホルモンなどを投与しない限りはうぶ毛よりも立派なものを生やすことは難しいだろう。しかし、体毛程度ならば手入れを怠り続ければ男と同様とまではいかないが、それなりのものを生やすことは可能だ。だが、これまでに繰り返してきたように、性的対象として女性の身体を眺め、それを欲望し、所有し、触り、舐め上げ、吸い付きたいと欲求する男たちは体毛を生やしたヴィーナスや腋毛を生やしたヴィーナスなどを望んではいない。ヴィーナスが生やすことを許される体毛は唯一、陰毛のみである。
体毛を生やすヴィーナスを望まないという嗜好は、何も男たちに限った話ではない。体毛を生やしたヴィーナスという表象に限らず、性的対象となった女性の身体を巡る問題はエロティックな要素〔the erotic〕に突き動かされた男たちの視線だけでなく、男たちの視線と共謀関係を持ち続ける女たちによって維持されていく。しかし、全ての女が総じて共謀的というわけではない。ある女にとっては狡猾で戦略的なものであり、ある女にとっては懐疑することのない常識であり、またある女にとっては違和感を持ちながらも社会との折り合いをつけるために受け入れ、自分を馴致させる必要のある関係なのだ。
2006/12/20(水) 01:29:17 |
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結局、文化衝動〔Kulture Trieb〕には逆らえず、『狂い咲きサンダーロード』の収録された、石井監督のDVD-BOXを大人買いしてしまう。ソノホカ、澁澤龍彦やら坂口安悟やらの文庫を古本屋で購入――そのあとの足で、お久しぶりな方々と飲んできた。カマタ・サミットの人員が今後も拡大しそうです。
それはおいといて『狂い咲きサンダーロード』だな百姓! とりあえずだ俺の人となり、ないしは文化に対するテイスティング……いわゆるトコロ「映画秘宝」誌に美学を感じたり、大槻ケンヂのエッセイに対してモノスンゴイ愛着を感じてしまうような、ロフトプラスワン的なテイスティングを踏まえるところ、神映画すぎる。オトコノコの妄想や欲望、そして憧れに関わる80年代的な要素が全編に詰まっているし、音楽の使い方も逸筆すぎて思わず百姓! と叫ばずにはいられない。場所の名前に関わるトホホなネーミングセンスも最高。
あとは、アレだね。『帰ってきたウルトラマン』の「怪獣使いと少年」と同様、日本のアンブというか、周縁を執拗に描き出す辺りに似たようなテイストを感じた。カタワになった仁さんが病院を出るシーンで、わざわざと車椅子の身体障害者を背景に、執拗に映りこませる辺りに何かこう……現在の邦画(ついでに特撮)が失ってしまった、古きよき時代の熱い何か〔something hot〕があったような気がする。
良作には必ず一箇所くらいダレる箇所がある――とはよくいうものの、『狂い咲きサンダーロード』は全編が見所。全編がスペクタクルとしかいいようがなかった。それが解らん男は百姓だ! この作品には前述したように、漢たちの夢と妄想が詰まっている。カタワになりつつも、重火器と鉤爪とアーマーで武装した仁さんはまさに神! デウス・エクス・マキナ! 暴走族時代の暑苦しい熱血さと、武装神と化したシーンの冷血さとの対比にシビレル。
作品自体も、三島由紀夫×東京ロッカーズ×バイオレンス×ビーバップ・ハイスクールをゴチャ混ぜにした感じで激しくキャンプのような、それでいてぶっきらぼうなような…少なくとも、家畜的な消費者どもには滑稽な作品として映らないだろう――だがソコがいい! これはやはりアレですか? 誰かクリスマスでも年越しででも良いけど、石井監督のDVD-BOXに収録されている作品の鑑賞会でもしませんか? 狂い咲き的に。
2006/12/19(火) 00:30:49 |
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昨夜――地元の古本屋で手にいれた『ルイ・ヴィトン大学 桜並木通り』を風呂で読了。MARCH大学でたけれど、女にゃ学歴関係ねーぜ的な皮肉な状況についての『クロワッサン症候群』を記した人の本。
ルイ大の発刊から14年以上経つけどブランド大学指向や、嫁としての価値をあげるだけの教養指向、空虚なセレブ文化はあんまり変わっていないように思える――変化といえば、女性でも堂々と東大生であることを宣言する(むしろマスメディアが気兼なく宣言できる環境を整備した?)ような点くらいか。
あと、NTTの修理の人が夕方からくる。やっとネットが復活DADADAISM。昨夜、鶴見俊輔の『埴谷雄高』を手にいれてきたので、今書いている最中の「娯楽的『死霊』論」が書き上がるか・・・と思ったら、『死霊』との関わりで、どうしても『ドグラ・マグラ』との比較が必要になったため、文庫版を上下セットで――アッー! 領収書クダサイ。
チクショウ、『ドグラ・マグラ』を紐解くのなんか大学時代以来だぜ。角川文庫版はにかと表紙が非常にハレンチなんだが、ロッカーには本カバーなんゾいらないぜ。あ、そういや家の本棚には『いちご100%』が10巻位までしか棚にないから、ブクオフ覗いてこようかな(・∀・)ハハハッ!
ブックオフでは映画秘法の「Jacass」特集号(丁度Jackass the Movieが日本上陸直後位のころ)と「狂い咲きサンダーロード」&「爆裂都市」&ロメロ作品特集号と、『いちご100%』の12巻を買ってきた。映画秘宝誌の文章センスはほんとツボだ。明らかに、『ドグラ・マグラ』よりも『いちご100%』の方が表紙が破廉恥だ。『ドグラ・マグラ』は電車の中でカバー無しで読めても、いちごはキツイと思った。
「基本的に●イダーの登場シーンは映画『5人のライダー対キングダーク』(74年)の映像を無断流用。さらに体で活躍するシーン用に、●イダー・スーツも製作。その結果、眼と眼の間が離れたダウン症のようなV3、アゴのシャクれた1号&2号が大暴れ」――「WILOBOYZ名画座」映画秘宝誌2004年11月号。
「世の中には人生を変える映画とどうでもいい映画の2種類がある。『狂い咲きサンダーロード』と『爆裂都市BURST CITY』は、70年代末から80年代初頭の数年間、日本中を駆け回り、多くの「翼なき野郎ども」の人生を変えた。それから20年、昨今の日本映画がやってる純愛だ電車だジョニー・デップだなんてもうウンザリだ、長らくお世話になりましたッ、と思っている人に朗報!/『爆裂都市 BURST CITY』が7月21日に、そして初期作品集も含めてデジタル・リマスターした『狂い咲きサンダーロードが石井聰亙監督自らの手によりDVDとなって帰ってくる! 今からでも遅くはない! 人生を変えろ!/この特集を読み飛ばした奴、DVDを買わない奴らは今日から全員敵だ!」――「From『狂い咲き三ダーロード』to『爆裂都市』」2005年9月号。
後者に至っては「ヤツは敵だ。敵は殺せ。ヤツを殺せ」的な政治性を保有しているのだが、オタク文化の中には常々そういったものが潜んで云々―― しかし、上記のアジで魂が勃起しないヤツは漢じゃねえ! といいたくなるのは昔取った杵柄…すっかり忘れていたよのだよ、『星くず兄弟の伝説』『暴走機関車』『アンデッド』辺りと共に、購入予定DVDリストに『狂い咲きサンダーロード』と『爆裂都市』が入っていたことを。
2006/12/10(日) 17:34:39 |
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久々にナニも予定のない一日でありました。前日、突発的な予定で夕刻に横浜方面に行く用事があった位で。海風は寒かたです。あと、山下公園の氷川丸もクリスマスシーズン・イルミネィションまっさかりで、とてもうっとうしかったです。
――時に先生、久々に時間があったんだから、7割方書いて放置気味な「制服の修辞学――女学生について」やA4×2枚辺りまで書いたわりに、同じく放置してある「フェティシズムと身体拡張」とかの原稿を早く上梓してくださいヨ。
∧_∧
( ・ω・)
_φ___⊂)_
/旦/三/ /|
| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ | |
| 課長王子 |/
やー、だってさぁ。脳髄を刺激するような関連資料少ないしさ、いまいち全体的なイメージも少ないしさ。むしろ、姉妹作品的な「制服の修辞学――看護婦について」の方が、恒常的なジェンダーバイアスとの関連にもひっかかるし、国際的な事例であるから資料もあるけどさ、女子高生が性的なメインアトラクションとして機能しうるというのは日本独自の文化っぽいからさ、直接的な資料も少ないんだよね。ミヤダイ先生や、よしりんのモノよりも中立的なものが欲しいのよ。
――そのくせ、黒人に対する暴力的な視線をメインとして扱った「外国人という他者」は随分と凄い勢いで書き上げたじゃないですか。
∧_∧
( ・ω・)
_φ___⊂)_
/旦/三/ /|
| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ | |
| 翠星石 | /
ンー、だってさぁ、ジョン・G・ラッセルの『日本人の黒人観――問題は「ちび黒サンボ」だけではない』(1991)に非常に強い感銘を受けたり、丁度ポストコロリアニズム関連の文献を集中的に読み漁ってた時期でもあったからさ。
あとは、mixiで外国人の男と付き合うことが何かのステイタスでもあるかのように思い込み、ついでに外国人=英語としか思っていない盲目なバカ女の狂騒とかを見ててさ、同じ日本人としてやるせない気持ちになった。そして、それと同時に、嫌悪と苛立ちとかがあったらサー。アレよね。動機が違うっていうのー?
生活時間が変わってきたからサ、女子高生と遭遇する機会も減ったしサー。ンー、グレース・ハルセルの『黒い性 白い性――人種差別の根底をさぐる』(1974)で告発されたような白人男性の態度から学んだことも多いって感じー? 一言でいうならねー、『ママは小学四年生』ッ!
――とりあえずさぁ、遊んでばっかないで、いい加減社会貢献のひとつでもしたら良いじゃあないですか。同い年の連中がどんどんと社会人に顔になっていくようなことに対して、劣等感のようなものを抱かないんですか!?
∧_∧
( ・ω・)
_φ___⊂)_
/旦/三/ /|
| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ | |
| 象牙乃塔 | /
ンー……。別にさぁ、数年前まで鼻水タラして「学生最高!」とかのたまわってたヤツらが、とって付けたような仮面を被ったトコロで。そして、「お前らも早く社会に出ろよ!」とか道徳的ないいがかりをつけたところで、どうでもいいよネ……よーし! 今度はオジちゃんがお医者さんだっ! ところでさ、『単一民族神話の起源』(1995)を書いた小熊英二さんって凄い良い男だよネ。ネット経由で見た写真でぐっときたよ、ぐっと!
2006/12/05(火) 22:43:57 |
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メイドについての議論は幅広いのだか、日本のメイド史における言説は少ないようにも思える。むしろ、そういった視点を持つことがなく、メイドといえば兎に角ヨーロッパの史実ばかり追っていた自分を含めた大衆が、如何に自国に展開した歴史に無知であったかを思い知らされた。汝自身を知れということに、我々は気づいていなかったのだ。ソクラテスが劣等感を感じた、多くの哲学者たちであったのだ、我々は。
つまりだな、大学時代のしがらみから、メイド喫茶を題材とした卒論の推敲・添削・指導を引き受けたため、その卒論の草稿を手直ししている中で明治~昭和にかけての、日本におけるメイド像に関する記述があり、大きな感銘と興奮を受けている。ヱウレカ!
特に突飛すべきは、日本におけるメイド専門学校の存在だろう。第一号的な存在は、東京女給学院(明治19年)であり、当時のメイドさんは舶来文化を日本に伝えるという役割を担わされ、欧米人メイドさん講師の下でメイド労働だけではなく、欧米の歴史や語学も叩き込まれていたという。
明治25年頃になると、日本各地にメイド専門学校が乱立し、メイド学校と呼ぶことの出来ない学校も多々あった――つまり、現在のメイド喫茶飽和状態と同様の状況が、既に明治時代に存在していたのだ。また当時のメイド服は漆黒で、ブーツが主だったという記述もある。
メイド学校の乱立はメイド市場の成立をもたらし、前述の東京女給学校にはメイド求人標が殺到しながら、メイドは主人、主人はメイドをお互いに厳しく選び、お互いがお互いをドライに見捨てるという、ある意味では合理的な状況が存在していたともいわれている。
昭和初期に入ると、川端康成が『伊豆のメイド』を執筆。学園紛争が世間を圧巻する1960年代に入ると、佐世保の白鳥メイド学校において、世間の風潮を受けてか、東大の篭城事件を模倣した形で生徒(=メイド)たちによる篭城が発生。
白鳥メイド専門学校における篭城事件は、一年生(高校一年生に相当)の一部が近隣の県立高校の男子学生グループに触発されて決行したものであったが、白鳥メイド専門学校の生徒たちが県立高校の男子学生グループとともに校内に立てこもったため、「生徒以外の人間が校内にいる」と学校側が警察に突入を要請した。警察の突入によって、篭城事件は一日で解決したが、その全てが丸くおさまったわけではない。篭城事件の一ヶ月後には、事件のリーダー格の生徒による「ご主人様なんて要らない」と題する手記が朝日新聞全国版に掲載され、その翌々日には社説がメイドを論じ、全国の注目を集めた(68年10月8日号)。
社説は、なぜか丸山真男が引用され、家父長制が云々や、女性の社会進出が云々されていた。また、前述の白鳥メイド専門学校の校長は雑誌社にインタビューに対して、「まだメイドとして働いたことのない娘さんに、メイドの何がわかるというのでしょう。メイドを軽々しく云々されたくありません」と述べている。白鳥メイド学園の校長の言葉は、今現在、氾濫と拡大の一途を続けるメイド産業に痛烈な批判として機能しうるだろう……。
さて、随分と凄まじい歴史が日本にあったのだなと、関心して添削・推敲に、自分の課題をそっちのけて2時間位かかりきっていたら、日本メイド史に関する部分の最後に「大島伸啓日本メイド史より引用
http://maidken.hp.infoseek.co.jp/inushima/history.htm
とかねwwwwwwwww うは、引用文と気づかずに、ひたすら添削と推敲を加えていたのですか。まぁ、それはそれとして、当該ページを見てみたらね「※注意:念のため書いておきますが、朝日新聞と文芸春秋の記事は実在しません(^^;)」とかwww さらに、それだけでなく、川端の『伊豆のメイド』で色々とググってみたら以下のようなモンが。
78 :世界@名無史さん
>>72
そこもある意味電波サイトですぞ。というかネタサイト。 "東京女給学院"は実在しません。
79 :世界@名無史さん
あれを本当の記事だと信じている奴結構いるよな。民明書房並に罪作りなサイトだ
>※注意:念のため書いておきますが、朝日新聞と文芸春秋の記事は実在しません(^^;)。
としっかり書いてあるのにw
80 :71=72 :03/11/03 14:28 ID:
>>78-79
私も初めて読んだ時は、途中まで本当だと信じていました。校長が満州国の首都・新京で新興財閥のオーナーの家で働いていた元メイド、という設定とか、本当によく出来ています。
ちょwwwwwww激しく偽史wwwwwww「199X年」的な北斗の拳世界とか、「あの決定的な敗戦からXX年」といった「犬狼伝説」的押井守的な偽史世界ですか……本気で真実かと思いこんで、熱心に推敲や添削をしまくった俺の労力が報われないス(´;ω;)。
2006/12/01(金) 02:09:52 |
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