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続・JUNK屋日誌

blogへのテラ・フォーミング(2005/12/17)。遂に時代の流れには逆らえづ、本サイトの日記のみをblogへ移行。

胎動

 今日もセンセと飲んだくれ。あとね、随分昔、まだ万能感に支配されてた頃の話なんだけどね。ミニコミ誌とかメルマガとか、色々やりたいとか意気込んでたのね。

 現在では、日頃の活動や大学時代のゼミ活動における冊子つくりなどを通じて。また一方で、最近執拗なまでに書き綴ってきた論稿を紙媒体にしたいな欲求が高まる。昔、即ち意気込んでいた当時はそれを一人でやろうとした傲慢。

 今は幸い、執筆に巻き込めそうな人間が二人程いる感じ。内容としては、「広義の文化を扱いながら、ぷち反商業的、ぷち反時代性の批評や論稿を志向し、一部人民の脳髄啓発や文化のテイスティングに関する水先案内足りうるもの」という感じ。つまりなんでもあり。

 今回は準備号として、A5サイズの横組。一太郎マタはWordによる編集。印刷後、収監先にある両面コピー機を利用してコピー本的に製本予定中。

 内容は、一部高感度なヒトビトの啓発や、文章中心の総合文化・文芸誌という感じ。誌名は未定――SchwarzGeist(黒き精神)とかReich von Kulture(文化の帝国)とかが仮案――だから、良い案あったら提案求む。

 またHeavyな内容に対するポップな表紙(題材はポップな文化)を誰か書いて下さい(´;ω;`)。原稿の書き手も募集。文章や表現が拙い部分には主宰の添削入るけど。

 一先ず、準備号原稿・表紙の書き手求む。完全にボランティアですが、自分達の作品や思考が携帯可能な紙媒体になることの素晴らしさが報酬だ! (;´Д`)。準備号には過去に書いたセクシュアリティに関する論考を体系化オヨビ増補・推敲して収録予定。書式に関しては確定し次第告知予定。


――準備号に寄せたテーゼ的な宣言

 文化、その混沌たるエスは、様々な論者によって、様々な時代において。また、様々な形で論じられてきた。ジーグムント・フロイトは文化を<鎧>として。即ち、身体の拡張もしくは転換の可能性を我々に寵愛しうる義体〔Protehesen〕として定義づけた。
我々は自らを覆い、時にはアイデンティティを<装う>ものとして機能し、また時には自らを定義し、他者との差別化を促し、そして我々自身をも苦悩させる可能性を持っている様々な現象――すなわち、我々のハードコアを貫くことのない強さを持った外的刺激に晒され続ける中で、我々が無意識に、時には意識的に身につけてきた<鎧>を批評する者たちである。
無意識に、または意識的に<鎧>を身にまとい・まとわされる者たちよ。自らを取り巻き、そして自らを抑圧し、時には誘惑せしめんとする、その<鎧>が何なのかという点を意識し、定義付けを行いたいという欲求を持ちたくはないだろうか?
我々は手助けを行うだろう。そういった欲求を持つ者たちに対して。しかしながら、そういった欲求を持たない者たち。様々な事物に問題関心を持たない者たちにとっては、我々の生産する数々の思想・評論・思考体系が有益に機能することはない。
我々の論考は、一つの答えを出すかもしれない。しかし、その答えが読者諸氏、すなわち問題関心を持つ者たちにとって最良の物であるという確証はない。我々は、生産せしめた思想・批評・思考体系の数々が読者諸氏にとって、最良にして唯一の性を持つ解答として読み解かれることを期待してはいない。また、それを目的としているわけでもない。
本書に収められている様々な論考を裁き、使い、批評し、記憶せしめるのは、オーディエンスたる諸君である。我々は望んでいる。決して万人に向けたものではないが、我々の打ち出した思想・評論・思考体系が、オーディエンスたちを微力ながらに啓蒙し、啓蒙されたものたちがそれぞれの問題関心に対して、更なる取り組みや批評を行い、また、同じ問題関心を持つ他のものたちに対する啓蒙を行えることを。
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  1. 2006/10/27(金) 00:44:30|
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教育的臨界

 さあさあさあお立会い。可哀想なのはこの子でござぁい。見てやってくださいこの結果。心の教育を唱える教育機関によって、度重なる搾取を受け。もはや狂信的なまでに、子供に対する教育に幻想を持つ親御さん方からは罵倒され、生まれた結果が自殺の選択。ああ、皆悲しき自殺の結末。

 福岡のいじめによる自殺に続いて、今度は新宿区で新任女教師(当時23)の自殺に関する報道がなされた。詳細はとりあえず下記のURLを読んで頂くとして、この報道をたまたまつけていたNHKで目撃してしまった自分の感想としては、死者に鞭打つようだが「社会舐めてるな」の一点。ただ、NHKの報道では、新任の<女教師>であること、学内のトラブルを解決できなかったことや、相談相手の教師がいなかったこと。そして、親からの批判などが自殺に至る主な原因として報道されていた。


http://www.kobe-np.co.jp/kyodonews/news/0000148191.shtml


 この事件は一見するならば、社会を舐めた教師もどきが、理想と現実の格差に絶望して、周りに対する原因。そして教師という職種が持つ社会的責任に、酷く無自覚な状態で自殺を行ったという、非常に下らない事件として片付けることができる。特に、自分の場合は母親が私立教育機関で経営者兼教諭を30 年以上に渡って続けてきており――育児休暇などなく、0歳の自分は籠に入れて教育現場に連行され、生徒や先生の中で育てられてきた。親からの批判、先生同士の派閥争い、労組運動等々。多くの人には神聖な職や幻想として映る教育現場という洗浄の中にある醜い現実を、親の話を通して間接的にだが享受してきた。

 つまり、自分は「親のバッシングごときで自殺するのなら、うちの母親なんか100回以上死んでるだろうし、過労を問題にするならば、うちの母親は先生方が帰った後でも、午前三時位まで居残って作業してるわ!」という決定的な批判を堂々と叫べる<特権的立場>にある。まぁ、そういった特権的な立場にあるものだけが、親の批判を苦に自殺したという点を厳しく糾弾できるというわけではないのだが、自分が前述したような批判を行う際、自分は <特権的な立場にあるのだ>という点を、自省の意を込めて表明している。

 NHKの報道、その流れは無意識的なものであるだろうが、特に気になったのは先にも述べたキーワードたち。「新任女性教師」「学内での孤立」「親からの批判」という辺りから、「だから女は弱いんだ」とか「子供を産み・育てた経験のない若い女に教師なんか・・」というような、無意識的な性差別を視聴者たちに植えつけるのではないか? という危惧があった。フェミニズムや助女性学に対する決定的な批判としても「あなたたちは子供を産み・育てた経験が無いから説得力などない」というものがある。

 確かに、出産・育児の経験は大きなウェイトを占めるだろうし、そけを経験した者同士には強い連帯感や共感が生まれることだろう。しかし、出産・育児経験のみを、意見の正当性や、自らの正当性の拠り所にしようとする姿勢は不埒であり、白痴的だ。自ら考えることを止め、批評することを止め、自分たちに都合の良い意見や都合の良い側にいる人間以外を認めないという暴力的な言論弾圧に繋がりかねない。

 重要なのは、各個人がテレビの報道によって導かれるような解答――先の報道を例にするならば、「精神的に弱い存在としての女」という幻想を信じ込ませるような流れを疑ってかかるような、潤沢な知識や批判能力を持つことだと考える。

 ただ、件の女性教師が精神科に通っていたという履歴もあり、典型的な心の時代の消費者または犠牲者をどう考えるべきか・・・という点も難しい問題ではある。「打たれ弱いヤツは教師なんかにするな!」と感情論的に一喝してしまえば、多くの可能性を潰す代わりに、現状よりは安定した教育現場――いや、むしろ荒廃と紙一重の教育現場が生まれる可能性はあるだろう。ただし、最初は打たれ弱くても、打たれるという経験意を通じて成長していく可能性がある(かもしれない)教師たちを最初から排除してしまうことはナンセンスでもある。

 こういった話題は面倒臭いし、カリキュラム論に則った立場か、それとも教育論か、もしくは教育法か、といった話にも広がりかねない、また気が向いたらね。
  1. 2006/10/24(火) 22:29:28|
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教育的臨界

 さあさあさあ、お立会い。可哀想なのはこの子でござぁい。見てやってくださいこの結果。心の教育を唱える教育機関によって、度重なる搾取を受け。もはや狂信的なまでに、子供に対する教育に幻想を持つ親御さん方からは罵倒され、生まれた結果が自殺の選択。ああ、皆悲しき自殺の結末。

 福岡のいじめによる自殺に続いて、今度は新宿区で新任女教師(当時23)の自殺に関する報道がなされた。詳細はとりあえず下記のURLを読んで頂くとして、この報道をたまたまつけていたNHKで目撃してしまった自分の感想としては、死者に鞭打つようだが「社会舐めてるな」の一点。ただ、NHKの報道では、新任の<女教師>であること、学内のトラブルを解決できなかったことや、相談相手の教師がいなかったこと。そして、親からの批判などが自殺に至る主な原因として報道されていた。


http://www.kobe-np.co.jp/kyodonews/news/0000148191.shtml


 この事件は一見するならば、社会を舐めた教師もどきが、理想と現実の格差に絶望して、周りに対する原因。そして教師という職種が持つ社会的責任に、酷く無自覚な状態で自殺を行ったという、非常に下らない事件として片付けることができる。特に、自分の場合は母親が私立教育機関で経営者兼教諭を30 年以上に渡って続けてきており――育児休暇などなく、0歳の自分は籠に入れて教育現場に連行され、生徒や先生の中で育てられてきた。親からの批判、先生同士の派閥争い、労組運動等々。多くの人には神聖な職や幻想として映る教育現場という洗浄の中にある醜い現実を、親の話を通して間接的にだが享受してきた。

 つまり、自分は「親のバッシングごときで自殺するのなら、うちの母親なんか100回以上死んでるだろうし、過労を問題にするならば、うちの母親は先生方が帰った後でも、午前三時位まで居残って作業してるわ!」という決定的な批判を堂々と叫べる<特権的立場>にある。まぁ、そういった特権的な立場にあるものだけが、親の批判を苦に自殺したという点を厳しく糾弾できるというわけではないのだが、自分が前述したような批判を行う際、自分は <特権的な立場にあるのだ>という点を、自省の意を込めて表明している。

 NHKの報道、その流れは無意識的なものであるだろうが、特に気になったのは先にも述べたキーワードたち。「新任女性教師」「学内での孤立」「親からの批判」という辺りから、「だから女は弱いんだ」とか「子供を産み・育てた経験のない若い女に教師なんか・・」というような、無意識的な性差別を視聴者たちに植えつけるのではないか? という危惧があった。フェミニズムや助女性学に対する決定的な批判としても「あなたたちは子供を産み・育てた経験が無いから説得力などない」というものがある。

 確かに、出産・育児の経験は大きなウェイトを占めるだろうし、そけを経験した者同士には強い連帯感や共感が生まれることだろう。しかし、出産・育児経験のみを、意見の正当性や、自らの正当性の拠り所にしようとする姿勢は不埒であり、白痴的だ。自ら考えることを止め、批評することを止め、自分たちに都合の良い意見や都合の良い側にいる人間以外を認めないという暴力的な言論弾圧に繋がりかねない。

 重要なのは、各個人がテレビの報道によって導かれるような解答――先の報道を例にするならば、「精神的に弱い存在としての女」という幻想を信じ込ませるような流れを疑ってかかるような、潤沢な知識や批判能力を持つことだと考える。

 ただ、件の女性教師が精神科に通っていたという履歴もあり、典型的な心の時代の消費者または犠牲者をどう考えるべきか・・・という点も難しい問題ではある。「打たれ弱いヤツは教師なんかにするな!」と感情論的に一喝してしまえば、多くの可能性を潰す代わりに、現状よりは安定した教育現場――いや、むしろ荒廃と紙一重の教育現場が生まれる可能性はあるだろう。ただし、最初は打たれ弱くても、打たれるという経験意を通じて成長していく可能性がある(かもしれない)教師たちを最初から排除してしまうことはナンセンスでもある。

 こういった話題は面倒臭いし、カリキュラム論に則った立場か、それとも教育論か、もしくは教育法か、といった話にも広がりかねない、また気が向いたらね。
  1. 2006/10/24(火) 22:28:15|
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I Hate This Fuck'in Country

 という題名で、自国(イスラエル)のエクストリーム・メタルシーンについて書いてた論文があったな。そいつを発見したのは、もう去年位のことだけど、全然読み進めてないや。内容については、グローバルな展開、即ち英語歌詞で世界に進出することに、嬉しさと自分たちのアンダーグラウンドな領域から離れていくことに苛立ちを感じるファンたちについて書いてあった感じ。ときに、自分は日本に対する嫌悪は、過去の日記で様々な暗喩によって論じてきた。その辺りを、今回は少し突っ込んで書こうと思う。

壱:自国に対する悲観主義(ペシミズム)
 
 冒頭から暴論を振りかざすならば、日本人が、世界に誇れる日本文化として堂々と誇れるものは「アニメ」「マンガ」「カラオケ」、そして「ファッション」しかない。武士道? 茶道? 芸者? その他諸々の、前近代的日本文化を引き合いに出して日本が如何に素晴らしかったかを説こうとする輩も多い昨今だが、忘れてはならない点がひとつある。それら、古きよき日本独自の――日本文化というものが、そもそもにして中国や朝鮮文化の混血児であることを踏まえるならば、その言い方にも語弊があるのだが、ここでは便宜上――文化の多くは、欧米諸国によって評価されることによって、日本人たちが自らを評価するためのツールに成り得たということだ。

 自分たちが、常に先人として憧れてきた欧米文化の担い手たちが自分たちの(古い)文化を価値あるものとして認めてくれた。すなわち、古来にある文化は世界に誇れるものなんだ! という盲目的なナルシズムには、飽き足らない程の嫌悪感を覚える。進んだ西洋/遅れたアジアという図式を持ちながら、アジアの中でも日本は少し先駆的であり、アジアの主導者となるべき――アメリカの経済・文化的植民地であるのだから、それは当然といえば当然だが――という傲慢な姿勢にも苛立ちを隠せない。

弐:外国人信仰
 
 壱と被る部分も多いのだが、日本は<名目上>単一民族による国家とされている。あくまでも<名目上>。世界地図を見ても解るとおり、日本は極東の島国であり、アジア圏でもある。従って、当然ようにアングロ系――金髪の白人たち――やアフリカンは、圧倒的に少ない。だからこそ、希少性のある肌を持つ連中を外人(エイリアン)として見ることは仕方が無い。しかし、同じアジア圏といえども、韓国・朝鮮の方々や、中国・ベトナム・フィリピンその他中東やモンゴル人や内蒙の中国人等々だって、れっきとした外国人であるのに。そして、その多くは日本の各地、<英会話教室 >とか<外国語講師>とかではなく、飲食店やスーパー、加えて水商売といった、身近な生活に根ざした職種で働いており、日本国籍を持ち、日本語を話しながら<外国人>との交流を求める多くの連中と接する機会が多いというのに。何故に、必要なまでに「外国人信仰」を叫ぶのかという点に嫌悪感を覚える。

 ああ、ヤッパ、奴らには、とりえず肌が白か黒で英語を話す連中しか、外国人として認識できない脳髄構造があるんだな。白人を指して「モデルみたい!」とか「到底追いつけない!」と、美醜的価値を嘆き、悲観に暮れるものも多い。「追いつけない」という点は確かに一理ある。しかし、欧米的な美の規範が真理ではない。現在、欧米的な美の規範が派覇権を握っている状況もあるのだが、アジア人たちが欧米の白人たちの、身体構造の差異からくる美に憧れること同様に、欧米人たる彼・彼女たちも、我々アジア人の身体構造から立ち表れる美に憧れ、追いつけないことを悔やんでいることは多い。アジア人たちと欧米人たちの、お互いがお互いを敬いながら憧れているのだ。だからこそ、背が高く、スレンダーな白人を指して「外人さんは美しいね」という輩には、「彼・彼女たちは、外人さんは美しいねという視線を我々にも向けているよ」というのだ。



 参以降はまた今度、気が向いたら書くよ。今日はガンガン酒あけて、GastunkとVOLCANOのDVDを見まくってたら翻訳作業が全然進まず、衝動的な文章を書き綴っていた。今は反省している。
  1. 2006/10/24(火) 00:42:58|
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マスキュランなる徒然

 バイト先の人が携帯を水没させたらしく、あとでアドを送って欲しいといわれた。今から30分程前、彼女の携帯アドレスには「ドグラ・マグラ」とか刻印されているアドレスが届くことでしょう。そして、水没したのがトイレ。それも洋式トイレ(用を足す前だったことが不幸中の幸い)だったという。ああ、ちゃかぽこちゃかぽこすちゃらかちゃかぽこ。なんて可哀想な携帯。風塵雷神のステッカーが張ってあった渋いアンチクショウ。

 携帯を水没させてしまった人の「トイレの浅い方ではなくて、奥の深い方に沈みましたからね。泡がブクブクいってたんでもう見限りましたよ(・∀・)ハハハ!」という一言が忘れられません。外部メモリはSDカードであったが、水没後に機種変した機種の外部メモリが、マイクロSD専用であったという悲劇。

 バイト後は市民会館の地下にあるトレーニングルームで、黙々と励んでいた。何に? 勿論、身体の征服に。プラスチックのように変化しやすい・変化させやすい人間の身体を所有・征服するための鍛錬に励むのだよ。いくら衣服や文化のテイスティングで「自分らしさ」や「独特さ」を<着飾った>ところで、自分の本質的な部分――移ろいやすい肉体を征服し、所有することなどできはしないのだ。肉体を制することこそ、独特な自分らしさを所有することに他ならない! 三島由紀夫を見よ!

 否、よくよく考えてみれば、三島由紀夫は病弱なる生い立ちや、女性に囲まれ、女性らしさを植え付けられた生育環境から、男らしさというイメージ――女らしさもそうだが、男らしさというものは、幾重にも広がる関連イメージを神話のように紡ぎあげたものに過ぎず、真の男らしさというものはロックと同様に存在しないのではないかと考える――を夢想し、その夢想を現実のものに、即ち、殉教者たるセヴァスチャンのイメージを自らの身体で再現した。自らの肉体をプラスチックの如く、逞しいものに鋳造し、男らしさというイメージに関する一例を追及したのだ。

 そして、「超兄貴」シリーズと、シリーズのサウンドや、その他数々のゲームミュージックをてがけ、尚且つバンド「ブラザーズ」を率いて男の道を説きまくった葉山宏治兄貴は、小学校~高校辺りまで、ボクのバイブル、っていうかタルムードでした。生兄貴のライブを見た時の感激は今でも忘れませぬ。そして、下北沢の某ライブハウスでライブやった際、そこのオーナーがブラザーズのKey担当の「劉先生」だったことに漢汁飛び出た。しかも、事務的な内容だけど電話でお話しちゃったし。しかも、劉先生が「GS美神」のOPを作曲していたのを、その当時に知って、さらに漢汁飛び出た。
  1. 2006/10/22(日) 21:42:35|
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携帯

 朝方、携帯が止まっていたので料金の支払の用紙を持って、学校に行きがてらコンビニにて振込み。菊名で乗り換えても携帯復旧せず。町田についても携帯復旧せず。午前の講義が終わっても携帯復旧せず。仕方ないから、電話して聞いてみたら「今日振り込まれたのは10月分でして、振込みの確認取れていないのは9 月分です」とかいわれる始末。手持ち金に余裕なんかねえよwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww

 たぶん夜22時過ぎ位には復旧する見込み。別に一日如き携帯が使えずとも、行動や人付き合いに影響がでるわけではない。ましてや、拡張された身体の一部分が欠損して気になるわけでもない。Web>>>>メール>>>>>>> >>>>>>>>>>>>>越えられない壁>>通話という利用頻度であるので。すいません、webは2chとmixi位しか使ってません。情報にアクセスすることができないことによる不安が・・・今、これを書き込みながら私は恐れている。 それは・・・今、窓の外で何かが!! あれはなんだ!!窓に! 窓に!あqswでfrgtひゅj

 つまりだな、携帯を媒介として他者とのコンタクトをとり、常に群れていなければ何もできない・不安に――お互いに友達と思い込み合わなければ酷く不安に駆られる<知り合い>たちとメールや電話で承認しあうことが生命線であるような生活では、今、俺が立たされている状態。即ち移動式電脳情報断絶状態(デジタル・ディヴァイド)に陥った際、冷静な判断力を欠き、精神的なゲシュタルト崩壊を招いてしまう。

 貴様らも、もっと精神と脳髄と行動力を鍛えろよ! 独りで飯を食ったり、独りで(最前列)で講義を受けたりすることができなければ、大学という戦場を潜り抜けてきた大学生とは呼べない。そうでないやつ等はポーザーと呼ばざるをえない。ベトナムに行く前に戦争が終わっちまうぞ、アホ!ほんと、大学は地獄だぜ!


  /ノ 0ヽ
 _|___|_      
ヽ( # ゚Д゚)ノ   
  | 个 |      
 ノ| ̄ ̄ヽ
  ∪⌒∪

下がってろスキン顔の学徒ども!
専任軍曹殿は誇らしくランチタイムしてくる。
  1. 2006/10/21(土) 00:23:12|
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馴到への渇望たる知の欲動

 毎度毎度センセとソルボソヌ式に飲んだくれて帰宅の路。「哲学は鑑賞に対する能の家言と同様、一字一句・一挙一動を血眼見開いて凝視するものではない。酒でも飲みながら一抹の光明を読み解くべきだと思うよ」というような話を聞きながらだらだらと飲んだくれ。

 学問といふものは、分野に左右される部分はあるが、解りやすい解答を出すものではない。また、時間経過と共に批判を受けるべきものでもあるし、問いかけを行い、受け手に<考えさせる>ものである。ただ、多用な読み変え・読み解きが可能な分、受け手の側にもそれ相応の知識・能力。ないしは、投げかける<何か>の各トピックに関する問題意識や問題関心がなければ話にならない。表層的な共感や読む<だけ>で満足感が得られるようなものが欲しければ、次に述べるようなものをパブロフの犬のように消費するか、次に述べるような指導者を偶像的かつ盲目的に崇拝し、その教えや装いを帝国主義的に、暴力的に――無意識下で――布教すれば良い。

 表層的な共感、短絡的な解りやすさを喚起するような役割は、インスタントな新書やマニュアル本。そして、大衆の指導者であるテレビを筆頭としたマスメディアや、消費対象でしかないカリスマたちに任せておけばいい。自分はあくまでも、もやもやとした<契機>。状況批判であり、自省のきっかけであり、現状分析であり、個人のルサンチマンにも変化・利用が可能な<何か>を提示しているに過ぎない。

 提示しているものは、大層な肩書きではない。読み手に対して開かれることがなく、極めて専門的で、威厳・威圧的で、空虚かつナルシスティックな知識のひけらかしでもない。好奇心と嫌悪感――時には笑顔を見せたり、子どもと戯れたり、名所を背景に写真を撮るような統治者[フューラー]に共感を示すよりも、もっと純粋にファシズム的な傾向を示す大衆(大衆といっても、それは第三帝国と同様<全体 >ではない)。見世物として最適な一場面のみを切り取られ、提示された、あのファシズムのイメージを先鋭的に模倣し、尚且つその思想こそが正義であり常識であるかのような<連中>に対する嫌悪感であるのだ。

 とりあえず、酒でも飲んでぐだまきながら小難しいこととか、メタフィジックな恋愛論とかをこねくり回し給へよ(´・ω・)y-~
  1. 2006/10/20(金) 00:47:56|
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惰性の胙

・振り込み先間違いで振り込んだ額:3000円

・口座に戻すための手数料:840円

・振り込みに使った渋谷の○ずほに行くための運賃:往復380円

・下がり続けるモチベーションと悶々と鬱積する熱い何か[サムシング・ホット]:プライスレス

 三○なら口座番号入れれば受取り先でるのに、○ずほだと受取り先まで自分で入力だもんなあ(´・ω・)y-~
 昼まで寝てて、覚めきらない頭を抱えてる身としては、電車ん中で一緒になった体育会系ホワイトカラーの上司と部下。銀行のホワイトカラーや窓口の添えものとして<機能しうる>――近代上海における、花瓶女と違い仕事は当てがわれるが――女。醜い商業主義的スペクタクルに覆われた渋谷のセンター街側。その他諸々に、なんか苛立った。

 渋谷を行き交うヒトビトを見たり、すれ違いながら会話を聞いたり、やたらと干渉的な広告都市を眺めてみたりすると、そりゃあ良識・見識のある方々はオキシデンタリズム(幻想的西洋崇拝)に走るわな、と思う。

 でも日本は嫌いではないよね。問題は表層だけで日本をペシミスティックに語りながら、ファッションといえばとりあえず西洋の高級品、外人といえば白人、外国語といえば英語しか見えず、際時の際はちゃっかりと「ぷちナショ」ぶる連中だよな。ヤツラ、パブロフの犬ミタイダゼ。


――以下最初のぼやき(16時頃)の数時間後に降臨したEureka


 政府の陰謀によって渋谷のドトールで、ひた鍛練に励むJUNKさんだが、こんなトコロでくすぶっているJUNKさんじゃあない(THE A-TEAM風)。

 隣席の四人がけ席にバカ男×1・バカ女×2の大学生集団がいるわけで。ふと右を向いたら乳穴が一匹、電話で場所を超越した他者とコミュニケーションしている。その際、残り二人は携帯と熱心なお見合をいしながら、この場にいない他者と<つるむ>。凄い光景を見てしまった。

 これがポストモダンか! メディアカルチャーにおけるアイデンティティをポストモダンと絡めて論じる横文字文献「Media Culture」by Douglas Kellner――映画「プリティー・ウーマン」の分析は逸筆!――を読んで、ポストモダンの小宇宙[コスモ]を感じているわけだが、隣席の方がモーレツにポストモダンだ! センス・オブ・ワンダーだ! ベルを鳴らせ! コングラッチョレイション! スタンディングオベェヘション!気付けば六時だ(´・ω・`)
  1. 2006/10/17(火) 19:34:45|
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爆音公園雑記

lp3

lp2

lp1



 ラウドパーク06、二日目だけ参拝。写真一:首を振りすぎて果てた方々(違)。スキン顔、ここは地獄すら生ぬるい戦場だ! なにぶん、約8時間の公演が2日も続くものだから、目当てのバンドが出演しない時は大事な休息時間であります。そこらかしこに死体が転がってた。

 写真弐:現地で遭遇したマイミクのMOON嬢。遠目で見た時、Slipknotのジョーイかしら? と思った白塗りが、こちらの方にずんずん近付いてきてビビった。

 写真惨:死肉を食らうコープス。なんか、写りっちゅうか、アングル的にキッス・アーミーに見えないこともない。この後、彼女と一緒にIN FLAMESの前方部に突撃したら、熱気により彼女の白塗りが一部剥げた。

○見た順
WITHIN TEMPTASION―LAMB OF GOD―ココバット―IN FLAMES―Kills Witch Engage―ムック(さわりだけ)―Children of Bodom―DIO―Slayer

・WITHIN
 NIGHTWISHだった。前半は素晴らしいが、後半はステージングを含めたVoの単調さでダレた。メタルの批評にある<男のスペクタクルを強固にする添えものとしての女性>というものを実感した。演奏陣はブラックレザーで歌姫は白いドレスだからな。

・LAMB
 WITHINをLAMB側のステージでみてたら、こちら側の人が最前に走るから一緒に突入。圧死。サークルモッシュ。垂直飛び。デス声で肩慣らしするが、一発目だし一気に体力レッドゾーン。演奏は(´・ω・)y-~ 忘れた。

・ココバット
 相変わらずBaがカッコイイ。緊張感は熟練ならでは。ステージが小さい規模なのがもったいない。初見は川崎チッタで、でかいステージが小さく感じる位に衝撃だった。前から2列目辺りでハッスル。体と脳髄が目覚めはじめる。

・IN FLAMES
 圧巻の一言。数年前にチッタで見た時の比ではない。珍しくcolonyをやらなかった。あとJotunをやってくれたことに、目頭の熱さが止まらない。最前近くで圧死。

・Kills
 IN FLAMESから10分しか空きがないとか、鬼すぎ。聞きたい曲は洗いざらいやってくれたし、ステージの端々や下まで動きまわるわ、クルー(?)にズボンを下げられるわ、カートゥンキャラみたいなMCやら、アメリカ感があった。しかしメロディセンスは欧州的叙情。新作が楽しみです。最前付近で完全に圧死。

・ムック
 Killsの後、完全瀕死の体を引きづり、最前でみてやるかと隔離されたステージ行ったら始まってた。予想通り一画だけ違う人種が集まって、噂の阿波踊りしてた。初期の曲を期待しながらポケーっと見てたがやらず。ステージはギラついた緊張感がなく学園祭みたいだった。あと、タツローだけVって感じで、バックは一般人みたいな装い。音といい、メロといい、最近のDirとあまりかわらないジャン。

・COB
 ムックと同じ時間にCOB出す辺り、主催者がムックを客寄せパンダ的にみてるなとか邪推する。初COBやはりカッコイイ。アレキシのデコ具合いに、次世代のカイ・ハンセン候補としての資質を感じた。ランディVだし。

 選曲はリーダトラック乱発にせず、渋いトコロを出してくる辺り熱い。いっそBodom Lake(Lake Bdomだっけ?)もやって欲しかった。あと脱ぎすぎ。半裸アレキシがソロ弾く際、スクリーンに手元がアップになる。その際、いきなりアレキシの乳首が超アップで写されて吹いた。

・DIO
 腕あげて吠えるだけで、あそこまで神々しくなる辺り、流石の二文字。ドラムソロ以外のソロは正直冗長。Kill the Kingから一気に最前に突っ込む。Rainbowナンバーの方が、明らかに客の反応よかった気も。それより、We Rockなしですか(´・ω・`)。最後にWe Rockコールが巻き起こるが、容赦なく終了。やや中だるみ感が満載。見れただけヨシとする。

・Slayer
 体力限界につき後方で見てたが、圧巻の一言。ケリーが動くだけで、なんか凄い威圧感が。トムは毛むくじゃら髭もじゃで、仙人風っつうか、マルクスだった。アレはマルクスだよ。トム・マルクス・アラヤがオーディエンスに圧倒されて苦笑いする辺り、カワイイ!的なものを感じた。なんせ日本のメタルヘッズは、海外勢のライブをみることに飢えていますからな。そのくせ自国のメタルには見向きもしないという病巣的な部分もチラホラと。

  1. 2006/10/16(月) 15:28:19|
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性善説と環境説のハザマで

 本稿は、さるblogにおいて<公開>されていた匿名性批判の投稿を受けて書かれたものである。しかし、当該投稿にトラックバックを張る前に、半ば挑発的な――表層の襟首のみを捕まえて喧嘩を吹っかけるような、浅はかな感情論と、<匿名/非匿名>という部分を強調しながら、都合の良い様に己の正当性を擁護しようとする投稿は、本人によって削除されてしまった。削除の前後には、2chねらー有志による突撃・指摘・批判もあった。しかし、私見を申すならば、<あの内容>では批判を受けることも止むを得ないといえる。しかし、私見のみを申して読者諸氏の判断を誘導することはフェアではない。また、先にも述べたように本稿は当該blogに対する反論として書かれたものである。そのため、本稿単体では、当該文章を知らない読者諸氏にとっては議論の流れが不透明なものとなってしまう。

 そのため、下記に前置きとして削除――都合の良い逃げと批判に値するものだが――された文章を引用しておく。繰り返すが、当該の投稿は万人に<公開>されていたものであり、blogを見たところ引用に関する規則はない。また、読者諸氏に対する配慮と、公平な議論・判断材料のために、2chねるの某スレッドに張られていた当該文章を下記に引用する。




2ちゃんねるのmixiつぶしとその攻防
テーマ :【情報システム】

ブロガー : 今駒 哲子(こんま てつこ)
投稿時刻:2006年10月11日(水) 20時39分

2ちゃんねるは、すべての掲示板を否定するわけではありませんが、おしなべて
管理がほとんどなされておらず、無法地帯になってしまっています。
一方的な実名入りの書き込みで、被害を受けたひとは数知れないのではないでしょうか。
すこし気に入らない、そんな感覚を持っただけで、集団でどんどんでっち上げていっても
まったく自責の念をもたないひとたちがいます。裁判になっているのは、それらのうちの
ほんの一握りでしょう。

2ちゃんねらーは、自分の名前をさらさないことを担保に、他人の実名やプライバシーをさらし、
暴言、誹謗中傷を集団になっておこなっているので、いわば言論の暴力集団ではないかと思われます。

ひとたび個人情報や弱みを握れば、mixiで実名検索して本人の実名やその周辺の多勢の
仲間に対して攻撃し、mixiの中で集団で大暴れとなります。

ネットでの正常なコミュニティ構築をおこなう上で、こんな危険な集団はいません。


http://rblog-ent.japan.cnet.com/geeklog/2006/10/sns_84ac.html







 匿名については、以前、「洞窟の匿名性」という論考で論じたことがある。「洞窟の匿名性」でも論じたように、私は、非匿名が善であり、匿名が悪であるという非常に浅はかかつ、<感情論>的な問い立てには失笑を感じえない。そもそも、極論を申すならば公的機関や商業的機関でもない限り、インターネット上で非匿名――たとえば、mixiにおいて頻繁にみられる履歴書まがいの自己紹介――性を保持して意見を述べることは非常にリスクを伴う問題である。

 ネット上で履歴書まがいに素性を公開することは、何故リスクを伴うか? 答えは単純明快なのだが、ネット上も現実社会と同様、プライベートな情報を安易に漏らすことは非常に危険極まりないというだけのことだ。ネット上は<仮想空間>、即ちヴァーチャルな世界であるから、現実では危険と思われるような行為をすることに対するハードルは低くなるし、対人物理距離や、他者の視線がないために<不特定多数の他者に見られている>という意識が酷く欠如してしまっている。その意識が、部分的な<非匿名>者に善意を与え、匿名者たち――その多くは2chネラーが標的にされる――には、<偽善者>どもが容赦ない批判を行うための口実を与える。

 さてミナサマがご承知のように、現実社会は酷い有様だ。経済・政治・性暴力・人種差別など、大小様々な紛争が起こり、<本当の自分>や<独自性>という、きな臭い概念を追求することが求められ、本来は落ち着くはずの役割(=アイデンティティ)を拒否し、答えのでるはずもない自分探しに没頭しながら、人生の節目節目で中身の無い理想と厳しい現実の間で妥協を迫られる。そんな現実社会だからこそ、ネットという仮想社会に<桃源郷>を求めようとする気持ちは、全く理解できないということはないが、酷くナンセンスだ。トマス・モアの論じたユートピアは、理想郷とは程遠い管理社会。すなわちディストピアであった。ネット上の社会も、デストピアに限りなく近いユートピアと同じものであると、私は考えている。

 そもそも、ネット上ごときに理想の社会――現実社会においてすら達成できえない幻想――を見出すことが間違いなのだ。「ネットだから」「ネット上では」という言い訳は問題ではない。中途半端な非匿名性をバカの一つ覚えのよう正当化し、匿名性の巣窟である2ちゃんねるを、これまたバカの一つ覚えのように批判する白痴どものネットに対する日和見主義を是正していことは必要であるが、決して<急務>ではない。むしろ、是正の必要性が早急に必要というべきヒトビトが大量にいるからこそ、ネットの世界は現実世界よりも激しい攻防や、やじうま魂(ゴコロ)を捉えて離さない<祭り>――木村敏がいうところの「フェストゥム」――が頻繁に起こり、常に「アンテ・フェストゥム(祭りの準備段階)」に突入する可能性を孕んでいるからこそ、フェストゥムに対してダイアローグにコミットメントできるネット上での<祭り>は、マス・メディアを通してモノローグ的にしかその全貌を享受できない現実社会の<祭り>よりも魅力的であるのだ。
  1. 2006/10/11(水) 23:40:04|
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Plastic Dream

 午後は自主休講して図書館でダラダラと、数年前の愛読誌であった月刊『創』を詠み漁る。チョコボール向井や大川総裁、それから鈴木邦夫サンの連載を毎月楽しみにしてた20歳の頃が懐かしいネ(´・ω・)y-~

 今月号(11月号)での、本橋信弘さんの連載である「ニッポン欲望列島」のテーマはAVや『実話GONナックルズ』系の男性向け雑誌の現場で働く女性たち。本文中の、ASUKAさん(豊田薫監督が設立したセルビデオ会社「オペラ」広報)の発言に興味深いものがあった。

 「スカウトした人が言ってました、"AVは夢を与えるんだからいい仕事だよ!"って。たしかにそうですね」(146頁)。つまるところ、AVは自分がセクシュアリティに関する論稿を書く際に頻繁に利用するクリシェ――男にとっての「神話・幻想・理想的な女」――をモニターの中や雑誌の中に<上演 >する夢売り産業ともいえる。

 夢売り産業と意味では、ポップス――ポップスは「夢を売る」という点はDeena Weinstein,"Heavy Metal; The Music and it's Culture"などを参照――もAVも同じ昨日を持っているじゃないか。夢を上演すること、その夢が<神話>や<幻想>を <再現>した<虚構>に過ぎないという点は、AVを享受する側が常に意識すべき点ではあるが、<幻想>を<上演・再現>することは悪影響――誰にとって!?誰の規範によって!?――だと、短絡的に断罪することは愚直極まりない。その辺りのお話は、またいづれ(´・ω・)y-~
  1. 2006/10/11(水) 23:11:04|
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『快感温度n゜C』の一巻と

 『ラブやん』の5巻を、バイトが早めに終わったので買ってきた。やっぱ俺、ツインテールに弱いなと改めて実感した。さて、mixiが相変わらず盛り上がっているようで、目が離せない日々であります。


 「mixiの目指すコミュニティのあり方と利用者の実情とには、かなりのギャップがあるのではないだろうか。/本来mixiの基本理念は、現実社会で幾らか関係のある者同士が比較的内輪に交流を行う場を提供する、というものだと思われる。
 しかし現実的には、「ネット友達募集」的関係、つまり現実社会では一切関係を持たない者同士がネットだけの関係を持つようなケースが多いように思われる。
 その最たるものが、男性利用者たちのナンパ行為である。
大規模に調べたわけではないが、どうやら男性利用者が女性利用者に対してナンパ行為を行うケースが多いらしい。つまりmixiが出会い系サイト的として使われているのである。/これは果たしてmixiの目指す「健全で安心感のある居心地の良いコミュニティ」と言えるのだろうか」
※「mixi安全神話の崩壊」より引用
http://www.geocities.jp/wanyan061/#chap3


 そのような下りは、自分自身が随分前に――加筆の際についている論考の日付をみると2006年の4月11日――「視覚的人脈の手帳」という論考で批判を加えてきた点でもある。氾濫するナンパ。その先には身体の<所有>や、表層的な権力関係、そして簡素な消費財としての秀てた表層的サド-マゾヒズムを顕在化させるインターコース〔性行為〕への安っぽい欲望――そして、当事者が持つ空虚な肩書き・安っぽい資本的優位性・見下し・その他、性を媒介としたナルシズムに帰結する要素ともいうべき<所有>に対する欲求が、醜い薄ら笑いを浮かべているという事実を否定できる者がいるだろうか?

※「視覚的人脈の手帳」



 「女にとって、男に性的に所有されることは、もっと日常茶飯事のことである。女はこれまでずっと、妻として、娼婦として、性的および生殖的召使いとして、男の所有物であり続けている。所有されることと性交されることは、現在も、またこれまでもずっと、女の生活の中でほぼ同じ意味の経験であった。つまり、彼はあなたを所有し、その彼があなたと性交するわけである(中略)性交されることと所有されることは、不可分の同一事であり、その同一事の二つが合体した時に、男性優位という社会制度の状況下での、女にとってのセックスが生じる。そのような性交において、男は、己の支配の地勢を表現する」。アンドレア・ドウォーキン,『インターコース;性的行為の政治学』,118-119頁,(訳)寺沢みづほ。

 さて、上記の引用部を読んだ後に、「可視的人脈の手帳」を読み直してみたり「mixi安全神話の崩壊」を読み直した際、少しでも問題関心や現状への違和を抱く人ならば、その眼前に顕在化するかもしれない、リビドーの御旗に導かれた醜悪なる<権力争い>をどう見据えるだろうか?


 「近代社会では、事情は明らかに異なっている。女性は、いまだかつてないほど頻繁に匿名性の高い公の場で生活し、働いており、男女を遮断してきた「分離し、かつ不平等な」隔壁は実質的に崩壊してしまった。男性の性暴力が性的支配の基盤をなしているというとらえかたは、以前よりも今日において大きな意味をもつのである。言いかえれば、今日、男性の性暴力の多くは、家父長制支配の連綿とした存続よりも、むしろ男性のいだく不安や無力感に起因しているのである。暴力は、女性の共犯関係の弱まりに対する破壊的反応なのだ」。アンソニー・ギデンズ,『親密性の変容;近代社会におけるセクシュアリティ、愛情もエロティシズム』,183頁,(訳)松岡精文・松川昭子。
 

 「性暴力」という言葉から、字義に振り回されて「ヴァイオレンス」なものや、サドを気取った男性と、マゾを気取り、コケット(娼態)や男性側が持つ神話的・幻想的なフェミニティを盲目に消費し続ける女の饗宴、陰惨なる性的暴力の現場を思い浮かべる方は多いだろう。しかし、その「性暴力」というものは、全てが陰惨でヴァイオレンスであるとは限らない。先に提示してきた事例の数々にも、多用さを持つ「性暴力」は存在するし、性暴力が異性間の――男から女に対ねる一方的なものであるとも限らない。むしろ同性間の「性暴力」――例えば性規範に対する無言の重圧や、コケットを用いた戦略が常々話題の中心になるなどといったもの――の方が、多大なる悪影響を及ぼす可能性があるとは思えないだろうか。
  1. 2006/10/10(火) 23:08:01|
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表層

 どうも近頃近頃、見るもの全てが「表層」――卑下の意を含まない客観的な意――に見え始めてきた。町に氾濫する「ニセ外人(ドナルド・リチーの『イメージ・ファクトリー』参照)ども」も、モノ語りの連中も。ギャル文字も、ルビ使い(例えば破片をカケラに読ませる)も、漢字の持つ表意性も。また、外人(但し白人種に限る)といえば目の色を変えて飛び付く<クソ島国のアジア人>も。「カワイイ!」以外の言葉を知らない連中も。肩書きや学歴、資格でしか自らを語ったり確認できない連中も。全部が全部、表層の白痴なる消費者にみえてならない。記号と戯れ続けることに対して、何の疑問を持たない幸せな<ヤツラ>とか言いかえても良いかもしれない。

 そのうえ、公爵殿も、「遥か東方のサディスト」と称された彼人も。更に、聖マゾッホ氏も性的差別者の鑑ともいうべき、クラフト・ヱヴィング閣下の著作はまだしも、その名も、その思想をも知らず、表層としてのサディズム――カニバルにも劣る攻撃性―― やマゾヒズム――こと、男性に対する従順や束縛こそが女性の本能であることに何の違和や懐疑を抱かずない乳穴の価値しか持たない、否、持とうとしない白痴者。もうひとつ付け加えるならば、妙齢に達するればその価値を著しく落とす<人的資本>――そして、先に述べたような思い上がりや誤読を短絡的な自分語りの要素に用い、それを公私混同的に用いる連中。彼・彼女らは表層、括弧つきの「イメージ」の消費者と定義すれば楽だよ。色々。精神的にも。だから日本は(以下略)。括弧をつける理由は前掲の『イメージ・ファクトリー』を参照。

 読みたいと思って図書館に無いとかいうヤツは自腹で買え。読みやすくタメになるから。我が家には、翻訳版貸してるから原著しかない(´・ω・)y-~

  1. 2006/10/05(木) 20:57:47|
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金禍玉条+1

 他の銀行で、他の銀行のカードを使うこと。例えば三井住友で三菱のカードを使えるということを、今日初めて知った。バイト先(渋谷)にて「渋谷はマックとかは大量に店を構えるくせに、コンビニって少ないよね。夜とかに金下ろす際、銀行ATM閉まった後はコンビニ行かなきゃならないから大変だよね」と話してた」。

 して、次のように返される。「JUNKさん! そーゆー時はUFJの24時間のヤツ」ですよ。俺はIt~to~構文のように返答した。「ソレに驚いた。コンビニやスタァ銀行位しか他銀行のカードが使えないと思ってたから」と。

 これで人生が一つ楽しくなった。そして学問や芸術――いわば特権階級的な、極めて表層的な生産行為には、常々パトロンが必要だし、資本を生む可能性の場を牛耳る権力者に見染められる必要がある。学費支払い+多少必要になる交際費を抜いたら、財政枯渇\(^O^)/

 ラウドパーク\(^O^)/イケネ。学校用事で15日しか行けなかったが、一日券も\(^O^)/カエネ。スラドミで満足したから\(^O^)/イイモン!(負け惜しみ)。Gastunk\(^O^)/ミニイクモン。

 当面は節制するために、家か鳥万オンリー飲みしようぜ! 部屋片付けたからヨ。そしてGastunkのLp数枚とDvdと復活ライブの音源が、今うちに配送されている最中な罠。

――以下、帰宅後の出来事。


 学費の振り込み期限を勘違いしてたwwwwwwwwwwww
振り込み期限は一昨日(2日)だってよwwwwwwwwwwwww
wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww('A`)。

 とりあえず、管財課に同情するなら11日(お上からの義援金が振り込まれる日)まで待ってくれ! というメールを送ろうとしたが、ホームページに総合担当のメールアドレスしかなかったために(時間的に電話しても<誰も電話に電話>状態だし)、総務課に直訴メールの本文部を転送してください(´;ω;`)ウッ。というメールをしておいた。

 お陰で明日の予習が全く手付かずだ。嗚呼、学に生きたいと切に願う人間が、金という生々しい現実――生活費などではなく、学門を学ぶための金――に圧迫されない国で生きたいと切に願う。学を駆使して金を稼げるくらいの地位につければ、そんな心配もないのだろうけどな('A`)。

 偏差値信仰に毒された白痴なクソどもが、「大学生って(人道的見地により、以下の文章を大幅に検閲)やがって! お前らなんかどうせ資(再検閲)!!!! 本の一冊(再々度検閲)!!!! お前ら、お前らの脳髄は、ああ? お猿の脳髄だヨ! 元ラ・ムーのボーカリスト菊池桃子さんを見習え! 俺はなぁ! 大学の頃! オーケンと同様に一人っきりで学食のカレーを食う日々だったんだよ! それをなんだ! おま・・おまぁ! この(どうでもいいけど検閲)」。とりあえず、13階段を登る気分で寝る。これで、「(^д^)m9退学しろよカス!」とか返事がきたら空へ跳ぼうと思うwwwwwww まさか日本の教育は、そういった金銭面に絡む部分で醜悪さを露呈したり、学ぶ熱意をたぎらせる学生の<あさましさ>を否定する程に腐ってはいないと思いたい。まぁ、万が一の時は、意地で講義に潜り続けて、無職の肩書きを付与されたまま、色々なアウトプットを叩きつけてやりたい、とか怨念の芽を萌やしてみるが。<大学生>とかいう、何かの価値にもならない肩書きは金で買えるが――それは即ち、金で維持されているともいえる――発達した脳髄や詭弁能力といったものは、大枚を叩いたところで白痴者には得ることのできないものだよな。それを得るためにボクぁ、日々頑張っているんじゃないか。ああ、そうだったね('A`)。

 まぁ、直訴するヤツが大学生を自称する、義務教育レベルの白痴野郎――大学が大衆化した現在、そういった<ヤツラ>の方がまっとうな、<近代日本的な大学生>であり、我々のような人種はキ印の烙印を押され、野蛮人(カニバル)と同様の烙印で、周縁化された他者として<ヤツラ>から非難・差別・卑下されるのだ。ちゃかぽこちゃかぽこ――なら、「(^д^)m9退学しろよカス!」とか腐った性根叩きつけてやっても構わないと思う。などと、経営面から見た大学運営におけるアキレス腱を刺激してみる。

 しかし、どう擁護しようとも、大学生の時は適当に大学生ぶって、社会人の時は適当に社会人ぶりやがる<ヤツラ>は所詮、大学にとっては金づる出し、講師陣にとっては、小生意気なお客様でしかないからな。<学生>と呼べるレベルではない。モチロン、<学生>は沢山いるが<お客様>も多いというのが、大学が大衆化したといわれて、かれこれもう3-40年位経過する今日的状況だ。まぁ、真面目な学生よりも、<お客様>の方が器用に生きれて、圧倒的に<賢い>とは思うがね。

 むしゃくしゃして書いた。今は反省している。。
  1. 2006/10/04(水) 01:52:05|
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プロフィール

JUNK

Author:JUNK
 いわゆるトコ、侍魂以降のテキスト系サイトとして惰性してから早4年(2005年当時)。日記部のみblogに移行しました。それまでの素性とか、堆積物は「サイト」の方を参照で。現在の方は「mixi」とか。

 飲んだ暮れ。夢想家。澁澤シンパとみせかけて種村派。専攻は一応、文化社会学とか言いたいんだけど、実際の専門的らしい専門はない(と思う)。

『家畜人ヤプー』、沼正三、女性のサディズムと父権制におけるマゾヒズム、少女のエロティシズム、アリスイメージの消費、ロリヰタファッション、ヘヴィメタル、サタニズム、オカルト、タロット、少女小説、テクスト論、表層的SM批判、ジェンダー論、クィアスタディーズ、なんかよくわかんないけど色々。

 文化批評系よろず同人誌「Kultur Trieb」主宰。執筆者、購読者募集中。HPとかはまだ作ってないので、詳しくはmixi内のコミュを参照。

「Kluture Trieb」(mixiコミュ)


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割と、お仕事関連とか、読んだ本とか、クダラナイ話とかもつぶやき中。

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