◆今回の二ャー即&オタ女騒動についての事前参照サイト群
まとめサイト VIPPER VS ブログ連合 アフィリエイト? 知らなんがな(´・ω・`)。こちとらトラックバックを張るだけでもドキドキするような人種だ。そのうえ、拙い文章を晒している身分で金を稼ごうなど身分不相応も恐ろしい。中身の無いカリスマ性――いわゆるトコロ、キャラクター性のみで小金が稼げるなら苦労はしないよ。それこそ、テキストサイトブーム時代の最大手サイトの一つである「ろじっくぱらだいす」クラスでもなきゃね。「侍魂」が広告収入で得た金で「侍魂ふんどし」を作って閲覧者プレゼントにしていた頃は、何かこう・・・・<のほほん>な雰囲気があってよかったよね。
拝金主義を誇りつつ楽しいblogが書けるなら苦労はしない。でも、
「そんな乞食みたい」 な精神に成り下がるのも嫌だよね。アフィリエイトについても正直どうでも良い。blogがブームになると共に、アフィリエイトも付随する形でブームになってきている。書店でblog関連の棚を見渡せば「面白いblog」や「blogで儲ける」といったクリシェが飛び交う本が並ぶ。しかし・・・だから何だって言うんだ? スペクタクル社会の一派生か? とりあえず、今回の騒動については、拝金乞食や馴れ合い・協調主義等の醜い部分が過剰に露呈して、テキストサイトブーム時代の一幕――その当時は、アフィリエイトは一般的で無かったと思うので、内輪工作の馴れ合い主義的な部分が当時と被るのかも――を思い出して嫌悪感を抱く反面、懐かしさを思い出す。複雑な気分だよね。
とりあえず、アフィリエイトそれ自体には一切合財魅力を感じないと共に、貼り付け方が解らないオヨビ理解しようとしないのが当方の脳髄であります。だから実のトコどうでも良い。でも、やじうま精神だけはやたらと持っているので近年で言うところの「祭り」は好きだ。祭られるに相応しい滑稽な人物が次々と、そのメッキを自爆気味に剥がして行く様は非常に可笑しいし、追求されていく様や追及者たちの言説を眺めていくのも愉快だ。でも、私を含めた野次馬たちは、一時期の英雄を直に忘れて新しい標的を求めていく。祭り上げられた英雄であり犠牲である人物も、しょせん見世物(スペクタクル)であり、消費財にしか過ぎないんだ。だからこそ、気楽な野次馬精神を満喫できる。偽善者や道徳者が「悪趣味」だと罵倒するような「祭り」だけでなく、祝祭や儀礼、時節が流れているという証として用いられる伝統的な「祭り」も勿論好きだ。
つまるとこ、祭り上げられる人物は祭り上げられるに相応しい行動があるし、期待を裏切らないようなレスポンスを行うから余計に炎上する。ただそれだけじゃないか。そうなると、アフィ乞食も馴れ合いも関係ない。中の人がDQNだから。中の人が不器用だから。切り返しも、自己言及を伴うフォローも、全てが裏目裏目に出て自滅していく。だから祭りは盛り上がるし、野次馬としても観察のし甲斐があるんじゃないか!
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2006/05/29(月) 01:49:45 |
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5月20日(土) 本日の肝臓頑張れイベントゥはキュアメイドカフェ五周年パアティ。もう5年ですか。キュアが出来たのは2001年の春で、俺が大学入学直前だった頃だったかな。気付けば5年ですか。
ああ、さういえば自サイトをテキストサイトに転身してからの最初のオフでキュアに行ったよ。今現在キュアの入っているフロアで、期間限定営業の「Pia キャロット」とか「ゲーマーズカフェ」とかあったよね。日に日に進化していく店と、先駆けという誇りを持って昨今のメイドブーム・萌えバブルに迎合しないアティテュードには常々目頭が熱くなるのです(´;ω;`)ウッ。
昨日、一昨日から続く深酒のダメージは残って無いとは言えないが、やや快調。パァティ前に入ったスタジオの空調でポンポン痛が!(´;ω;`)。そんな調子でパァティではかなり下げ下げで飲み―むしろ謎の腰痛と脚痛に襲われた立食宴。電車内でマタリと揺られてかなり楽になったが、明日は強制休肝日になりそうです(´・ω・`)。
5月21日(日) 内蔵器官・肩・腰・脚痛に吐気・微熱で今年最凶の体調悪からの一過日。食欲と胃腸器官問題以外は復帰。そんな最中に我が家でアルバトロス・コア祭り三本立てですよ。前日に体調崩すとは思わなんだ。馬鹿ホラーやキャンプな映画を愛でる友人とぶっ通しで血しぶきや首が飛びまくる映画を3本。こんなお天気の良い日に!
先鋒:『バーサーカー』。『悪魔のいけにえ2』ノリで、主人公vs変態家族vs老人バイカー軍団三つ巴。チープさ全開と、ことごとくツボを突くセンス―悪の親玉が首無しのマッチョで、パンツに「ダイナマイト」とか書かれたり、ひたすらポージングしながら喋るとか。
中堅:『人間蟲』。親父大活躍で、蟲が寄生した人間の首飛ばしまくりなハードボイルド。やたら哲学めいた台詞が続き陶酔的。
大将:『ビヨンド・ザ・リミット』。中世~現代に跨るジェノサイド(虐殺)でトーチャー(拷問)でファナティック(狂信)なドラマ。現代ではマフィアの利権闘争を背景に、鬼畜なシュワちゃん系俳優が「神の怒り」の下に家庭内大虐殺。
中世は、隠れサタニズムな権力者が、自らの宗教的正当性(=キリスト教権力)を盾に、不当な異端尋問や拷問・虐殺しまくり。中世では合間に挿入される無駄ロマンスや檄!拷問な地獄絵図。やたらに血しぶきや切断を強調する殺陣など、アレな見所盛りだくさん。でもオチが(´・ω・`)。
5月22日(月) 相変わらずダウン中。昼間に体調回復したと思い外出て、うどん食ったら猛烈な不調に襲われ帰還('A`)。全体的に良くなってるものの固形物が食べ辛く、空腹とも腹痛ともつかぬ腹部の不快感。本を読む気になれず、余りにも怠惰な様にシビレを切らし、ドイツ語教科書付属のCDかけながら病床にふせる。DeutschはIch trinke Bierばかり発してる気がするな。
時折、教材CDを再生しているデッキの方から「Ich komme aus ニコニコ・マンション」とか「ギュードン」「テンプラ」とか聞こえてくるね。夢に出そうだ('A`)。
5月23日(火) 腹下し地獄の翌日はマーライオン地獄か! いい加減食物が食いたいぜ! 今日は学校の最寄り駅まで辿りつき、とりあえず駅前のドトールで自習気味に本とノートを広げる。いつもは迷い無くアイスコーヒー(¥180)だが胃腸のことを考えアイスティー(¥210)に。で、体調思わしく無く、そのまま帰宅。
むぅ、アイスティーといい、最寄り駅まで行くだけ行って帰るという屈辱プレイを施すとは! 何たる恥辱! であります!
結局、LG21ヨーグルト飲んで、玄米粥に納豆放り込んだの食べて(完食ならズ)ソファーで横になりながJackass見てるボクです(´・ω・`)。
2006/05/23(火) 21:13:35 |
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(最終更新:2006/05/17)
本稿は、私が2003年の初頭頃から自らのサイトで公開していた「再考テキストサイト」(進行形を伴ったまま未完結)を草稿に見立て書き直したものである。従って、一部の年代表現にズレが生じているが、ズレについては適宜付け加えを行っている。また、更新の際には、書きあがった部分を本稿の下に随時書き加えていく。
本稿の完結については、草稿段階においても「完結するか解らない」と書いたように全く未定である。更新頻度も、草稿以外の書き下ろしについても気まぐれの更新になるが、日記(blog)内で今まで書いてきたテキストサイトブームについての稿や、これから書くであろう、当時を回顧した稿と照らし合わせながら、更新を気長に待って頂きたい。
◆NWOJTS◆ 1970年代後半から80年代初頭にかけて、ロンドンパンクのムーブメントが凋落の兆しを見せていた英国で、新たなロック・ムーブメントが誕生した。その名も、NWOBHM(NEW WAVE OF BRITISH HEAVY METAL)。NWOBHMの火種は世界中に拡大し、極めて狭い領域で、ではあるが、米国においては「新たなブリティッシュ・インヴェイション」と呼ばれる程の影響を誇った。また、多くの英国産メタルバンドたちが米国ツアーを敢行し、アメリカのキッズたちに多大な影響を与え、その影響が(特に)スラッシュ・メタルという土壌を形成しながら開花するのは八十年代の中頃である。
NWOBHMについては、話がずれるために多くのことを語らない。とりあえず、NWOBHMはIRON MAIDENの登場を起爆剤として盛り上がりを見せ、先にも述べたように、世界各地に新たな形式のへヴィ・メタル――大作化が進む、旧来ハードロック/へヴィ・メタル(HR/HM)に対し、パンクの方法論で新たなヘヴィ・メタルの雛形を提示した――を振りまいた。
2001年の3月頃、「先行者ネタ」が口コミで人気を博し、それをきっかけとして大ブレイクを果たした『侍魂』を起爆剤として起こったネット上でのブーム。多くの侍魂フォロワー的――その殆どは劣化版としか言いようがなかった――テキストサイトの他、様々な種類のテキストサイトを大量発生させ、「テキストサイト」というジャンルを各地に知らしめる事になった一連のムーブメントがあった。「テキストサイトブーム」や「テキストサイトバブル」と呼ばれることがあるこのブームは、正式な名称は無い。偉大なるブームである、NWOBHMにあやかって、このブームをNWOJTS(NEW WAVE OF JAPANESE TEXT SITE)と呼称する事にしよう。単名なるあやかりではなく、NWOBHMと同様に、新たな文化の流れ(新参者の参加を促したり、それまであった『侍魂』以前のテキストサイト郡りも、よりポピュラーでコンパクトなサイトが増えたり)を生み出したという点を踏まえての命名である。
NWOJTS以前から運営していた私のサイトも、NWOJTS世代(『侍魂』のブレイク以後にテキストサイトの存在を知り、『侍魂』や『裏MIZUHA』『兄貴の館』など、ブームの始まった2001年春頃の代表的大手サイトに影響を受け、HPを開設、ないしは予め持っていたHPをテキスト系にシフトしたサイト群)と同様ら、『侍魂』他、初期の代表的なテキストサイトに影響受け、テキストサイトという既に一大規模を誇っていたジャンルへの傾倒を開始した。ちなみに、傾倒以前はゲームの話題を中心とした、特に運営目的も無い内輪向けのサイトを運営していた。
◆文字のボディランゲージ◆ blogが全盛となった近年では、その数を減らしているようにも思えるが、blogにおいても相変わらず根強い人気を誇っている表現手法がある。NWOJTS象徴する現象の一つである「フォントいじり」がそれだ。「フォントいじり」はHTMLのタグを利用し、文字の色やサイズに装飾を施す手法であり、NWOJTSの魁!! である『侍魂』が行間空けと共に多用していた表現法でもある。例えば、「フォントいじり」の実例は以下のようになる。
また振られました(血涙) という具合に、「(笑)」「(涙)」といった、喜怒哀楽を表す表現や、「(´д`;)」「(^▽^)」や「T◆T」といった顔文字も「フォントいじり」と共に多様される。ただ文章を打っただけの感情表現よりも、「フォントいじり」を駆使し視覚に訴えた方が、一見すれば能動的であるし勢いもある。さしずめ、文字によるボディランゲージである。しかし、無意味なことや全く日常にありふれた言葉をさも大袈裟に描く、酷く空虚な表現手法であるため、「フォントいじり」に対する批判も数多く存在した。表現の優劣はともかくとして、テキストサイトブームを象徴する表現手法であった。そういう点もあり、blogを巡回している際に、最早化石とも呼びたい気もする表現手法。すなわち「フォントいじり」に遭遇した際、一抹のノスタルジィに駆られしまうことが度々ある。
先にも述べたが、全く日常にありふれた表現を大袈裟に書くテキスト。特に何かを考えさせるわけもなく「ただの勢い」や「お約束ネタ」「管理人のキャラクター」が付随することにより、価値を持つテキストに閲覧者は何を求めていたかを考えると、まず「気楽さ」や「手軽さ」という点が考えられる。なるほど、「フォントいじり」気の無い、無機質な文字がつらづらと並ぶこの文章と比べれば、手軽で・単純で、あっけからんとした趣のある「フォントいじり」を駆使したサイトの方が肩もこらないし。さらに読み易いし
<楽しい> という評価を下す人はいるだろう、無論その逆もある。私個人のことを申せば後者の位置におり、「フォントいじり系」の極北を今も尚目指し続けている。
私のサイトが、『侍魂』を知った後にテキスト系に移行したのは2001年の3月頃。「フォントいじり」へ本格的に傾倒し始めたのが同年の6月前後と記憶している。『侍魂』のデザインフォーマットを引き継ぐ『女帝』と交流が深かった同年の9月~11月頃にかけては、私のサイトにおける「フォントいじり」のピークだった。私のサイトで「フォントいじり」がピークだった頃は、先にも述べたように『女帝』の影響が多々あった。それに加えて、当時のテキストサイトは笑えるネタ・痛いネタを全面に押し出すという風潮があり、私の中にもテキストサイトはその風潮の如くあるべき! という妙なイデオロギーが存在していた。
よく、平成バンドブームを称す際に使われる「空虚なイデオロギー」と似たような、「いかに面白おかしく表現するか?」という思想も、表現欲も、技術鍛錬にさえも盲目になりながら、妙で空虚なイデオロギーに突き動かされるまま、私は無意識にフォントいじりへの傾倒を開始していた。参考例として、2001年当時の過去ログを一部分抜粋してみよう。
ちなみに上野の常磐線ホーム着いたのが
9:40分 発車案内が
8時37分で 止まってるのはこの際気にしないです
振替輸送で結構どたばたしてるんですが、関係無いです
目的地で人身事故なもんだから輸送しても無意味です(死) 「フォントいじり」への傾倒期から私のサイトを見ている人は、「今の日記(2003年前後)スタイルもまぁ、悪く無いけど、昔の方が勢いがあって楽しかった」といわれる事がある。確かに、本稿(「再考テキストサイト」)の草稿を書いていた003年頃は単純なフォントいじりよりも、「フォントいじりを用いない論理性のある文章で勝負が出来るか?」という点を意識しいた。今と比べれば、若かったし文章力も名状し難い程に拙かったが「若書き」と言って済ませられるレベルでも無かったため、大口を叩いていた当時を回想してみると、少々複雑な気持ちに駆られることは多い。
フォントいじりを配し、純粋な文章を追求し、「文章だけで勝負が出来る真のテキストサイト」という妙な理想を模索し始めたのが2003年頃だった。その結果「内容がわかり辛い」という意見が多くなりはしたが、単純で空虚な文章を「フォントいじり」で誇張し続けていた頃の日記やテキストよりは納得のいく内容――先にも述べたように、<拙い>では済まない程に酷い内容なのだが――に、当時としては仕上がった。そのため、「フォントいじり」時代の閲覧者から「つまらなくなった」と言われようとも、私自身としては満足した文章を書く方向へと変化していった。しつこく繰り返すが「当時のレベルでは」の話だ。
2006/05/18(木) 01:47:10 |
再考テキストサイト
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ちょっと前、尾崎豊。最近カート・コバーン。音楽を題材にして卒論やレポートを書く学生に多い題材。総体としてのジャンルや現在進行形な連中―ディランはポピュラァなテーマで良く使われる―よりも、死して伝説となったスタアは何故か題材になりやすい。渋谷のタワーレコードの街頭ビジョンにて、カートをテーマにした『ラストデイズ』のCMを目にした際、ここ数年やたらと街中でみかけるNIRVANAのバッグやTシャツよりも、もっと名状しがたい居心地の悪さ――ブリーフを履いた際の収まりが悪いペニスのような違和感を感じたボクは、アンチ・コマーシャリズムなんて神話をガキみたいに信じているのかもしれないね。
そして、話を戻すのだが皆NIRVANAばかり! SONIC YOUTHが(´;ω;`)かわいそうです。カートやディランをモチーフとして文化とアイデンティティを絡めた形で云々するっていうのは、文化素材とアイデンティティの関わりについての一例を課題として発表するゼミでの一コマ。大学に入ってすぐの頃、2001年頃かな。図書館で初めて借りた本が『誰がカートコバーンを殺したか』だったりする。懐かしいよね。そういや、ずいぶん前の世代で、やはりカートについて卒論を書いた先輩が居たという話を今更になって思い出したよ。
そして、更に話をゼミの所まで戻す。良い年こいた院生(=オヂサン)はゼミの方には聴講参加につき特にこれといった発表はしない。今のところ。かといって、ゼミの主役はやはり3年生のため、中年がでしゃばってはいけないし若者のためにはならぬ。従って、議論の質疑応答を焚きつけたり、造詣の深い分野
テーマとして考える学生対して参考文献を指示したり、啓発を行ったりするのがメインです。まぁ、ちょっとは院生らしいトコロを見せるべく、ゼミ内で追々何かを発表するのです。
ところで、アイデンティティを巡る作品というと、やはり『アイデン&ティティ』になる。他者からの承認や、理想的自己像なんかを切り口にするなら、鏡に映る自己論に相応しいHPラヴクラフトの「アウトサイダー」辺り。と考えていたが、『アメリ』のヒットによるアルバトロス・フィルム(B級エログナンセンスやバカホラーに発掘に使命感を燃やす熱い会社)の一件。アルバ&熱心なファンと、『アメリ』にだけ熱心なファンにおける、映画観のズレ―『アメリ』っ子から会社に苦情か殺到した―における、アルバ &アルバっ子のアイデンティティ云々についてやろうかと思い始める。
やっぱりね、お約束やB級哲学が累積した近年の映画。ハリウッド文化帝国主義が支配的にある近年の映画には、キャンプにこそ美学があるよね。『アンデッド』のパンフレットに書かれた、監督キョーダイや「映画を愛するけど少しヒネたその他大勢」による映画に対する熱い思いを読んで、その美学を改めて実感した。
2006/05/18(木) 00:39:26 |
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この、「イギリス語」とアメリカ資本(ドル)による帝国主義時代において、我々は何ように行きるべきであろうか! 否、敢えて学外でも素晴らしき文化帝国主義の劣兵たるイギリス語を学ぼうとする私の行為は、戦略的イギリス語学習である!
何故ならば、イギリス語が出来ないとアングロサクソン・文化帝国の産物である
を題材にした著作活動が出来ない=職を持てず飯が食え無い=社会的な承認が得られない=ゲシュタルト崩壊=酒が飲めない人生オワタ。という段階を踏むからな。 というのは、外国人なら! とかのたまう連中の発言における「外国人」の中には、大抵の場合〈特定なる肌の色しか含まれていないのでは?〉と懐疑するボクの、ヤツラに対するスタンスというか「気取り」なんだろうな。いわゆる中2病。 さて、イメエヂとしてしかフランスを理解していない―むしろ消費できない輩の前に「黒い皮膚と白い仮面」で武装したフランス人が現れた場合、彼人は、無知「それ自体」に対する無知といふものを自覚できるのでしょうか。とりあえず、課外の「英」語学校でスパルティックに啓発されてきた―しかも識字オヨビ読解能力のみ。今日から。速読課程で。
2006/05/10(水) 22:53:49 |
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昔の偉人は「我々は何のために学問をするのか?」と問いました。とりあえず、我々の立位置や文化の特質を定義し他国と比較すること。という、人文社会科学の文脈に則った解答はできうる。
ジャーナリズムについては、今起きている事件を一先ずは国内に向けた形て体系化し知らせることが命題である。学問的命題に基づいた特質比較を重視するジャーナリズムも勿論ありうる。しかし、私は人様に自己紹介をする際は社会学に身を置き、英国流儀のカルチュラル・スタディーズに片足を突っ込みつつ、文化研究―毒や先鋭さや、ギラツキなどが消え失せた〈カルスタ〉はその範疇に考える―を担うという因果な立場上、アカデミック(作法や伝統・儀礼に基づいた世界)とジャーナリズム(センスや情報リテラシーを旨とする)両者を行き来するワケになる。
しかし、ジャーナリズムを享受するだけで十分な層がアカデミズム的な作法や方法論を求めているワケでは無い。まあ、「B!誌」やCDガイド諸誌の内容に表現や文章力の云々から始まり、実証性や意味性―特に文化現象が、時代時代の社会とどう関わり、様々な分野でどう語られ、批評されてきたかの記述を求めること自体がナンセンスである。さらには、そういった回りくどい言説は、多くの読者に求められてもいないと言うことだ。但し、ジャーナリズムでありながらもアカデミックが注目するような領域に十分切り込んで行く書物―特にポピュラー音楽研究においてが、欧米では非常に充実しているのは事実であり、書き手・読み手を含めた我々の怠惰さ・視野の狭さを自省すべき点でもある。
追い付け・追い越せ的な西欧優位的な言説はナンセンスだと考える私だが、この点ばかりは一読者として。一メタラーとして―私の主分野がメタルであるため―狂惜しい程の嫉妬心に駆られてしまう。あの忌々しい。ファッションパンク的不埒者を付け上がらせる「ギャルメタラー参上」なぞという噴飯企画を始めた、ファンジンなどを除けば国内で唯一、メタルの情報を得られるB!誌と、海外の文献や雑誌を比較せしめると、私の嫉妬は募るばかりなのだ。メタル好きはメタル好きで良いではないか! 偶像で括る言説には不埒な姿勢しか感じ得ない。
中途半端なミーハー精神は、メタル魂のオーセンシティティ足りえない。あからさまな商業主義を忌避することが、メタルのイデオロギーであるということは良く知られている―J.Harellの「Poetics of Destruction」などを見よ。
いつになく主観的要素が強い文章だが、アカデミズムとジャーナリズムの中間点を迷うものとして。引いては一メタル・ヘッドとしては、込みあげる感情を押し込むことはできないのだ! くどい閑話は休題するが、客観性を欠いた語りはまだまだ続く。
<装い〉としでてしかパンクという、音楽だけでなく幅広い要素を内包した<文化>を消費できない、不埒なファッションパンクスが「彼の先駆的研究書」を読まないのは「当然」として。『Doll』を愛読し頑固なパンクスタイルを追求する真面目なパンクスでも、パンク文化についての先駆的研究書であるD.ヘブディッジの『サブカルチャー』を熱心に読みふけること少ない。それこそ、ジャーナリズム側が率先して、アカデミックな領域に誘導でもしなければ、ジャーナリズム側に身を置く読者がアカデミックな書物を手にとるという現象が増えることはないだろう。
海外のメタル雑誌『METAL HAMMER』にQUEENのメンバーフォトを模した『魁!クロマティ高校』のアニメ版DVDが大きく掲載されているという、この文化的混沌という現実を目の前にして、ジャーナリズムは、アカデミスムは、どのような言説対応をするべきか。
とりあえず何か仕事を!この際アカデミズムもジャーナリズムも関係なしに。明日の酒代に文献代にCD代になる知的生産業を掴むきっかけを! そして私もアドルノ先生的な真面目/ 不真面目という、文化二分法に陥っているではないか。これだから、「フランクフルト学派」を学ぶと、天邪鬼的思考ばかり身についてしまい、ロクなことがない! だがそこが良いのだ!
2006/05/08(月) 00:11:09 |
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アンドレ・ブルトン。シュルレアリスムの創始者であり宣言者として良く知られた人物である。また、澁澤龍彦がサド侯爵殿を筆頭とした西洋文化を、書物を介して万華鏡の如く魅せられたことから「アンドレ・ブルトン先生」と呼ぶ人物である。
私には澁澤龍彦からの影響を公言してはばからない知の師がいる。師によって、澁澤龍彦・西洋美術―師に連れられていった2005年のレオノール・フィ二展の衝撃は、私の人生を大きく変えたといっても良い出来事であった―球体関節人形。その他諸々を教授された私は、一方的であるが澁澤が呼ぶところの「アンドレ・ブルトン先生」に習って、「<私にとっての>アンドレ・ブルトン先生」と呼んでいる。澁澤によって様々な西洋文化を案内された師にとっては、澁澤がアンドレ・ブルトン先生であり、澁澤の影響下にある師によって、澁澤がブルトン先生に。師が澁澤に案内された文化を私が案内されたことから、私は最大限の敬意と謝辞をこめて、自分勝手にではあるが、師を「<私にとっての>アンドレ・ブルトン先生」と呼んでいる。
師からは、先にも申したように幅広い西洋文化―とりわけで美術を中心にしたものーの愉み方。並びに、性行場においての首の絞め合いまで。幅広い教えを授かった。加えるなら、当人はいつも口癖のように「好き勝手なことをやる・言うだけでしてよ?」と言う。つまるところ、私が勝手に啓発され、彼女を師と公称しているのだが、彼女自身は「何かを得ようとする人間に対しては色々なものを紹介したい。ただ紹介するだけ」ということも仰っており、奇妙な師弟関係…とも呼べ無いような関係である。だが、師は紹介物に対して自分の感想を先に述べることは無い。常に、相手が作品や文化から何を思ったのか・何を読み取ったのかを伺っている。その感想が下らないものなら、いつも即座に関係を切る。というのは師の弁であるが、実のところ、私自身もツマラナイ感想を言い放ち、いつ首を切られるのかという点を考えてヒヤヒヤすることが多い。
再び、師のことを申せば、ニーチェが言うところの「超人」に近い世捨て人である。また、いづれ私が述べるであろう「」の取れた〈女〉を限り無く体現された御人である。基本スタンスとしては、気の向かない限り、外界と接点を持たない方である。
長い間一切の交流を持たなかったにも関わらず、忘れた頃に「最近、少年犯罪報道が増えてきているけど、JUNKさんはどう思う?」と送ってくる御人だ。また、久方振り―今年初めて連絡があったと思えば、携帯キャリアがvodaからauに変わっていた。無論、アド変更の知らせなどは無く、件名には名前を。内容には「ブラド美術館展が開催されているらしいわね」の一言が。素晴らしく合理的であり、一方的に師と呼び続けるに相応しい一言である。しかし、私が異性に対し。いや、同性に対しても、そのやうな殺伐した姿勢を取れるかは疑問である。
だからこそ、冒頭でしつこく書いたように、私は師を。澁澤を敬愛し、自らの思想源流に位置付け、熱っぽく語る〈御人〉を。澁澤の言をパロディした形で「私にとってのアンドレ・ブルトン先生」と称し、敬い続けるのだ。
2006/05/04(木) 22:25:42 |
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