※番号は管理上のものなので、今のところ文章全体の通し番号ではない。なお、テキストの時事系列についてはある程度の内容にまとまったところで再編集し、まとめなおす予定である。
◆侍に憧れたボクラがドブネズミのように輝いていた時代 1988年頃から90年頃にかけて、日本中は「バンド」という一つのカルチャーに沸いていた。いわゆる「平成バンドブーム」である。2006年現在、バンド活動はわざわざ「ブーム」と名付ける程特異なものでもなく、極有り触れた、それこそ道徳基準を酷い程に満たす小学生の課外活動の一環ですらある。平成バンドブームについては、「イカ天」や『宝島』などメディアの影響や、企業側が資本を生み出すと判断した「インディーズ」への注目やバブル景気など様々な要因が複合的に合わさって発生したブームである。しかし、ブームである以上、モード同様にその寿命は短い。
3・4年という短い期間の内に終わってしまったこの一過性のブームは様々なモノを生み出した。ブームの直前を象徴するバンドとしては「BOφWY」が挙げられるが、ブームの真っ只中を象徴するバンドとしては「X」「筋肉少女帯」「JS(W)」、そして「ブルーハーツ」が挙げられる。特に、ブルーハーツはシンボルやオピニオンリーダー、そしてカリスマとしての機能を多いに果たし、ブームに踊りバンドを組んだ若者達にとっては最もポピュラーな模倣対象であった。ブルーハーツが模倣対象として大きな人気を獲得した理由についてもあまり詳しく述べないが、簡素に述べるなら「解りやすさ」「親しみやすさ」「手軽さ」、そして「模倣の容易性」という理由がある。私は常々、平成バンドブームと『侍魂』以降のテキストサイトブームをだぶらせて考える傾向があるのだが、オピニオンリーダーもしくはマニュアルとしての『侍魂』とブルーハーツはやはりイコールで結びつけられる存在だと感じている。
多くの人が『侍魂』または「ブルーハーツ」に憧れてテキストサイトを開設(バンドを組み)、模倣品としてシーンに対するコミットメントをしていった文化的なムーブメント。両者は共にその寿命は短く、今となってはノスタルジーを喚起する懐かしい言説になってしまった感さえある。平成バンドブームの前後で最も大きく変わったことは、今では至極普通なことなのだが、当時としては考えられなかった「ロックバンドが莫大な利益を生み出す」という点である。では、膨大な参加者・閲覧者が流入したテキストサイト界は資本を生み出したか? という問いを考えると答えは「ヤー」でもあり「ナイン」でもある。
テキストサイト界で生まれた利益といえば『侍魂』のバナー収入、今風に言い直せばアフィリエイトが印象深い。『侍魂』に張られたバナー広告の収入は「先行者」ネタによる爆発的ヒットを記録した最初の二月程度で100万近くを稼ぎ出した(『テキストサイト大全』,19-21頁)。また、ソフトウェア会社「プロジー」やゲーム会社「ナムコ」などからも『侍魂』に対するバナー広告依頼があったが、大手blog管理者がアフィリエイトを張らせて<頂いたうえ>で利益を得ている現状と比較してみると、実にバブリーな時代であった。
今現在は、テキストサイト界も――私が見ている/見てきた限りの範囲でいうところの中心を欠き、大きな物語というものが解体してしまい、それこそポスト・モダン的な状況に突入している。そもそも、既に「テキストサイト界」という括り・・・いや、元からそんなものは「想像の共同体(ベネディクト・アンダーソン)」と言うべきものだったのかもしれない。だが、輝かしい時代は確かに存在していた。その時代というものは、皆が抱いた想像であったとしてもテキストサイト戦国時代と称される時代を、私を含めた多くの参与者たちは確かに潜り抜けてきた。戦国時代では毎日がライヴを演るような興奮と、憧れていた大手(スター)サイトの更新を楽しみにし、「どうすればあのサイトのようになれるのか」とか、そんな事ばかり考えていた気がする。そう、ブルーハーツに憧れたバンドブーム時代のバンドマンたちと全く同様の、当時を評した言葉を引けば、繰り返しになるのだが、とりあえず有名になりたいという表面意識以外を持ち合わせていなかった「空虚なイデオロギー」や「表現したいことことなど何も無い」といった論調がテキストサイトブームの最初期には存在していたように思える。
後述するがブームが進み、界(シーン)自体が成熟――むしろ飽和か?――を迎える頃になると「テキストサイト論」というものが目立つようになってくる。その時期になると前述の論調は無くならないまでも薄れていき、テキストサイト・ナショナリズムという程のものではないが、「想像の共同体」としてのテキストサイト界というものが立ち現れ、数多の参与者が提示したテキストサイト論によって、テキストサイト界はより強固になる形で参与者たちの観念に形づくられていった。
私事を少々語らせて頂くことをお許し願いたい。私がテキストサイト界に参与することになったのは、先に述べてきたように『侍魂』がきっかけであった。界への深いコミットメントは大手サイトの派閥への参加や、ネットバトルやテキストサイト界における出来事に対する言及などで、半ば自己満足的であっただろうが行ってきた。テキストの内容は、当時の他の数多あるサイトと同様に「笑い」「痛々しさ(痛さ)」「駄目さ加減」といった要素を打ち出し、その日その日の内に消費していくような散文が堆積していくようなものだった。2003年頃から、テキストサイト論の隆盛などに感化されてか――自己を振り返ると、そのような方向転換を目指し始めた時期から講義や読書に対して<真剣な>取り組みを見せ始め、無気力状態から脱出し始めた時期でもあった――中身のある、読ませるテキストを書きたい! という欲求が芽生えてきた。有名性よりも人気よりも創造性・作家性を。そのような意識を保ちながら、文章表現や内容、そしてレイアウトなどに対する試行錯誤を行っていく中で、レイアウトはテキストサイトやblogに多く見られる感覚的改行、それほど長くは無い一区切りの文章をまとめた際の改行という形式から、段落形式によるまとまった文章レイアウト。『テキストサイト庵』による定義では、「段落文体」という造語を用い、段落の尊重や段落内の強制改行を排した文体形式というものだ。
段落文体を意識した頃は『テキストサイト庵』の存在を知らず、大学で書くレポートや当時取り掛かっていた卒論で用いる文章表現の訓練という側面が強かった。余談になになるのだが、ワードプロセッサで文章を書く際は段落と段落の間に改行を入れない形式。普段読んでいる書籍のような形式で書いているのだが、Webに文章を書く際は段落と段落との間に改行を入れている。理由は酷く単純で、「文字が詰まって読みにくいから」という理由から、段落間に一抹の改行を入れている。個人的な好みであるが、その形の方が文章が詰まっている形よりもに非常に読みやすい。勿論、紙媒体で読む際は完全なる段落文体形式の方が、縦書き・横書きを問わず読みやすい。
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2006/06/30(金) 21:57:36 |
再考テキストサイト
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も、漏前等! ついにmxiムジークがフォルクス(人民)向けに公開されましたね! 音楽のテイスティングは酷く物語性(ナラティビィティ)を持ち、その物語性がアイデンティティや自己性の構築に大きな作用を与える。MSNメッセンジャーの追加機能で再生中の音楽ファイルが公開されるようになった辺りで、音楽によるアイデンティティや自己性の誇示が強く打ち出されるようになったな――カラオケ的コミュにケイションは遂にネットを侵食したか・・。
などと、時代の流れの速さをしみじみと感じていたら、ついにmixiにもメッセンジャーに追加されたような機能が。しかも、それを更に上回るような、テイストとテイストを接続・束ねる機能を持って現れたことに名状しがたき驚愕を隠せないと共に、畏怖すら感じ始めている。
とりあえず、再生リストへのヴァージンをどの曲で捧げるかは散々迷った。迷うというか、GASTANKの「ジェロニモ」以外眼中に無かった。しかし、第一曲目、即ち漏れのmixiMusikにおける桃金嬢(ミルト)をもぎとったのはGASTANKの「黙示録」であった。
で、当該アーティストの曲を再生した時点で、どれ程の人間がそれを再生したかがでるわけなのだが、「黙示録」が再生された時点での再生人数がオレを含めて3人。うち1人がオレのマイミクという罠wwww 斗えジェロニモ
2006/06/29(木) 01:45:06 |
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「ひとびとはペテン師どもの言葉に耳を傾けはじめ、みるみるうちにこの宗教は広まって行った。誤謬の歴史はすべてこうした過程において作られるものだ。やがてウェヌスとマルスの祭壇は、イエスとマリアのそれに取って代わられた。山師の生涯は、出版されて本になった。この無意味乾燥な物語は、多くのお人よしをたぶらかした。」――マルキ・ド・サド,『閏房哲学』(澁澤龍彦訳)。
巷に溢れる「S」だの「M」だのをしたり顔でのたまう輩の一体幾人が、19世紀の性化学〔sexualwissenschafft〕者であるクラフト・ヱヴィングが定式化したサド・マゾヒズムの紋切り型に毒されていることを自覚しているだろうか? 一体幾人がサド侯爵やザッヘル・マゾッホの名を知り、その迷作に触れ、公爵殿の素晴らしき否定の精神と、禍々しき役割の相互置換に対する哲学を理解しているというのか? 公爵殿の奇行をサディズムとして解釈するならば、攻めと受け/支配と服従は常に相対的であり、置換されるべきものでなければならない。公爵殿が従者を伴い、娼館で見せた支配と服従の相互置換劇を思い起こして見るといい。
そもそも、公爵殿や聖マゾッホ氏を引き合いに出したところで、単純な支配欲求――それは、支配する側も被支配の側も己に対するナルシズムに向けられているだろう――こそがSMの価値観であるという認識が早々に崩れるわけでもないし、崩す気も起きない。現代の大衆において、性は哲学と切り離されたものであり、マニュアル・単一的なイメージであり、語るに足らないものへと変貌しつつあるからだ。
そんな駄文を書くのも、鞄の中に潜む書物が悪いんだな。あとガンガン開きつつある紹興酒の瓶。本日、鞄の中に潜むものというと、先の『閏房哲学』に、同じく公爵殿の『ソドム百二十日』。ついでに、ボッカッチョの『デカメロン』にベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体』。Robert,W.の『Running With the Devil ; Power,Gender, and Madness in Heavy Metal Music』に加えてジー二アスの英和辞書。
一見酷く乱雑なように見えるのだが、内訳のある程度は繋がっている。繋がりついては、諸氏が自力で考えてもらいたいところなのだが、ひとつヒントを与えるとすれば、冒頭の『閏房哲学』の引用にある「山師の生涯は、出版されて本になった」という部分と『想像の共同体』。「想像の共同体」が形成されるには出版物、特に新聞が大きな役目を果たし、経典(タルムードやバイブルやクルアーン)も言語を超えた形で大きな役目を果たした。その影響の一つに対し、我らが公爵殿は豊饒たる素晴らしき話術にて、痛快なるヱンタァテイメント精神を発揮する。しかし、公爵殿のが生きた18世紀ならまだしも、現代で見ると少々大仰な芝居のようにも感じてしまうが。まぁ、それは置いて手おいたとしても、ああ! これこそ ザッツ・怨タァテイメント。
とりあえず、明日も早いので寝るほい(´・ω・)ノシ
2006/06/28(水) 00:56:02 |
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これまでに何篇かの成果を晒してきたように、ライフワーク的に『侍魂』以降のテキストサイトブームに関する論考を書いている。しかし、ブームの隆盛に対して資料――特に「実証性」を持ちうるものは少なく、複写などのサービスを使わずに手に出来る範囲で、参考になりうる出版物といえば『テキストサイト大全』と『スローブログ宣言』位しかない。ただ、前者についてはブームの渦中であることと、(意思疎通や知識の共有が十分とは言いがたい)執筆者が複数いる点で、実証性という点で参考になるとは言えないが、一テキストサイトの延長線上にある著作物として読んでいくならば、中々興味深い点は多い。
ベネディクト・アンダーソンの言葉を引くところの「想像の共同体」をテキストサイト界という実在性を持たない共同体に当てはめた論考はまだ表に出してなかったと思う。とりあえず、前述の『テキストサイト大全』や一時的に(2002年の後半頃が特にと記憶する)大増殖した「テキストサイト論」などは、その殆どは無意識的であったにせよ「想像の共同体」を維持するプロパガンダとして機能したという点は想像に容易い。特に前者における<我々>という表現――同書181頁など――は政治的な意図を持たない無邪気な共同体意識からくる表現であるだろうが、当時の熱狂においては共同体意識を鼓舞する要素として機能しただろう。しかし、界や共同体に対する帰属意識を殆ど失った今では揚げ足取りのような点ばかりが目に付いてしまう…。それらの点については、いずれ「再考テキストサイト」の中で語っていく。
「想像の共同体」――私にとって共同体に繋がるポータルサイト的な役割を持っていた『ダークマター』が閉鎖して以降、共同体に対する帰属意識は一気に崩壊し、共同体を失った私はポスト・モダンとも言い換えられるような状態に突入した。そして現在の、内容としては最早「テキストサイト」とは呼べないような――否、『侍魂』以降の「テキストサイト」としては不十分な要素が強いかもしれないが。テキストサイトの売りといえば、やはり「お手軽さ」であった。手軽さは、パフォーマー・オーディエンスの双方に対する重要な要素でありる。だからこそ、テキストサイトはブームとして、今はblogにその地位を委譲してしまったが存在しえた。
テキストのみを用い、読むに堪えることのできる――これは「今日の更新」というように、時間の堆積に埋もれることのないテキストを書こうとすれば、連日垂れ流しているテキストの如くオーディエンスに対して高度とまではいかないが、凡庸な識字能力を要求することになる。消費や識字、内容理解、そして共感が非常に容易なテキストの堆積やアクセス数によって、テキストサイト界にカリスマ性や大手の威厳が形成されるのなら。いや、されてきたことは否定しようのない事実である。そういった世界に慣れきったオーディエンスから「評論みたいに上からものを言っているようで気分が悪い」と侮蔑されれば、私は「ロジカルな文章を読める閲覧者に向けて書いているんでね」とか言い放ってみたい――しかし、幸いなことに、そんなホットなオーディエンスはまだ現れていないし、そう言われたところで「ファーストフードのような本ではなく、懐石料理のような本・文章を読み給へ」とやんわり言い返すだろう。ほら、JUNKさんネット弁慶だからさ。
2006/06/27(火) 22:11:22 |
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昨夜はガツガツ飲んだくれながら攻殻機動隊SACを一気に四本みて明け方就寝。午後から重役登校をしてきた。「模倣者は踊る」と「ラッフィングルーム」の回。あと「電脳自閉児童」は特に好きだ(;´Д`)。
重役登校といえど昼は文化帝国主義――否、あえて食に対する合理化の極みである「食べれば金髪になれちゃうような」マクドナルドで飯を食いながら読書。3 章程残してあったジョセフ・J・トービン(編),1995,『文化加工装置ニッポン〔Re-MADE IN JAPAN〕』を読了オヨビ参考・引用文献のメモ書き完了。
内容の刺激〔extream〕性もさることながら『ベルリン忠臣蔵』『女子高生チェーンソー』『勝手にしやがれ』張りに逸筆な邦題が素晴らしすぎる。元来そこそこのニーズのある日本人論がここ最近キモチワルイ程に―それもインスタントで尚且つマクドナルドのように早い・安い・うまい精神溢れる本が氾濫し、前述の精神により大量の消費が行われる。しかし消費者が、インスタントな本以外の日本人・文化論を題材にした本に対し<自発的に目を向けない限り>あとに残るのは「ぷち想像の共同体」と薄っぺらい思想の束(ファッショ)位か。
「外人」という言葉は文字通り外部の者を意味するが、一般に使われる場合、その意味はさらに狭められ、特に白人外国人を指している」(前掲書,287頁)。といった指摘はインスタント本には望まれないだろうし、読者もそんな指摘を望んではいないんだろうなあ。
つ『イメージファクトリー』
つ『ディクテ』
つ『文化帝国主義』
つ『ファッションの技法』
つ『<民が代>斉唱』
辺りを貪欲に読めば、何かが見えてくる。多分。本人の問題意識にもよると思うが。
2006/06/27(火) 00:33:46 |
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今ではテレビを見ることが少ないが、18歳位まで――多くの人がそうであるように、中学時代位まではお笑い番組にかじりついていた。で、本日のネタ元は太田省一,2002,『社会は笑う―ボケとツッコミの人間関係』。
同書は1980年頃から2002年頃に到るまでのマンザイブームや60年代を代から2002年までのバラエティ番組における、笑い方に関する表現・オーディエンスの享受など変遷に関する本だが、特に80年代後半、夢中なテレビっ子時代を彷彿のナツカシイ名前が並ぶ並ぶ。「元気が出るテレビ(1985)」「風雲たけし城(1986)」「ねるとん紅鯨団(1987)」「仮面ノリダー(1989)」「ウリナリ!(1995)」「電波少年(1995前後)」etc。
だが公開スワップ型ねるとん「ねる様の踏み絵(1995)」辺りは何故か記憶になあわけで(´・ω・`) 。して、80年代後半~2006年現在に到るまで、シロウト参加型番組や過剰なテロップや盛り上がりの予告―『ガチンコ』や『ロンドンハーツ』に顕著―が増えていることは周知である。同書では80年代のシロウト、つまり観客の変化について『夕焼けニャンニャン』を引いての興味深い記述がある。
「試合が終わってボブのマネージャー役に扮した石橋貴明が勝どきをあげるのを合図に、観覧の高校生たちは客席を離れ、スタジオ内を走り回り、ある者はカメラに向かってウケ狙いのギャグをする」(75頁)。
その空気を把握している人は「ああ!」と思うだろう。例えを変えれば「アラレちゃん」や「奇面組」、あとは『うる星やつら』的なモブ(群衆)要素。コマの片隅で、群衆の一人が「かーちゃん見てる?」「ピースピース」といったセリフを発するような形式が――与える印象の良し悪しではなく、まずテレビやコマの全面に出ることが欲望として表出する――ひどく80年代的な空気というか気質にあった。
資格映像に表出される時代の空気を文書で表現し、空気を知らない相手に伝えることは難しい。いや、文章わ用いて視覚表現を記述することは、説明的な表現徹すれば可能だろう。そして、相手がその空気に触れた経験があるならば説明的な文章でも伝達は簡単だ。そうでない相手では、生き生きした雰囲気を伝えることは難しい。
観念論や感覚論になってしまうが、説明的な記述で場面を思い浮かべることができても、場面に<漂う>空気を伝達することができないのだ。だからこそ、幅広い感性を養うためにも、媒介物から時代の空気をも読み解くための認識能力を養うためにも、自分の現実よりも少し古い作品を積極的に吸収・消化することは大学の講義よりも、大学講義よりも格上にされた資格勉強よりも重要さを持つ・・・と思うのだが、それ自体は資本利益や異性獲得の要素などには繋がらないから説得性が薄いんだよね(´・ω・`)。説得相手が創造性や自発的な好奇心に重要性を持たないなら尚更。
2006/06/26(月) 00:39:23 |
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◆テキストサイトの取り扱い説明書? 現代の日本社会はマニュアル社会である。なぜならば、差異を強調した代替が容易な商品溢れるスペクタクルの社会の一つであるからだ。溢れる商品を如何様に選ぶか・・・、そのためにはやはりマニュアル――というよりも、指針となりうるオピニオンリーダー的な存在が必要とされる。では現代のオピニオンリーダーとは、いうまでも無いことだがメディアであり、マス・コミュィケイションである。日本でそういった傾向が見られるようになったのは80年代中ごろから――雑誌『ポパイ』や『ホットドック・プレス』『ブルータス』の針路転換・登場や、今では定着した「クリスマス狂奏曲」などが出現し始めた時期である。また、クリスマス狂奏曲については、ここで詳しく述べることはないので参考文献――上の千鶴子,1992,『私探しゲーム――欲望市民社会論』(文庫版)、アクロス編集室(編),1992,『ポップコミュニケーション全書』、宮台真司(他),1993,『サブカルチャー神話解体』、小谷敏(編),1993,『若者論を読む』、麻生幸太郎,1997,『ブレイク進化論』、三浦展,2005,『仕事をしなければ自分は見つからない――フリーター世代の生きる道』など――を参照すると良い。
How to LoveからHow to Fuckまで、青年誌に限らずどのような雑誌にも、どのような<マクドナルド的>書籍にもマニュアルは溢れている。勿論、全ての読者がそのマニュアルの影響を字義通りに受け、それを実践するようにマス・コミュニケーションはありえないのだが、メディアの発信対象がマスであるが故にその影響作用は大きく、マニュアルを実践するようなヒトビトが我々の回りに顕在的であることは否定できない点である。また、テキストサイトに話をつなげてみれば、「テキストサイトはこうあるべき!」というマニュアルは存在していなかったようにも思えるが、マニュアルとなりうる<初期の>オピニオンリーダーは存在していた。それは勿論『侍魂』である。また、フォントいじりの氾濫については先に述べた通りの状況だった。
『テキストサイト大全』を開きなおし、テキストサイトのマニュアルとなりうるな箇所があるかを探してみると・・・・トピックとして近い部分と思われる190-191頁「今からでもはじめよう、テキストサイト」はあったが、マニュアルとはなりえない。しかし、テキストサイトブームの勃発当初、多くの新規参入者が目にしたマニュアルはやはり『侍魂』であり、(表現の上澄みのみだが)模倣のし易さもあり、テキストサイトブーム初期のカノン(聖典)と考えることは容易い。後述するが、テキストサイト界の成熟によって『侍魂』、つまりフォントいじり系はカノンとしての地位を落としていった。だが、その威光は消えることなく、リンクに『侍魂』を配するフォントいじり系は長らくその数を保っていたと記憶している。
2006/06/24(土) 21:40:39 |
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久々に独りビールかけ――歩き飲みを敢行している際に気分が複雑な高揚性を見せるた時に、衝動的に頭から酒をかけてロック的ナルシズムに浸る行為――を敢行する昨夜の飲んだくれ。帰宅して横になったら意識が飛んで朝でした。
そして何故かメール履歴をみると赤瀬川源平の『東京ミキサー計画』を勧めている履歴が。記憶にないぞこれ。おお! 自動筆記! これぞシュルレアリスム! 寝た気のしない覚醒で意識もうろうのままドトールでMISHIMAを読む。ちなみに、自動筆記の内容はというと「つ『東京ミキサー計画』。芸術といふものがフェティッシュ――それこそ、何故にその対象物が超常的な価値観を持つのか説明できないヒトビトに捧げたい一冊。(近代的な)芸術とはどうあるべきか? という問いにも答えてくれる一冊」という普段と余り変わらない文体で、相手さんの方は泥酔状態とは思わなかったという後日談があったり。かれこれ4年前位は「ルパーンな感じで!」という全く意味不明で不可解なメールを、泥酔で記憶をぶっ飛ばした最中に出すという輝かしい経歴がありました。
そして気が付いたら着の身を着のままでありました、酒は抜けていたけれどね寝不足的な謎頭痛で、セバスチャンの殉教図に到る前辺りからリビドーの迷宮に迷いこむような。まるでMISHIMAの情欲が自分の精神に憑依してきたような気すらして、眠気から一時帰宅して寝てた。
帰宅して寝ようとすれば、山田登世子が強調するように、ファッションによる目的の一つは異性の意識を引くことであるという点を踏まえるなら、ファッションはまごうことなきリビドー経済ではないか!さらにファッション誌によるモテ要素などは実際性がなく、モテ要素を装う者(パフォーマー)・モテ要素を見る者(オーディエンス)間に<現在の >モテ要素という記号や知識が共有・刷新され、両者がモテ要素に対する認識や賛美といった反応によってモテ要素はその現実性をおびる。
とかなんとか、体は休んでいるのに頭が勝手に考えまくりやがるの('A`)。
2006/06/24(土) 20:49:06 |
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前にも少し書いたが、2001-2002年頃にかけてのテキストサイトブームに関する莫大(まだそこまでいう程の量では無いが)な論考をちょろちょろ書いている。で、自分の持論として1988-91頃にかけて起こった「平成バンドブーム」とテキストサイトブームはよく似ているというものがある。
ちなみに、大学時代の卒論は平成バンドブームを軸とした日本のロックシーンのバンドブーム以前とバンドブーム以後~現在までの変容史とかいう頭ワルイ卒論を上梓した。とりあえず、折角なので「シーン」という酷く曖昧で、それでも感性で使いまくっちゃている厄介な言葉について、少しの定義づけを行ってみる。
Will Staraw,1991,「Systems off Articulation ,Logics of changes ; communities and scens in Popular Music 」『Cultural Studies 』(Vol5,No3,P368-88)。ストローは、シーンを、積極的な形成・維持を行わなければ廃れていく、連帯関係や仲間意識から生まれる文化空間として定義する。以上。自分が卒論で書いた定義は、もう偏見バリバリでもの過ごすぎて('A`)。だって「総体としての「ロック」というジャンルに絞って考えるのであれば、「バンド・ファン(オーディエンス)・店(ライブハウスやレコード店・中小を含めたレーベル)」の三位一体な共同体である」とか書いているの。もう見てらんないこの若書き!
とまぁ、閑話を休題して。テキストサイトブームについての稿を書くにあたって、もう2年近く前に書いた卒論を見返しながら稿を進めているのですが、余りの「アレさ」加減に、思わず晒してみたい気持ちに一杯になりました。ちなみに、私はまごうことなく1982年の生まれであります。読み返して思うのだけど、年食った今じゃあもう、下記に引用(余りにも拙いので、複数部に添削・増補を施す)したようなギラついた文章というか、勢いで突っ走る論は書けないんじゃないかな、とか思う飲んだくれです。買ってきた酒全部無くなったお(´;ω;`)ウッ。
「へヴィ・メタルのブームが加熱するにつれ、フォーライフレコードや東京ロッカーズの登場によって整備されたインディペンデントのシステム(アーティストによる自主レーベルの設立等)や、ライブハウスコミュニティの土壌を背景に、数多くのバンドがメジャーデビューを飾った。その一方で、1984年には神楽坂エクスプロージョンが同店で活動するメタルバンド達の音源を集めたコンピレーションアルバム『Heavy Metal Force』をリリースし、関西に比べると盛り上がりの少なかった関東のインディーメタルシーンの隆盛をアピールした」――卒論「平成バンドブームを境とした国内ロックシーンの変容史」(第三版,2005),第三章「東京ロッカーズから平成バンドブーム前夜」より。
「宮台の指摘にある「内輪のファン(宮台1993)」は、先に述べたナゴムギャル(左図)や、トランスレーベルのファンであるトランスギャルといった特定のレーベルに対する帰属(服装などで)を表す若い女性たちのことを指す。しかし、宮台の指摘においてはナゴムやトランスといったレーベルのファンを引き合いに出す場合、実際それらのレーベルを支持する若者の大半が女性層のために多少は仕方のないことだが、宮台の視線が女性ファンに偏りすぎている問題がある。宮台の指摘では、男性側に常々つきまとう、バンドマンに対する「置換の憧れ」や「アイデンティファイの欲望」という視線が排除され、東京ロッカーズにおいての指摘と同様、現象の本質的な部分を捉えきれてないようにも思える」――前掲同章より。
「私が以前見た事例の中で中西の指摘にある、ごく当たり前になったバンド活動という指摘の好例があった。その事例というのは、東京都某区の催しにて、同区内にある私立女子高の女子中学生によって構成されたバンドが、椎名林檎のコピー曲で出場を行った。そしてバンドは区の役員たちから高い評価を得た、というものだった/多少乱暴にいってしまえば、審査員である役員――その多くは道徳的規範という幻想を信奉している――にしてみればブラスバンドによる合奏であろうが、ロックバンドであろうが、<青少年らしい健全さや爽やかさ>が現れていれば良い(中略)本来では学校教育との結びつきが強いブラスバンドが出演するような、区が主催する音楽祭にロックバンドが出場するということ、それはブラスバンドにしろロックバンドにしろ、価値観が並列化してしまっていることに他ならない」――第四章「平成バンドブームという境」より。
2006/06/21(水) 22:19:51 |
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大熟睡してるところで揺れて、頭がボケボケなもんだから「東京糸冬了」と本気で考えた。去年の7月位にあった震度5強の地震―都内の交通網〔インフラストラクチャア〕が軒並に麻痺し、密集による利便性の弱点を露呈させた一件を思い出す。
あの時も東京終ったと本気で思いましたわよ。まあ、東京なんていうソドムでゴモラなスペクタクル・シティは業火に焼かれるのが相応しいわ(・∀・)ガハハ! などと、日本人のオタクに典型ともいうべきキリスト教のモチーフを流用して、何かこう、お定まりな大消費社会を批判する文章を一筆書こうかと思った。
だがしかし、寝起きであまり頭が働かないのと学校着いたので飯食ってくる。三浦展が述べているように、近年、若者は食事に対しての面倒臭さを顕在化している。それは確かに同意するが、その割に若者たちは食に関するモード―特に手軽さがポイント―には颯爽と飛び付くような感じもある。
それよりも学食でお昼のメニューを選び、組み合わせを考える時は非常に楽しく、明日も学校にくるモチベーションを高めてくれる。キャンパス内は今日ものどかであります(´・ω・)y-~~ みんなも昼飯位一人で食えなきゃだめだゾ!
2006/06/20(火) 13:56:51 |
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四年に一度に訪れる非日常性である「ぷちナショ蹴球祭」がオワタ―日本代表が実績をあげることのみを祭りの主目的と考えた場合に現れる〈祭り〉であるが。
第三の種類の狂気は、いわば日常性の内部構造それ自体の解体によって姿を表す非日常性であり、換言すれば、日常性の存立の基盤それ自体が解体するという形で顕現する非日常性である(木村敏,1982,『時間と自己』,134頁)。
しかし祭りが終ったからといって、社会の根幹が緩むわけでもないし、電車が真面目に走るわけでもない。太陽だって黒には染まらないし、ユダヤ人を一人残らず聖地送還しようが何も変わらない。「日本人としてのアイデンティティ」だの「日本人らしさ」だのも眉唾に見えてきたが、「お前は一体何人だ?」と聞かれれば、「私はとりあえず日本人ですがあなたは実際のところは何人ですか?」と答えるだろう。それより台湾小姐ですよ!(;´Д`)ハァハァ。
ところで「複数の自分」による最大のメガヒットは何だろうか。宇多田ヒカルでもなければ、B'zでもない。それは「ぷちナショナリズム」であろう。古いナショナリズムは、唯一自分への信念を国家に収束させるものだ。最上位に国家があり、それがムラ、イエ、個人へと波及し、個人のアイデンティティを規定する。いわば同心円的なナショナリズムである。そこには強制があり、上からの同調圧力がある(三浦展,2005,〔消費の物語の喪失と、さまよう「自分らしさ」〕,上野千鶴子(編)『脱アイデンティティ』,117頁。
2006/06/19(月) 21:47:37 |
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物<神>的な見世物に支配された現代社会において、豊かな先進諸国に配置された我々は周囲を取り囲むスペクタクルに対し、どのような位置を取るべきか? 啓蒙は神がかりな超常現象を否定し、リアリズムへの着目を称揚した。
アルフォンソ・リンギスが述べるように、モノに対するフェティッシュ(崇拝)は夢があるし、感受性を豊かにしてくれる―もっとも、値やブランド・有名性とは無縁であるモノそれ自体の外観や性質に基づいたものへの創造力であるが。私自身としては、耽溺する・させられている文化産業を批判し、排除せよと言っているのではない。半ば強迫的[obessesion]な消費を行う対象は一体何なのかという点を定義付けたり批評―それが何かを言説化すること―こそが重要である。従って、言説の裏側から、自らがモノに対して持っていた理想や幻想を―それは男が情欲を喚起する文化装置によって女に抱くものに似ている―打ち砕くような現実が出てきた際、幻滅するか変わらず〈それ〉に熱狂するかは本人次第だが、壁の裏に隠れた言説に触れることはモノに対する愛着や歴史・意味性に対する意識を高めることに繋がるという利点がある。
いわゆる商品や文化としてのモノばかりが、先程から述べている〈それ〉が指す対象であるとは限らない。我々日本人が一見すると極当たり前と思う「日本語」という言葉ですら、壁の向こうには興味深い歴史や事実、そして〈正体〉が潜んでいるし、〈イギリス語〉による帝国主義的な傾向、日本人の持つ「外人」のイメージなどについても壁を打ち砕くて見ると良い。
さらに身近でホットなものは、やはり「ディズニー」だ。刺激的な関連書籍は山のようにあるし、複合文化産業や文化帝国主義としてのディズニー。世界に同化するキティちゃんと世界で自己主張を行うミッキーなど、トピックはキリがない。特に、新自由主義経済下でスクルージおじさん化が進む最近の日本人など。
実は、子どもの頃からスクルージおじさん大好きだった。資本主義的姿勢に惚れ込んだのではなく、金の海で泳ぐ突飛さとかシマシマの水着のプリティーな様、一喜一憂の奔放さが大好きであるし、たぶん今でもお気に入りだと思う。そして、壁を崩したいと思うのならば過去の日記の端々にある言葉や人名、書名やトピックなどを自力で調べて吸収して行けば良い。また、この文章を読んでいる方がもし、壁を崩す欲望を強く持つ・持ってしまったのならば、それに対するガイドや啓発について、私としては協力を惜しまない。
2006/06/17(土) 22:02:11 |
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有名性は有名である・有名になること。有名性を持つ対象に近づくこと・認知されることという欲望を促す。ロックに付き物のグルーピー、平成バンドブーム時代のファック隊、近年のV系シーンにおける<悪癖>とも誇張したくなる「狙い」などは、大まかにいって後者の欲望を持つだろう。先にあげた例はたまたま女性が充当される・進んであてがわれる役割であるが、前者の欲望を持つ女性は勿論多い。
高級ファッションブランドや有名ブランド―限られたテイストを持つ少数者に有名なものではなく、広く大衆に知られているブランド。最近でいえば『NANA』がブレイクした以降のヴィヴィアンなどがその典型―を盲目的かつ熱狂的に買い漁る層も、素晴らしい思想と歴史を持つ<商品>ではなく、値段と<有名性>を買っている場合は多い。
1930年頃の上海を揶揄した中国の4コマ漫画がある。その内容は、10元の値札と中国産という説明書きが付いたコートが飾られている店先を鼻で笑う夫婦(男も女も極めて摩登〔モダーン〕な装いをしている)が描かれており、店主が10元の値札を300元(3000だった気もするが)に。中国産という説明書きを「英国産高級商品」に変えたところ、先の夫婦は勇み顔でそのコートを買っていったというものだ。
ドイツ人にとっては、日本人にとっての桃太郎と同じくらいに身近な―言い過ぎだろうか? むしろ三島由紀夫位にしておくか?―シェイクスピアが高級として日本国内で崇められることも(無論内容の素晴らしさはあるのだが、突っ込みどころも数多い・・・特に『マクベス』や『じゃじゃ馬ならし』)、有名性をめぐるイメージの消費の一つある。高級ブランドに話を戻せば、我々日本人がブランドと聞いてまず思い出すのは、最もイメージし易いシンボルを持つ「シャネル」と「ルイ・ヴィトン」であろう。シャネルと言えば、波を描く黒地の鞄生地に、シャネルを真に愛好する方々なら知っていて<当然>である、例のロゴマーク。ヴィトンといえば、シャネルと同様にそれがどのうような背景を持っているか既知である「LVマークの布地」がシンボルである。それらのシンボルは我々が最もシャネルとヴィトンという二代ブランドを確認し、他者から見せびらかされるイコン(聖像)でもあり、そこに有名性が集積している。
なるほど。ならば、有名な高級ブランドであるシャネルのイコンとヴィトンのイコンと組み合わせれば、超有名性を持った最強のブランドが出来上がるじゃないか! つまり、ヴィトンの鞄に使われる布地にシャネルのロゴが合体した鞄。超有名性を持ったバッグの両脇にシャネルとヴィトンの鞄を配置し、「これらはもうブランドではありません。これ(超有名品)がブランドです」とでも書いたキャッチコピーを立てかければ良い。ただの便器ですら芸術性を持つ現代に相応しいブランドじゃないか。
そして、今から学校/研究室を後にするわけですが、午前中からマトモに授業受けまくってると、実に酒が飲みたくなりますね。しかし花金だけれども、金欠・啓発につき、どっかの喫茶店で自習なんです(´;ω;`)ウッ。
2006/06/16(金) 18:51:52 |
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やはり黒だと思うのだよね、男服は。19世紀の燕尾服からスーツに至るまで、男の服は19世紀頃まで女が家内に縛られて行動を制限されていたかの如く、装いの選択肢が制限されている―それに対し、女性のそれが何とも多様なことか! 社交会における華やかな布地や装う型の多用さには常々嫉妬心を感じてしまう!―ために、本来的に不必要であるにも関わらず、無駄な色や中身が空洞な印(ブランド)で差異をつけたがるこの消費社会。
差異や装いに「ナイン(nein)」を突きつける黒は素晴らしい。個性の偏重という風潮に対し「ヤー!(Ja!)」と声高に叫ぶ割に流行りには敏感で、結果的に酷く没個性的な束(ファッショ)の一員になるよりは、始めから没個性的な黒を装ってモードに「ナイン」と突っぱねるのが良い。
シャネル的な皆殺し精神で、没個性の黒において個性を発露させれば良いのである。しかし、流行の追求とモードへのアンチは双方とも「個性」じゃないかという「ポストモダン的言説」なんつう「ロック」と同じ位に曖昧で、全てを飲み込まんとする大魚の口のような言葉を使いだすと、真なる個性なんてものを考えること自体がナンセスと化すのです。
2006/06/16(金) 00:20:05 |
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また「ぷちナショナリズム」の季節が来ました。でも負けたね(´・ω・`)初戦。4年前の日韓W杯の時は6/9日に・・、確かロシア戦が土曜か日曜に行われた。で、渋谷でアニメタルのライブ見た帰り道に渋谷の街中では「ヤーパン!」「ヤーパン!」とかやっておりました。帰宅した頃には試合が終っており、テレビの中では渋谷で繰り広げられて歓喜の暴動写っていた。ああ、混ざりたかった! もうちょっと街に留まっていれば! と苦渋を飲みながら経過すること4年。独逸W杯の日本代表第一試合目は月曜の開催でだるいし、試合遅いし、家でまたりと飲んだくれていた・・・・。けども、やはり暴動が起きたじゃないか。4年前のような大規模ではないようだけど。
で、ドラマ『ギャルサー』の略が全く解らなかったら、W杯の裏で「ギャルサークル」略して「ギャルサー」の番組をやっていたのですよ。「ギャルサー」は「クオリア」とか「エコロジー」のように明確な内容を定義付けできないけれど、思わず使いたくなるオシャレでカワイイ記号的な造語に近いものだと思っていたら、略称だったのね。「ギャルサー」。とりあえずギャル―番組内では、解りやすい編制やキャスティングはあるだろうが、コギャルから「コ」が取れたようなガングロちゃんが勧誘しまくっていた。
コが取れたガングロギャルが、イベントに参加する男子学生について語る際「MARCH=明治,青山,立教,中央,法政」の名を執拗に連呼する光景にはデペイズマン―それこそ、皮下に眠る犬を見るために海の皮膚をめくるような違和や滑稽さ感じえない。有名性や中身の無い肩書きばかりを掲げる(自称)セレブパーティーも同様だが、それが「性と資本と有名性(もしくはブランド)の一大スペクタクル(見世物)」の価値しかないと気付く参加者がどれだけいようか? 否、気づいたところで新・自由主義経済の旗下で消費の燃焼に明け暮れるこの腐った社会では、そのようなことを問うこと自体はナンセンスである。
酷く男尊的なことを申せば、フェミニンなブランド性を持つ女、もしくは現代の美的規範を著しく逸脱しない程度の非醜な外見を有す女である限り、その女はパーティを彩る性の見世物―核を付けば乳と穴―の価値はありうるという話だ。男の理想像に従ったフェミニティやジェンダー規範を著しく侵食するようなインテリジェンスやウィットな感覚を持つ女が蔓延ることを、どれだけ多くの男が望んでいるだろうか? 少なくとも、私はオモシロイ・ステキから蔓延すること―知的なハイクラスの領域ではなく、大衆に対する広い蔓延―を強く望んでいるが。
2006/06/13(火) 13:41:44 |
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贅沢が大衆化する時。オートクチュールが値段と品質を維持したまま貴族から大衆へ開かれる時。稀少性による価値には矛盾が生じてモノの価値は有名性や値段―特に日本とアメリカにいえる点として「パリ神話」による意匠性に規定され始める。
1900年の万博にて技術や資本こそアメリカに譲ったがファッションと栄華のパリという神話を打ち立てたフランスから、1950年代末~60年代になると、資本主義・消費社会を「スペクタクル」として批判したシチュアシオニストが登場した点は興味深い。
ある彼人は言う。エルメスは高級馬具。ヴィトンはトランク工。シャネルはファッショ(束)を推進する中で個を浮彫りを画策し、大量生産を肯定しながらも希少性の価値を推進した確信犯。ヴィヴィアンだってマルコム少年の鉄人28号じゃないか。盲目的に消費し続けるブランド品の歴史を語れるかい?うんちくではない。自分が何故そのブランドを選んだかを説明できるかい?
ロバは答えた、虚栄心を満たすため。ブタは答えた、良いものだから。電気羊は答えた、雑誌やメディアに価値を植え付けられたから。猫は答えた、有名な品物だから。猿は答えた、他人が持っていたブランドが酷く魅力的だったから。
烏は答えた。「有名な高級品を買いでもしないと、豊かさを確認したり自尊心が満足しないから。差異化も稀少性も、ブランドの歴史・哲学・思想だって問題にはならないし、消費を行ううえでは全く必要もないことだ。〈身体的にも経済的にも落ちぶれるのが嫌〉なだけ」と。
2006/06/11(日) 00:47:39 |
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ダダ・シュルレアリスムなら女性器にモンキーレンチを突っ込む。ダダ以降ならば、モンキーレンチではないが何か(それが何かは失念)を突っ込む。キリスト教原理主義者ならば、蛇だの蛙だのを突っ込んだり張り付けるだろう。
無限の海を口内に宿すレヴィアタンの口―魚や力の象徴を飲み込む大魚の口―もしくは只一つしかない、この世に産まれ出るための手段にねじこまれている生物(なまもの)、それは性器ではない。
かくして個人主義文化が形成されたが、それは、それを生み出した社会ともども、破綻している。その文化習慣は、もはや想像力および諸々の欲望のためのいかなる可能性も提供せず、また、人間の生の表現までも阻害しているのだから・・・・。
均質化され、大衆化され、束ねられた身体的〈装い〉・娼態を含んだ性役割・共感・言説・身ぶり・テイスティング・知識―それ自体は非均質化という幻想を信じたい我々のものとの優劣を付けるべきではない。しかし、それらに苛立や違和、無意識的な卑下や優越精神を覚える点を否定してはいけない。
2006/06/07(水) 00:10:23 |
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4年前程前のテキストサイトブームについては一昨年位からちょくちょく論考を書いており、卒論で扱ったせいもあるが現象自体が非常に良く似ているために、平成バンドブームとテキストサイトブームを絡めて論じることが多い。
バンドブームをフェストゥム(祭り)概念で捉えなおそうと考えていたが、とある講義でフェストゥムについて触れた回のノートを忘れ文献探せず。仕方ないからフロイトの『性愛論』にフーコー入門に『アンテルナシオナルシチュアシオニスト』の第一集を拝借。なんていうか〈モロ〉だよね。若さ輝く編成。で今帰宅中。
で、テキストサイトブームか。mixiの「ろじぱら」コミュやら「絵日記でも~」コミュ見てたらブーム最初期の頃を思いだしノスタルジィ。ああ、当時「すなおちゃん」高校生だったよな(;´Д`)。
他にはハッテン場探検レポ(+竜王)やらあったよな―当時は無知性とイメージによりゲイを過剰にイロモノ視してた割りに、今じゃ男相手に舌入れやら、性器直揉み位大したことないがJUNKさんはストレートだ。同性愛を即時的に肉体性愛行為に解釈するのもヨロシクない傾向だが、JUNKさんはストレートだ。新宿二丁目に対してのイメージもゲイフォビア(嫌悪より恐れに近いニュアンス)から愉快な場所に変わったし。ああ、良く言えば成熟。悪く言えば年を(以下略)。
ああ、あとね、見たよ『女子高生チェーンソー』。昨夜。ゴメン、嫌いじゃない。むしろ好きだ。台詞の一つ一つ、動作の一つ一つ、無理やりすぎる展開や演出に見るキャンプさ加減が余りにもツボすぎて――特にクライマックスのやりすぎ加減は最高だった。やはり、自分の中にもアルバトロスの血が脈々と流れているようです。どこで道を踏み外したんだ!?
2006/06/05(月) 22:26:51 |
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混沌は秩序崩壊の結果であるが、新たな潮流を産み出す契機とも成りえる。始まりは終り。希望は絶望。気狂は賢者。昼は夜。太陽は月。蝶は荘子で荘子は蝶。レイチェルはレプリでレプリはデッカード。つまりは道主義。陰陽道であり、人間が生物(なまもの)の頂点であるとする思想、それ自体が自惚れであり傲慢であると。だから人は皆罪深い。などと思うのもまた滑稽。神が行いを見ていると思い込んでいるが、むしろ我々が神なのではないか? という話だ。
なるほど、夢の中でチェインソーをぶん回し、それを居酒屋に忘れて泣きながら取りに行く夢にうなされた私が『気狂いピエロ』と『女子高生チェインソー』を借りて帰宅する混沌も。床にはビール缶が転がりまくり、壁には「さいたま」のタオルやLPが飾られ。オードリーのパズルの前にはZELDAの LP(CARNAVAL)が陳列。本棚にはゴヤの版画集や漫画や。ついでにE○Aやらなんやらの設定資料集がある部屋で、昨夜は『デスレース2000』を。今日は『気狂いピエロ』を鑑賞する混沌からも、新たなる文化的秩序が産まれるという算段だ。
だからといって、混沌の中から何かが産まれた所で文化社会主義が化石となり、自由経済主義的イデオロギーが主権を握るこの腐れ社会が生き易くなるわけでも無くい。できることと言えば、有名性―ヒトやモノや、特に有名高級ブランドの<ロゴ>に対しての―に対して条件反射で涎を垂らすパブロフの犬を批判して、文化の、優劣という無意味な詭弁で自らを正当化することしかできやしない(・∀・)ハハハ! アナタ方はパブロフの犬のようではなく、「パブロフの犬そのもの」じゃあないか(・∀・)ハハハ! しかし私も同様にパブロフの犬かもしれないのだ! (・∀・)ハハハ!
2006/06/03(土) 23:30:04 |
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