mixi研究――即ち、馴れ合い・共感を中心に据えたネットコミュニケーションの分析――の資料として戯れで買ったmixiのガイド的な本(書物の山のどこかに隠れているために書名失念)の中に、mixiでの最終目的はマイミクとオフラインで会うことという記述があった。きな臭いmixiセレブリティ(勿論皆さんはご存知だと思うが、セレブリティは有名性の意であり、成金という意ではない)だったか、イー・マーキュリー(現(株)mixi)
の社長の発言だったかまでは覚えていないが。
今日現在、自分のマイミク数を数えてみると115人。リアルであった人数を・・・と換算してみると、小中高~ついでに現在自分が収監されている<施設>における知り合いや、mixi以前からのネット仲間――その大部分は『侍魂』以降、一世を風靡したテキストサイトブーム時の人脈――が多いうえ、mixiのオフをきっかけとしてマイミクになった人も数多い。そのため、必然的にリアルで会った事のあるマイミクの数は高い比率を見せる。ざっと計算してみると下記のようになる。
・マイミク数:115名
・会ったことのある人々:71名
まぁ、そんなモンだろう。mixiを始めて以降知り合った人で換算してみると32人だって。まぁ、そんなモンだろう。こんな時間に非通知で電話とか鳴りやがるし。JUNKさん面倒くさがり屋さんだし、無意味な電話と鍵をかけ忘れたトランクほど嫌いなモノは無いんだ('A`)。
そしてもういっちょ、こと最近、澁澤の『狐のだんぶくろ』張りに私の陰鬱時代を語る機会が多く――なるほど、即ち年を
食ったということだな――興味深いバトンがあったのでやってみることにした。
Q1あなたは昔何系でしたか?
幼稚園→特にこれといって覚えてはいないのだが、両親の社会的地位が比較的高いという家庭環境の都合上、ガキの思い上がりなりに傲慢な様相はあったやもしれぬ。
小学校→とりあえず、これもまた覚えていないのだが、近所の悪ガキと付き合い始め、下っ端的な仕事も喜んでやようなお人好しし性格だったという話を聞いたような気もする。
中学生→ゲーヲタ真っ盛り。寝ても冷めてもゲームとゲーセンとゲームとゲーセンと、皆で家に集まって多人数対戦の日々。
高校生→初期は思春期絶頂。後期は『若きウェルテルの悩み』には程遠い、三文喜劇的な状況。あとは、酷くありがちな自己嫌悪と、ジーザス・クライスト張りな奇麗事の塊だったと思う。ああ、まだ純だったんだろうんな。知恵がなかった分。でもやっぱり、ゲーヲタ真っ盛り。
大学→二年までと三年からで大きく分かれる。二年までは、楽しい大学生活というものを夢みており、「一切の望みは捨てよ 汝ら われをくぐる者」という一説とは、全くもって対極のものを抱いて大学の門をくぐった。そして、大学構内で迷っていたら集合写真に映り損ねた。そう。それが正に地獄めぐりの始まりであった。大学で友達ができない、一人で学食にいることも、授業を受けることも怖い、さすれば我は「生きるべきか死ぬべきか」などと、何度自問自答したことか。センセイ! 俺、オフィーリアさんにはなれなかったよ!
大学後半→色々あり、酒におぼれ、やはり色々あり、友達ができないから学問しようぜ! というイデオローグの旗本、1日辺り2~3冊ペースで本を読み、やはり講義をサボりまくり、論考を繰り返し続けているうちに頭のネジが外れ、我、偽善や白痴を嫌悪し、知を求め続ける醜悪なる餓鬼と成り果てた。あ、あと学外でバンドを始めたのもこの時期。
現在→酒飲んで、本読んで、文章を書いて、酒飲んで、本読んで、異国の言葉を学び、酒飲んで、バンド活動して、酒飲んで、詭弁を振るってこの世の奇麗事を暴いて、酒飲んで、酒飲んで、本読んで、酒飲んで、猫見たり、犬見たり、猫見たり、酒飲んで・・・・・・うおおおお! 俺は坂上ジローだ! 俺をジローさんと呼ぶ必要は無いが、ロックといえば元ラ・ムーのボーカリスト、菊池桃子さんだ! という感じの日々を送る毎日。早く社会的な地位が欲しい! 多分、大学後半から今に至るまで。そして明日からも続く最近は、ずっと「煉獄」のような状況なのだと思う。
多分、「弱きもの、汝の名は白痴なり」とかいう一説を振り回しながら、金太郎飴みたいな脳髄を持つ連中を嫌悪し、金太郎飴的な状況から抜け出したいと願う者や、書物や思想を介した旅に参与することを切に願う者に対しては、喜んで導き手としての役割を引き受けようとする調子。そうか、朕は奇形のベアトリーチェであるのだな。
Q2あなたは昔何か習い事をしていましたか?
幼稚園→習字・歌・ピアノ・バイオリン。
小学校→ピアノ・バイオリン。
中学生→半年位フォークギター。
高校生→漢道。
大学生→修羅道。
現在→英語の速読・バイオリン(その内再開予定)
Q3今と昔、一番変わったなーと思うこと。
・飲酒量
・思想
・読書量
・嫌悪感を正直に表明するようになった
Q4今と昔で、変わらないなーと思うこと。
・熱心なる探究心とシャイボーイなソウル。
Q5昔からのトラウマ
・多分、そのトラウマが発露するような状況になったら思い出すんじゃないかと思う。
Q6昔なりたかったもの
幼稚園→かめはめ波を撃つ方の孫悟空。
小学校→プー太郎(死語)
中学生→同年代だった酒鬼薔薇クンのようになる以外なら何でも。
高校生→フツーのツマラナイ社会人or公務員。
大学生→フリーライター…後に大学教授へ方針転換。
今→文化的ディアスポラ・象牙の塔の住人・書斎&ライブハウス派ダンディ。
年をおうごとに、保守傾向からラディカルな傾向へと思想がシフトしていくのが手に取るように解る。これぞ<教育>の成果! あの金太郎飴のような偏差値教育の成果ではないことを、ことさらに強調しておく。
Q7昔の失態
あんなことや、こんなこともありました。ウフフフ('A`)、
Q8今と昔の異性のこのみは?
幼稚園→清楚系。
小学校→清楚系。
中学生→蒼髪でポニーテールで清楚系。
高校生→散漫だが、バカでなければ何でも。
大学生→忘れた('A`)。
今→好奇心の塊・オモシロイ人・向上心溢れる人・爪を隠す鷹・奢り高ぶることのない、かといって滅多に知の風呂敷を広げることのない賢者・我が知の師匠でもある「私にとってのアンドレブルトン先生」。
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2006/08/30(水) 01:27:37 |
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10月に行われる、巨大音楽市場を抱える日本も「やっとここまできたか」と思わせてくれるような、かといって実は利権臭が漂いまくり、懐疑臭さすら匂ってくるロックフェス、ラウドパーク(正直、このイベント名もどうかと思う節があるのだが)に・・・・色々な連中が来る。
突如来日決定したコルピがこないですか('A`)。
代わりDirですか('A`)。
でもLOUDNESSですか('∀`)。
ついでにUNITEDも来ますか('∀`)。
そしてムックですか(・∀・)。
あ、でも生ムックは・・・・・どうなのかしら(´・ω・`)。
それよりもいい加減に、KALMAHとMANOWARとGrave DiggerとTHERIONとTANKと辺りともう一度Amorphisを呼んでホスィ。Grave Digger&Therionという黄金のカップリングでのヘッドバンギングを欧州のメタラーに独占されるこの悲しさよ(´;ω;`)ウッ。
メタルフェスとしてのラウドパークに呼ぶべき日本のバンドは多くいる。しかし、音はヘヴィ、分類は一応V系。ファンの質量的には「ヨロシクナイ」層が多い2バンドをわざわざと、日本初の超巨大メタルフェス(含むヘヴィ系)であるラウドパークは、日本初=実験的な意味合いをも持っている。だからこそ、プロモーター側が二の足を踏み、情報が錯綜しつつ、主要な客層からは大バッシングが起こることを理解しつつも、一定の牌が確実に確保できる安牌を投入したこともうなづける。やっぱり、バンドの自腹で来日したRAGEは偉大だ。ファンとバンドとの信頼感がそこにはある。
とはいえ、自分は高校一年の頃、たまたま見かけたJELOUSの広告でDirを知り、同マキシのお陰でV系オヨビ、当時のインディーズは、世間的にもまだまだ未知の世界であった。現在のように「ジャンル名」として誤使用されたり、「インディーズデビュー」とか不可解な言葉が飛び交ったりすることは少なかった。インディーズ御三家の時代はもう過ぎていたしな、1997年当時は。
それもあり、(一見すると)脱V系した感の強いDirに違和を抱きつつ――4thはモロにSlipknotだったけど嫌いではない――初見たライブであった中野2Days「蝋蜥蜴と硝子蜂」の時に受けた衝撃や熱狂が蘇ることは無いし、何かこう・・・緬ヘルゴスロリという要素がVに流入し始めて、ファッションとしてのV系・出来合いの要素を繰り返し続けるV系が主流を占めるに至って以降、DirをひっくるめてV界隈全般に嫌悪感のようなモノを抱き始めたりもあり、Dirのラウドパーク参戦は心中非常に複雑なのであります。ムックは最近カラオケで歌われたことによる影響で心ときめき始めた――ほんのちよっぴり、極めてほんのちょっぴり犬神的な部分もあるし。でも、曲によっては、ずる賢いポップ臭を出す辺り、('A`)ぬっへは。となってしまうが。
ドイツにおける日本のV系人気については、いづれ日本と支持の熱い諸外国との比較(ファンへのインタビュー・音楽雑誌での語られ方・音楽商品の売り上げ・ライブの客層、そして<言語>等々)に関する研究をやる予定ではあるが・・・せめて、今のDirは爆音公園じゃなくて海外のへヴィ系フェスとかで見たかったヨ(´;ω;`)ウッ。
ボクの部屋には未だにJELOUS時代のポスターが張りっぱなしなんだ。(´・ω・`)すまない。しかも、LOUDNESSのLPがポスターの隣に飾ってある。その下にはZELDAのLPが飾ってあるんだ。
2006/08/28(月) 18:30:18 |
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制服の女子高生は書くも尚、高揚感を喚起させられる性的図像、もしくは記号であるだろうか?その疑問には制服を着た女子高生の姿に性的対象を感じ、欲情するように仕向る文化装置――意識・無意識に関わらず、我々が日頃接している言説やイメージ、図像その他の集合体――の影響下にあるという意見が考えられる。
一方、オーディエンス(この場合は性的対象として単的な視線を送る男の側)による、制服の女子高生という図像の多様な読みかえも考えられる。最早、「制服の女子高生に興奮する」と感情・観念論だけを述べれば済む<状況 >ではない。どのような社会的要素や言説、そして受けての享受態度が性と結び付いた制服姿の女子高生という表象を解釈するかを考えるべきだ。
女子高生の心理や苛立ちをこと細やかに拾うようなことは90年代に宮台センセが行ってきた。むしろ記号や図像として消費される制服の女子高生という性的文化が問題であり着目点である。
制服の意味を簡単に述べるなら、それは体制や権力への従順であり、個を埋没させる要請に対する服従でもある。また、澁澤龍彦は制服が表象する個の埋没にこそ制服のエロティシズムがあると述べる。
青少年、特に女子には<性>との関わりを遠く持つことが美徳とされ――少なくとも、今もなお建前の美徳が根強く残るからこそ、青少年の性に関するモラルパニックはセンセーションを呼ぶ。と同時に、それらに関する言説は利潤を産み出すネタにもなりうる。
なるほど、つまりは、権力者たちによって性から遠ざけられることを強いられた女子高生は清純であるというメッセージを有している。テレビ中継で甲子園の応援席が映った際に我々の目に飛込む女子高生は男子と同様に<過剰な程に>健全だ。
しかるに、受け手側の解釈の多様性を支持する立場としては、清純というメッセージを字面のまま解釈するオーディエンスよりも、多用な読み変えや誤読を起こすオーディエンスを想定する。そして、その多様性の一つとして制服と性的要素が強固に結びついた女子高生像が現れる。制服に重点をおくポルノグラフは誤読や読み変えに依存するスキマ産業であるともいえる。そしてスキマ産業だからこそエロチカにはなりえない、などとも考える。例えば、良い子の諸君は電車の中吊り広告で進学塾、あの偏差値産業を支える劣兵の広告を目にする機会が頻繁にあると思う。その広告の多くには、社会的に望ましいとされる女子高生像が記されていることもご存じだろう。さて、その望ましい女子高生像を、良い子の諸君ならばどのように読み解くか? ということだ。
2006/08/24(木) 00:36:44 |
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どうも今までの経験上からか、自称オヨビ聞いてもないのに不幸自慢をしたがるメンヘラー(もどき)には常々懐疑的なものを持っている。多分、以前から大学時代の、かなり精神的に参ってた時期があった――友達がいることが当たり前とか、皆に嫌われたくないとか、色んな人を助けたい・力になってあげたいとか、そういった偽善に満ちたイデオロギーに幻想を抱いていた部分はかなりある――ことは書いてきたと思う。
その、精神的に参っていた頃と、現在の・・・・形容することばが見つからないのだが、現在的状況に対する自らの詭弁やスキルを運良く構築できた状況への過渡期に、<もどき>という程のにわかでもなく、ダウナー系のメンヘルちゃんに言われた一言がある。「JUNKさんて結構躁鬱のきらいがあると思うよ?」と。目からウロコが落ちたと思った。小泉的に感動した。
何かこうね、過渡期の頃の心中にモヤモヤして、くすぶっていた「名状し難いもの」に名前が与えられた瞬間、その名状しがたいヤツが「ユリーカ! (Eureka)」とか叫びながら、諸手を上げ始めた気もした。以後、状況を構築しながら「JUNKさんてほら、結構神経症のきらいがあるからさ(・ ∀・)ハハハ!」という感じで状況を構築し続ける。
XのTAIJIは自伝の中で「センスとは心に受けた傷である」といった一説を書いていたが、神経症を装うJUNKさん的には、それは素晴らしく的を得た意見であると思う。極論をいうなれば、<幸せ>とかいう、あの奇妙なゴールに無批判であり続ける限り。もしくは現状に満足し続ける限り、<何か>――その何かは万人の心を打つものでないかもしれないが、後世に残る可能性がありうるもの――を生み出すことは難しいんだなとか思う。「ワラッテル ミテロヨ キノセイサ ワラエヨ」(from「蜘蛛の糸」/筋肉少女帯)の世界ですよ、ホント。
オーケンのエッセーに、名状し難いシンパシーを抱きまくって、オーケンに憧れまくった余りに卒論で平成バンドブームを扱ったり、友達ができなかった大学の学食で。昼のピーク時が過ぎて、人が居なくなった学食で、モフモフとまではいかないけど、毎日カレーを食べていたあの日々を思い返すと! 単身で、友達いっぱいだからこそ、ええかっこしいな学生が溢れる学食で、一人で堂々と飯を食べれるようになった今の自分が大好きだとか言い切れるのです。多分、当分神経症的な部分から抜け出すことはないんだろうけど('A`)。
2006/08/23(水) 01:21:38 |
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地元で飲んだくれ後、外で晩御飯。多分0時前後。皆の衆(典型的な都市型核家族につき、親二人・子一人)が身勝手に生活する我が家族の慣例である。しかし、クソったれな幻想や伝統的な性役割分業こそが真理であると縛られた右翼どもに言わせれば<崩壊家庭>である。実家のクセに、一度も家族と顔を合わせないで一日を終えることもしばしばある点などが。
とりあえず、世間的な道徳とか常識といったものからすれば崩壊というレッテルを貼られるうち家族の、唯一的な団欒の場である晩御飯を敢行してきた。下手な仮面家族よりは、よっぽど団欒が進んでいると思う。子供自身が、両親が個別に起こしている事業に首を突っ込んでいる(参加させられている)とていう面からも、両親が何をしている・してきているのかという点を、0歳の頃から見せられてきた身でもあるし。
それでもなお、我が家族が崩壊しているという夢想者には、貴様が思い描く家族像こそが、偽善と欺瞞、そして家族同士の真撃なる対話を行うことを怠慢としている<仮面家族>であると罵倒してやろう。貴様の家族に、子供と母親と父親が<家業>や政治経済、そして、昨今故意に強調され続けている感もある少年犯罪について、三者三様の意見をぶけられるのか? などとと問いてやろう。
その問いにイエスと答えられず、尚も我が家庭が崩壊しているというのなら、貴様は憂いを持つ愛国者か優秀な偽善者にすぎない。我が家庭の団欒や飯は普段から日付を跨ぐことが多い。特に、教育機関を経営するマミィの事業は、時期によって深夜まで設営準備(マミィと俺)であることもしばしば。そのために、晩御飯という名の団欒が午前二時とかになることも多い。会場は、いつもお世話になっている地元の庄○。去年の大晦日も今年の三が日も開いていたので、そこで飯を食っていた気がするな。うちの家庭は両親が多忙&ほとんど家にいないので、誰も飯を作らないから飯の場が外に向かうのだ(それでも食材や料理の健康面は重視している)。ていうか、基本毎日通っている気もする罠。
とりあえず、ボクは飲んだくれだから、教育現場の指揮官である――それも、ワタスを懐妊しながらも最前線で戦いつつ、出産後もハイハイをしないうちに籠に放り込み、教育現場の最前線に連れて行きまくったマミィと語りまくったよ。特に教育現場における保護者側の意見――その多くは、教育組織内でどの位置にある先生と親しいか、もしくはどのような派閥に属するかで保護者の意見は大きく異なってくるという点を留意しながら、保護者の意見というものを如何に読み解くかとか云々した。つまるところはリテラシーですよ。
教育ですら、やはりビジネス的な要素は拭えないのです。教育の領域こそは、絶対的な聖域とか思ってる輩は、ろくな(私立学校の)教育者にはならないなどと、教育に対する<お布施>で食わせて頂く人間は思う。うちの大黒柱はマミィだしな('A`)。少し下世話なことを申せば、教育の経済的面を無視しながら、教育が如何に神聖であり、素晴らしいものかを云々する輩は、ハッキリ言って教育の「教」の字しか理解していない輩と言って良い。
教育によって立ち表れる資本でその日その日の飯を食っている――むしろ食わせて頂いている俺はそう断言してやる。金を必要としない教育のある場所があるなら、それこそ架空で理想の社会主義国や、一般的には理想郷と信じられているが。面の皮を剥がせば時間と身分と役割に締め付けられたデストピアであるユートピア位だ。
まがりなりにも、教育者を<偽善的>に目指すクソったれなお前らは、少しでも金銭面の問題を意識したことがあるか? 教育には常々支出がつきまとうことを。そして、お前らがクソみたいな、単なる上っ面だけの四大卒・短大卒・高卒という肩書きを得るまでに、幾らの金が親から投資されてきたかということを考えたことがあるか? 教鞭を振るい、教育職に従事するということは、そういった<醜い部分>を同時に引き受け、対峙すべきことでもある。教育の現場においてなら、あの白呆めいた観念論や精神論や、教育論・カリキュラム論といった考え方は重要である。しかし、それと同じくらいに経済・資本面を見聞きし、考えていくことが重要だ。教育は一方で経営の面を背負っている。だからこそ、小型の教育六法のひとつでも書棚に入れておくべきだろう。教育者面を目指すなら。
教育者という、社会的に認められた高い地位に鎮座する・・・むしろ、させて頂いているお前さん方は、親御さん方の、<教育>とかいう、あの幻想的な概念に対するお布施を、醜い程に実感し、それを感じながら教鞭を振るえているのか? と小一時間問い詰めたい。そういった<お布施>を教職員のミナサマに分配し、その残りカスを収入として。そして、その一部を生活費として、飯を食わせて頂いている身としては。
少なくとも、そのお布施に見合った教育を、他の教育機関とは異なった希少性のある教育をマミィのメソッドでは施し、実践し、社会に送り出している。顕在的な結果を叩き出しているからこそ、マミィの現場における状況を批評しまくり、資本を生み出す教育という活動に片足突っ込み気味に関わっているのです、ワタクシは。両親の事業が良くも悪くも顕在的で、そして家庭内の人員を労働に徴兵しまくる過程に生まれたことを不幸に思う一方で、やはり幸運に、そして楽しく思っているんだろうね。飲んだくれは。
2006/08/21(月) 01:05:21 |
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浴衣、独逸語風に言い換えると「des japanische Sommerkleid(和製夏服)」。暦の上では、もうぼちぼちと夏\(^o^)/オワタとなるはずなんだが・・・一向に涼しくならぬ。むしろ、お盆以前よりも暑くなってきている気もする。
しかし、一応ながら夏は\(^o^)/オワタとなるわけで、髑髏浴衣とももうすぐお別れです(´;ω;`)。清春的に言えば「今日は・・新宿と・・お別れです」(From 「LIVE at 新宿ロフト」)。BAKI(GASTUNK)的に言えば「ジェロニモモモー! さよなら・・・さよなら!」(From 「THE END」)というわけで、もうすぐお別れだが、「サヨウナラサヨウナラこんなに遠い異国の地でお別れするなんて」的なお別れを言う前に着る機会があるかどうかもワカラン。作るべか? 機会。
さて、面白さや差異を演出する骸骨柄の浴衣だが、やはり珍しいやうで、遂先日のこと。買い物の付き添いで(諸事情により髑髏浴衣着用)で何人かと色んな石鹸を扱う店に行ったところ、「珍しい柄ですねー」と店員さんの興味を引く。
それよりだね、むしろね、「あ! お客さんGASTUNK好きなんですか!?」とか、髑髏浴衣を着ている時に言われたいよね。というか、どう考えても言うよね。浴衣の柄にある骸骨が「DEAD SONG」のジャケットを彷彿させまくって「ジュン」っときちゃうじゃないか。こんな深夜に、華の金曜日だったのに、論文を放り投げて GASTUNKのDVDをビンビンしながら見まくりですよ('A`)。それより今夜も蒸し暑い('A`)。
2006/08/19(土) 02:06:20 |
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とりあえず、靖国問題を巡る左派・右派、ついでに中韓を巻き込んだ毎年恒例のイタチごっこは、文化的左翼というレッテルを貼られるJUNKさん的にはどうでも良い。敬虔なる国民のミナサマが選びやがった小泉自身は右派の思想を持っている。そのため、参拝は小泉は自身の思想を体言した<だけ>ではないか。倫理性や、永遠の痛み分けである戦後問題といった、結論が出ることのない問題を考えなければ――むしろ、そんな面倒で結論がでない問題ばかりを、無駄な労力を使って考えるから永遠とイタチごっこが続くのだ。
それらの問題は、参拝とはまた別の文脈で考えるべきものである。また、参拝は国民に選ばれた一右翼者による<ただの参拝行為>として切り離した方が下らない感情論にならなくて済む。<ただの参拝行為>よりも、ペテン師の最期よりも、家に帰ってサザエさんを見る方が、重要な問題として考えるべきだろう。むしろ、中韓の参拝に対する遺憾表明は最早恒例行事もしくは、お約束の<ツッコミ>でもある。そして、お約束と解りつつも、それで何かが変わるわけがないと知りつつも、それぞれの国内の世論に対するポーズのために。示威のために、遺憾を表明せざるを得ない。そんなもんだ。
非常に不謹慎で極論をいうと、8月15日というのは最早一大イベント――右も左も思う存分に思想を戦わせることができる<祭り>として消費されている感が強い。特に靖国神社で行われる騒動、これは靖国ウォッチングをしてきた友人の証言によるものだが、昨年の中国における反日デモと同様、現場における規模はさしたるものではない。しかしながら、テレビにおける報道は、その騒ぎの規模が、さも大きいかのように我々に報道する。
大規模な靖国騒動や反日デモというのはテレビの中で編成され、誇張された「超現実(ハイパーリアル)」であり、現場の実情を知らないものにとっては、テレビの中に投影される超現実こそが、現実そのものにとってかわる。我々は遠方にいながらも、テレビ中継を通して、遠方で何が起こっているかをリアルタイムに知ることができる。しかし、その中継の多くは編成や歪曲を伴うものであるということを。特に、生中継ではないものに関しては、編成・歪曲されたものであるということを忘れてはならない。
先にも述べたようにも靖国参拝は一つの祭り――有名ないじめ事件である「葬式ごっこ事件」における裁判官の言葉を借りれば、靖国参拝を巡る騒動は「一つのエピソード」である。今年の参拝においても、最早化石ともいうべきヘルメット軍団が小泉首相の参拝阻止を掲げて靖国神社に乱入し、一般人との一悶着を起こした。友人の証言によれば、そのような小競り合いは毎年起こっているもので、中曽根総理以降21年ぶりに首相が8月15日参拝を行った今年に限ったものではない。
そういった話を聴くとやはり、8月15日という特別な意味合いを含んだ日が、左派にとっても右派にとっても、一つの<祭り>――互いの思想に関する是非を巡ることが目的ではない。<騒ぎ合う>ことが最重要な命題である――として機能してきているように思える。そして、そのような機能が付与される至った背景はマス・メディアによる過剰報道の影響を否定することはできない。ブーアスチンの『幻影の時代』に描かれたデモに関する事例に似たような状況が、靖国を巡る論争や報道と被ってきているように見える。つまり、靖国問題も最早、消費財や記号といったものに還元され始めているのだ。
ボードリヤールに感化されすぎだから、そんな考えに至るんだな。とか色々と思うんだけど、己の思想体系や構造のフィルターを通して靖国問題を観察してみると、そのような分析ばかりが表出する。
2006/08/16(水) 00:57:56 |
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東京レズビアン&ゲイパレード2006於渋谷に行ってきた。いわゆるフィールドワークではないけども、パレードを見ながら、何か色々と考えた。 500円で350mlのスーパードライが出てくる、お祭り特有の高いビールを片手に。ゲイ・レズといったセクシャル・マイノリティ(性的少数者)は世界的にも認知されており、日本のパレードに限らずに様々な形で声や存在を主張する機会を持っている。ただ、その機会を持つまでに至った<現在においては >という話だが。
性同一性障害(GID)や半陰陽(TS)も、社会からの認知や理解が順調に高まりを見せていけば、いづれは今回のパレードのように声や存在を主張する機会が得られるだろう。しかし、インドの「サバルタン」はどうだろう。スピヴァクの『サバルタンは語ることができるか』ではないが、先に述べてきた性的少数者よりも、社会からの認知や教育機会が<恵まれない>彼女たちは、声を張り上げ、語ることができる日がくるのだろうか? とか、そういったことを考えると切がなく、発言機会を持つ彼・彼女らよりも、それらを持たない立場にいる人々不憫で<かわいそう>だから我々が手を差しのべ、声を代弁すべきだというような議論には度々、懐疑的なものを感じえない。
懐疑的なものについては、鄭暎惠の『民が代<斉唱>』に、在日朝鮮・韓国人に対する支援を、自己に対する映し鏡として利用する日本人として指摘する部分があるので、そこを参照されたし。自分が感じている懐疑心は、鄭氏と概ね似通っているので。
とりあえず、センセイに直訴メールを出したら「でき次第研究室のポストに入れといてください」と観音的なメールがきたので、真昼間からガンガン飲んだ深酒と、パレードを追いかけた――影男を屠ることはできなかったけれど――疲れによって、今日は早く寝ようとか思う。でも、また<泡の出る麦茶>の缶が開いている不思議。
2006/08/13(日) 16:46:08 |
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「最近インターネットで流行っている小説を見てもはっきりわかるだろう。「ドンインニョ(同人女)」というものであるが、それはもともと「同人誌」のように自分のお金で漫画の本を作るものである。ほとんどアマチュアが中心になっている。しかし、この「同人誌」に男性同士の同性愛を扱った日本の「ヤオイ」物の影響で、そのような傾向の漫画がたくさん作られるので、いつのまにか「ドンインニョ」が同性愛を主に扱っている集団に見られるようになった。しかし、実際に同性愛とは関係ない漫画を作る女性も多いのである。韓国では日本の「ヤオイ」が好きな女性を「ヤオニョ(ヤオ女)」と呼んでいる。しかし、ヤオニョの場合は日本のポピュラー文化を消費するだけで満足しているのに対し、「ドンインニョ」は新しいポピュラー文化を創り出す創作者である、とう違いがあると思われる。
―張竜傑,2005,「イデオロギーと脱イデオロギーの狭間から: 韓国青少年が夢中になる日本のポピュラー文化」(192-193頁),『越境するポピュラー文化と<想像のアジア>』。
韓国の留学生と色々話しをして思ったのが、日韓は両方とも「政治は腐ってる」。双方とも役人の首を挿げ替えることが望ましいという結論に至った。その一方で、韓国はサムスンLG電子などでの電子工業や各種映画(日式韓流がバカみたいに騒がれる以前から良質に映画を量産していた)で積極的な海外進出を果たしている。日本人からみた近代韓国の代表的な文化というと、前述したように電子技術や<映画>――ドラマではなく映画なのだ――なのだ。どんな題材も無理やり「世界の中心は二人」的なビルドゥング・ロマンスに落とし込んでしまう日本映画は、とてもではないが韓国映画に太刀打ちができるシロモノではない。極論をいえば、朝鮮戦争を題材にした映画――『黒水仙』など――のようなものを、今の日本映画が取ったとすれば、群集たちの歴史は「世界の中心は二人」的な悲劇に置き換えられ、カラオケやヒットチャート、そして歌番組と連動した<主題歌>という音楽商品が組み込まれた消費財と成り下がるだろう。
そんなことを考えながら、「日本文化」として海外競争力を得られるものは何かということを考えていくと、やはり「マンガ」と「アニメ」にたどり着く。それから、「キャラクター」を筆頭とした、カワイイ帝国の武士(もののふ)たち――唯一、ミッキーと互角に渡り合える兵のはキティちゃん位しかいない――しかないという結論に至った。
21世紀は文化の時代、いわばソフトの時代と言われている。周囲(特に欧米による賞賛)が騒ぐまで、当人たちが自文化の一部が世界的な評価を受けているという自負を持つことは少なかった。しかし、こうなった以上、文化的なヘゲモン(覇権性)を自覚し、クソ・マスゴミが垂れ流すような「メイド喫茶」や「萌え産業」のイメージを是正し、正しいイメージを海外諸国に発信すべき・・・・・・とか何とか書いてたら、また文化的左翼とかいうレッテルを貼られるからやめておくお(´・ω・`)。とりあえず、明日提出の課題論文の方は、仕上がりそうにないので先生に直訴メールを送って数日伸ばしてもらうことで決着がつきそうです。かゆ、うま。
2006/08/12(土) 00:15:13 |
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安西先生! もう、ノルウェイジャン・ブラックメタルのオーディンである「メイヘム」とか、グローバリゼーション・アメリカナイぜーション、の俗称でもある「文化帝国主義」とか。「はっぴいえんど」とか「音楽市場」とか「グローバル」とか。ついでに「ボークモール(主として書き言葉である一般的なノルウェー語)」とか「音楽評論家の伊藤正則」とかいう単語が飛び交いまくる文章を書き綴るのに飽きてきました('A`)。
しかし、「エルヴィスもロックンロールも、アメリカと同じように遠かった。地理的な意味だけでなく精神的な意味でもビートルズの方が近かった」 (トロイツキー,1991,49頁)とあるように、活動制約のある・なしということ点が、価値対立を引き起した主だった原因ではないことが考えられる。日本ではロシア以上に、地理的にも遠く、音楽的に進んでいる欧米諸国に憧れていた――だからこそ、日本語ロック論争で「土着意識」と「外交意識」という意見が顕在化し、英語を使うこと・英語を拒否することが強く対立したのかもしれない。
※アルテーミー・トロイツキー,1991,訳:菅野彰子,『ゴルバチョフはロックが好き?――ロシアのロック』,晶文社
とか、真面目な顔して書いてるくせに、そろそろ3本目の缶に手が伸びると。今日は珍しく真面目に働いてますよ。金にも肩書きにもならないクソ論文を(・∀・)ハハハ! とりあえず、前掲書は胸が熱くなる思いを幾度もさせられた名著だ。ちょっとでも「ロック魂」とか抜かす輩は読んでおけ。
何? 新品で買いたくない? 安く買いたい? てもブック・オフで見つかりそうもない? そんなヤツは「日本の古本屋」でも使って検索したまへ! でも『音楽生活』は採っていてね。今後の資料としてバックナンバーを蒐集しなきゃいけないから(´・ω・`)。とりあえず、気分転換にひとっ風呂逝ってくるよ(´・ω・`)誰か背中流してくんろ。
・日本の古本屋
http://www.kosho.or.jp/
2006/08/10(木) 20:21:48 |
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台風は結局たいしたこともなく行ってしまわれ、「恋はハリケーン」――うちの新Voが書き溜めていた歌詞にあった、時代錯誤的なワンフレーズで、相当のお気に入り――状態である。明日はまた暑いとかで、これは課題論文の提出を遅らせようと画策する闇の秘密結社の陰謀なのであります。だから、いっつもフリーメーソンのせいにしちゃだめだよ。陰謀史観にロマンと夢があるのはわかるけど、フリーメーソンが(´;ω;`)かわいそうです。
して、日中は定食屋で飯→ゲーセン(先週位からQMA始めました。エルフ組に昇格直後ホビットに落第。アニメ・ゲームと雑学はやたらと正答率高いです、はい)→ド○ールで3時間弱読書――この文脈で言う読書は本を「使う」ということであり、線引きまくりーの、文中で引用とかが示されたら欄外頁に容赦なく文献名と発刊年を書き込みまくりーの――をする。スイッチが入った時の集中力だけは中々なんだ。手前味噌だけど。しかしながら、図書館で借りる本では、そういった本を使うという行為ができないっつうのがツライんですよ(´・ω・`)。
で、いいかげん夜も更けた。で、メイドさん、夜伽はまだかね? と、メイドが今のような「キモチワルイ」ブームではなく、もっと健全で、ひっそりとした・・・パソコン(9801)といえばエロゲー専用機だった時代の常套句(クリシェ)を使ってみるが、とりあえず斗わなきゃ。現実(眼前にある論文)と。と・・・いうはずが、ひたすらZELDAの動画を見続けているボクです。ホント、こんなバンド、今の日本の音楽シーンじゃ出現を期待できないよな (´;ω;`)ウッ。とりあえず、ZELDAの映像でも張っておきますね。
http://www.youtube.com/watch?v=bWq0J5s14kE
2006/08/10(木) 00:55:25 |
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我々は『明日のジョー』ではない。我々は『ライ麦畑でつかまえて』である。我々をスキーに連れて行け。我々が水着に着替える様子を想像してみるが良い。それとも、「世界の中心でスキーに連れてって」か。いや、「彼女が世界の中心で水着に着替えたら」でも構いやしないだろう。時代は変わったのだ。
レジャー熱も、平成バンドブームも、アッシーも、ミツグも、『バック・トゥ・ザ・フューチャー2』におけるビフのような日本人も、『素晴らしき哉、人生』のような奇麗事も、全ては過ぎ去った。あることといえば、一見すれば道徳に満ち溢れたようであるが、その裏を見ると、世界の中心で愛を叫んでいる<ような>喜劇役者たちが操り人形としてキャスティングされた、醜い商業主義やJ-pop複合産業体による人形劇である。
日本は既に、世界第二位の音楽市場を持つに至ってしまったのだ。人形劇の観客と演者。そのどちらかはきっとミスキャストなんだ。ほんとだよ。どちらかの連中――一ヶ月単位、早ければ一週間単位で主流が変わるユーミンの模造品をイコンとして崇拝する連中。そいつらの聖書は未だに『金魂巻』に決まっている。居るワケもない神様に誓っても良い。
最早戦後ではない。最早、『彼女が水着に着替えたら』の時代でもない。『ジャパン・アズ・ナンバー・ワン』というスローガンも、既に威光を失った。残ったのはケツに火が付いたネオ・リベラリズムと、『孤独な群集』あるいは『自由からの逃走』をポケットの中に忍ばせた――『ライ麦畑でつかまえて』をポケットに潜ませる時代は、とうの昔に過ぎ去った――分衆の群れ。加えて、モードの亡霊程度しかいない。ほんとだよ。
2006/08/07(月) 20:47:19 |
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江戸川花火大会行った。浴衣、今夏三回目。流石に着慣れてきた。そうなると、差異を持つ浴衣――悪趣味な柄とかが欲しくなる。モードではないんだな。僅かな差異のある商品を所有したくなる欲求。
明日はやっと休肝日になりそうです。前日は明け方帰還、翌日は花火で飲んだくれてきた千鳥足で、浴衣を着ながら電車内。サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』を、座った目や傾いた首。ふらつく足などを抱えながら熟読。
如何に泥酔しようとも、数年に渡って培われた生活習慣病――読書とか、書物を介する旅とかいう――の呪縛から逃れることはできないということだな。
ヒト科が永遠として、解剖学的分類による性的な身体パーツへのフェティッシュや、イメージの王国から逃げられないことと同様に、我が生活習慣病から逃れることができないのだ('A`)。呪縛の積み重ねは、時として賢者を産み出す。
2006/08/07(月) 00:54:56 |
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以下の一文は、昨夜(2006年8月2日)から3日の明け方にかけて綴られた分を縫合したものである。時間と酒の進行と共に、刻一刻と「何か」に蝕まれていく、神経症気味の人間が発露した「何か」の変遷を読み解いて頂きたい。なお、時事系列を整理するため、書きなぐられた文章群には、それぞれの文章が書かれた時間――文章がmixiにアップロードされた時間――を付記しておく。
◆2006年8月2日23時55分 深酒の脳髄で、Rammsteinの"Links 2-3-4"を聞き、高揚の余り、小田急の玉川学園前(鶴川側)のホームで、一人ビールかけやったのは私です。しかも普段使わない駅だから帰りの方向が反対だった。反対逝った電車が終電ギリギリでなくて良かったと心底思う。
◆2006年8月3日1時30分 町田のネカフェにいるただいまの俺。電車をなくした。不慣れな玉川学園前駅から電車乗ったら逆方面で、そのおかげで横浜線の終電を逃す。とりあえず、酒でもないとやってられないと思う。玉川学園住で、夏休みは東北に帰る学友のトコロでガツガツ飲んできたらこのざまだ。不慣れはコワイネ。
ipod nanoは電池が切れた。ネカフェのゲームコーナーに「太鼓の達人8」があったから、「紅」と「IDOL M@STER」をやりまくってやった。そして今の個室に至る。CDウォークマンの中にはZELDAのライブ盤「DANCING DAYS」しかなかったか、それを聞きながら朝までネットサーフィンしてやる。
鞄の中にある本といえば、メタルに関する洋書が二冊と、今日の昼に買って、地元から玉川学園まで移動する内に猛烈な勢いで読破してしまった門倉貴史の『「夜のオンナ」はいくら稼ぐか?』位しかない。しかし、件の書は一件すれば読みやすいが、統計資料や細かい指摘――特に、主婦層が昨今のクラシックブームを支えているなど――は非常に興味深くて、激しく良書。題名と裏腹に全く持って、非マクドナルド的な内容というあたり、とても熱い。
かくして、移民労働者を受け入れるということを避けられない局面にある割に、性規範や性言説に酷い矛盾を孕みながら、それを放置し続けるこの島国は、どう対応するのだろうか。確実な増加を辿るであろう、移民や外国人に関する性産業――男女を問わず、移民労働者たちは性産業の従事者となりえ、男の多くは性産業の消費者となりうる――における需要と供給に対してを。
性産業について、傲慢なる視点のみを持つ輩にとっては件の本はごくありふれた、単なる消費財としかなりえないだろうが。ああ、ギデンズの『親密性の変容』をとっとと読まなきゃと思いながら、ZELDAに匹敵するガールズバンドを排出できない日本の(国内向けメジャーの)音楽シーンはなんてコケティッシュなんだろうとか思う。俺。飲んだくれ。神様見てるよ。あーユーラッキー?
で、ネカフェのPCはDVD再生環境があって、鞄の中には友人宅で見ていたJackassのDVDがVol1-3+劇場版の計4枚。そして、ワイルドボーイズのVol2があるわけだが・・・。これは何だ? アレか? 「神様見てるよ! ひろゆきちゃん、神様見てるよ!」とかいう類の啓示か? それとも神託なのか?
◆2006年8月3日6時12分 最高にくそったれな朝が来ましたよ。フ○ッキン! 今日は何曜日だ? とりあえず意識が戻りがてら、残ってた酒を流し込む清々しき朝よ! ファッ○ン! ほんと、平日の明け方は地獄だぜ、ファハハー。とりあえず、今日の正午位まで、俺の名は「ジョニー・ザ・ヴァイパー」だ。夢の中で啓示が下った。神様見てるよ! 神様。
とりあえず、意識の糸を手繰ってみるとだな、3時過ぎからJackassのVol1を見始め・・・どのあたりだっけな、「パパとお出かけ1」や「早朝へヴィ・メタル」のあたりまでは記憶がある。その内に、いつのまにやら完全に逝ってしまって、タイトルメニューが延々に流れ続けていた。1時間でも 2時間でも寝ると、随分と清々しいモノですね。世間はいそいそとおき始めているのに、ネカフェで怠惰ヲ享受するボクです。
諸君、グーテンモーゲン。イッヒ トリンケ ビーア。とりあえず帰ったら寝る。起きたら書を抱えて街へ出ちゃったりして、真面目に翻訳とかやっちゃうよ。ああ、そういえば昨夜飲んでた知人宅にゃあ、青森の寺山記念館で買ったらしい寺山作品の映画チラシを並べたポスターが張ってあったり、本棚に映画版の『書を捨てよ 街へ出よう』がVHSで置いてあったりしたな。酒瓶の山と共に。
2006/08/03(木) 18:51:12 |
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が届く。副題は「The Improbable History of DEATH METAL & GRINDCORE」。デスメタルとグラインドコアの奇妙な歴史、といった意の副題。「パンクはろくでもない屍人の群れだ〔Punk is a Rotting Corpse〕」とかいう、超ノーフューチャーなトピックで幕を上げるステキ本。件のタイトルで苛立つヤツはファッションパンクだ。
写真沢山で、しっかりている(と思う)論考――だって、帰宅したら届いていた上に、洋書は読書スピードが猛烈に遅いため――が散りばめられた本。ああ、本当に毎度書いているのだが、つくづく思う。何で日本の音楽ジャーナリズムは英米のそれに比べて何と拙いのだろうかと! 日本は米国に次ぐ、世界第二位の音楽市場を持っている。ただし、国内音楽の0.5%のみが輸出に回され、99.5%は国内で消費される超輸入市場であるが。
※データは日本レコード協会の資料や、『J-popとは何か』に基づくもの。
世界二位の市場を持つのだから、当然の如く、へヴィ・メタルに対しても世界有数の市場を抱える大国となりうる。市場が大きいだけでなく、つまはじき者というか、根底に嫉みにも似た反大衆精神を抱える日本のメタルファンの耳は、流行に敏感な米国のそれ――マスレベルの話だが――に比べて肥えているということは事実である。しかし、ジャーナリズムのレベル、それは論壇であり、アカデミックなレベルであり、細分化されたファンカルチャーレベルで比べるならば、拙い領域を出ることは、まだ数年。下手をすれば数十年はありえないだろうなとか、今日届いた件の本を流し読みしてみても、痛烈に思わされる。
単純に言語の問題ってのもあるんだろうけどね。英語を使って、世界に主張や意見を発信しなくても、自国内の市場向けて商品を循環させるだけで十分な利益を得られる市場のみに満足感を感じ、海外進出という野望を。時としてリスクとなりうる野望や冒険心を、ファンもジャーナリズムの側も、自分の見ている範囲では積極的に持とうとしない点も問題といえば問題だ。市場的にメタル大国(と、マネジメントやB!誌やバンドのインタビュー)で言われたからと有頂天になり、その点にあぐらを書いていては、日本の音楽ジャーナリズムはメタルに限らず、ドメスティックに陥らない発展を望むことは難しいだろう。とか杞憂してみる。飲んだくれが。
少しでもパンクが好きとか思うのなら。本当にパンクが好きでNA○Aとかファッションパンクが嫌いで、シド・ヴィシャスよりもヴィヴィアンよりもマルコムが好きで、ピストルズりもクラッシュとかが好きとかいうなら、ディック・へヴディッジの『サブカルチャー スタイルの意味するもの』を読め。いいから読め。2000円以上の活字本なんか買う気がしないとかいうやつは、ヲレが線を引きまくって、書き込みをしまくったヤツを貸してやるから良いから読め。と小一時間問い詰めたい。
2006/08/02(水) 01:11:53 |
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