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続・JUNK屋日誌

blogへのテラ・フォーミング(2005/12/17)。遂に時代の流れには逆らえづ、本サイトの日記のみをblogへ移行。

CANNIBAL

 真昼間から、映画にはコダワル友人と『食人族』(1981,伊太利)を観賞。アホだな俺ら。やっぱり伊太利亜といえば『ゾンビ』か。一応亜米利加も加わっているが。とりあえず『食人族』だな。公開当時は『ブレアウィッチ・プロジェクト』に流れ続く、セルフ・ドキュメンタリー形式の作風によってか、映画が事実か否かを巡る論議―特に、あの有名極まりない「串刺し女」―ばかりがセンセーションを呼んでいたと聞く。

 内容については、トホホなB級映画戦線を「それなりに」潜り抜けてきた我々が、余りのダルさ加減―残虐シーン肩透かしや展開の単調さなど―に幾度となく途中で止めようかと思ってしまう程だった。しかし、「(ダメ)映画通」への通過儀礼として、最後まで観賞しなければという妙なイデオロギーに駆られ、不本意ながら退屈を押し殺し、最後の陳腐な台詞までを見届ける結果となった。

 さて、多様な情報へのアクセスが容易であり、作品情報や批評を踏まえた上でこの映画を見てみると、食人表現の残虐性云々よりも―劇中の残虐シーンは、かなりチープである。その上、先住民たち食人シーンが明確に描かれていない点と相対的に強調される白人たちの残虐性や、しきりに「ホワイト」を強調する台詞の端々から、様々な批評点が考えられる。

 まず、日本においての語られ方。それ自体が、この作品の語られ方を日本独自のものにしてしまっている。つまり、「過激な残虐作品」という評価だけが一人歩きしているという点を、強烈な肩透かし感と共に感じた。

 作品の原題は「CANNIBAL HOLOCAUST」である。原題自体には「食人族」による虐殺(ホロコースト)、「食人族(と定められた者たち)に対する虐殺」の二重の解釈が出来る。しかし、邦題の『食人族』は、そのような解釈性を台無しにしてしまい、非常におぞましい作品であるというイメージに華を添える格好になっている。「ORGY OF THE DEAD」が『死霊の盆踊り』にるような邦題の被せ方は、作品のトホホ具合を非常に良く体現している。しかし、『食人族』の邦題については、先にも述べた通り「本作品はフィクションである」という前提を踏まえた上では、いささか不釣合いであるようにも思えてくる。


 「おそらく世界中どこでも、食尽にまつわる幻想は人類の歴史とともに古いのではなかろうか。自分とはまったく見かけも収監も異なる他者と遭遇した時、相手が食人ではないだろうかという恐れが生まれ、あるいは逆に無理してでも食人を装うことによって相手を威嚇する。たとえ食人を習慣としていなくても、勇気や抵抗を見せ付けるために食ってみせるということも、もしかしたらあったであろう」(本橋哲也,2005,『ポストコロニアリズム』,27頁)。


 先にも述べた様に、劇中においては見せ付けるような―それこそ、先住民たちが如何に残虐であるかを刷り込むシーンは少ない。ただし、部族間の抗争や懲罰として、探検隊である白人側や観客からみれば残酷と呼べるシーンはある。では、劇中の先住民たちを「カニバル」として定義づけるのは誰かというと、やはり白人の側である。また、歴史における「カニバル」という言葉が、どのように旅をし、「食人種」から「他者の野蛮性を告発する」言葉や「植民主義を正当化する道具」として使われ方が変化してきたかについては、上記の文献を参照されたし。

 劇中に話を戻すが、白人の撮影班たちは「野蛮人」「カニバル」と規定した先住民たちに暴虐の限りを尽くす。言い換えれば、<食人のタブーを犯さない文明人である白人>が<食人という野蛮な行為を行う非文明人の有色人種>を「悪」と見立て、正当性を後ろ盾とした暴力を行使する。単純な善悪図式を踏まえた上で、<正義>に位置する白人たちは、最終的に先住民の逆襲に遭い虐殺されてしまう。そして、映画のラストは、「真の野蛮人は…」という、二項対立で残虐性などを語る際のクリシェが恥かし気も無く披露される―最後のクリシェを使うことで、作品が酷く嫌悪感溢れるものに感じてしまうのは、監督の狙い通りであろうか?―のだが、白人による白人に向けた映画作品として『食人族』を考えてみると、非白人である私にとっては中々興味深くもあり、嫌悪を感じ、白人によって作り出された「カニバル」として劇中の先住民を捉えるなど、妙な視座を確保してしまった。

 映画の手法。フィクションとリアルの映像を織り交ぜることにより、観客の感覚を鈍らせるという点や、残虐なシーンで、敢えてのどかな音を利用したりなどは、今回語べきものではないので触れないでおく。そもそも、『ゾンビ』のような社会風刺的意図が含まれているとも、単なる露悪趣味であるとも解釈し辛い本作品を真面目に語ること自体、ナンセンスであるのかもしれない。それよりも、非常に気になる『食人族3―食人族VSコマンドー〔CANNIBAL HOLOCAUST : CANNIBAL VS COMANDO〕』を観賞し、そのキャンプさ加減に大爆笑する方がよっぽど健全であるな。

 『食人族』の「映画としてのグタグダさ加減」に、気が滅入った我々が放った捨て台詞と言えば「やっぱり(今日見るのは)『死霊の盆踊り』にしておけばよかった!」という、トホホな一言だった。
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  1. 2006/04/29(土) 23:50:14|
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mixi(株)と広告の分析

 周知の通り2006年2月、mixiを運営していた「(株)イー・マーキュリー」社が「株式会社mixi」に社名を変更した。丁度その頃からだろうが、バナー広告ではなく、mixiのログインページに堂々とした広告が掲載されるようになった。私事を申せば、自宅環境ではfirefoxにmixiツールバーを搭載してあるので、ログインボタンのクリックと広告の視認という二重の意味で煩わしいログインページを目にしなくて済む。しかし、研究室のパソコンでmixiを使う際には煩わしいログインページを通過しなければならない。このblogを書いている現在も研究室からなので、あの煩わしい広告を目にしてきた。付け加えると、mixiのオープン(2004年3月3日)以前から、イー・マーキュリー社は広告の掲載のPRを行っている。

 mixi社の公称では300万人を超えるユーザーを抱えるmixiであるため、mixi内に広告を打つことによる効果は一見すると多いように見える。しかし、正確なデータは無いのだが、ユーザー、特にヘヴィ・ユーザーの多くは携帯からのアクセスが多いのではないかと考える。私自身も、更新は殆ど携帯からであるし、閲覧・巡回も殆どが携帯からである。広告はPCからのログインページのトップにくるので、携帯からmixiにアクセスする際には、冒頭で苦言を呈してきた煩わしい広告を目にしないで済む。これはハッキリ言って快適である。

 mixiユーザーがここまで拡大した理由の一つに、携帯電話からの容易なアクセスが可能であるという点を否定する者はいないだろう。だからこそ、数値の大小のもを単純に見て、「素晴らしい広告効果が期待できる!」と考えるのは愚鈍であり、尚早でもある。しかし、広告を打つ会社が<どのような対象や購買層>を想定しているのか? という点を考えてみると、様々な論考が起こりえる。まず、テクストとして、今現在mixiのログインページに表示されている広告を分析してみよう。今現在表示されている広告は「丸井のバーゲンセールに関する告知広告」である。

 内容は、どこかアンニュイな雰囲気をした女性を前面に配したシンプルであり、バーゲン名は「Brand Fair Fly Me To The Resort」である。なるほど、特に「初夏のおすすめ最旬アイテムをご紹介」と題されているように夏のリゾートを意識した広告であることを理解するのは容易い。モデルの女性も半袖で、明るい色使い―夏を過剰に主張するイメージではないが―のワンピースであり、初夏の涼しげイメージを思わせる。そしてお定まりとも言うべき「ブランドフェア」という<売り>である。

 今回は、ブランドの云々―大衆に広く知れ渡った高級ブランドや、大衆的な高級ブランドを前に見据えた際に、その真正性やブランド自身のアイデンティティ・ブランドを身につけ<装い>を行う物のアイデンティティに与える差異性は問題にしない。しかし、「ブランド」という言葉を前面に打ち出す広告というクリシェには、一先ず注目して良いだろう。

 モデルの女性自体は、とりたてて男の性的欲望を喚起するような女性性を持っておらず、アンニュイな雰囲気と相まってか―男性である私の視点から見る限りではユニセックスな風貌すら漂わせる。それらの点からも、バーゲン自体が丸井の店舗的性格を抜きにしたとしても主用なターゲットを女性に向けていることが想像できる。


 「もともと女性にも安心して使ってもらえることを意識して作ったサイトということもあり、比較的女性の割合は高かったのですが、現在では男性対女性が6:4。直近では半々に近い数字になってきましたので、通常の社会と変わらなくなってきたと思います」(mixiの達人クラブ,2005,『mixiでこんなことまでできた!』,204頁。イーマーキュリー代表 笠原氏のインタビューより)。


 という発言にもあるように、女性に対してのマーケティングを行う際に、mixiが持つヘゲモニー(優位性や支配力等)は非常に高いと言える。勿論、女性が消費を牽引するといったクリシェを踏まえて上でmixiに女性をターゲットとした広告を打つことが成り立つ。だが、80年代後半からクリシェとして信じられ続けてきた―トレンディドラマ、いわゆる「月9」の人気がそれを裏付けてきた―女性による消費の牽引は、今尚クリシェとして通用しうるのか? という懐疑が私の中にある。しかし、その懐疑をあざ笑うかのように増え続ける「電車の女性専用車両」や、北海道でセンセーションを醸し出している「(宣伝文句として、その点を強調する)女性専用パスタ屋」など、女性を主要な顧客ないしは、ターゲットとして認識する傾向はまだまだ根強い。

 「視覚的人脈の手帖」においても書いたが、女性ユーザーの増加により、様々な「あざとい」現象がmixi内で顕在的になり、mixiに対する「知り合い系」という建前染みた言説も、確実に崩れつつある。そのような背景の中で株式会社となったmixiが、この先、どのような転回/展開を見せるのかという点は、非常に興味深い。
  1. 2006/04/24(月) 19:17:29|
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ヤップ・ブログ

 Ich lerne Deutsch. ドイツ語始めますた。授業が始まって以降、シュトルム・ウント・ドランクな勢いで一週間が流れていくのです。日々啓発に喜びを見出す日々。

 そして、博士課程を見据えた際に求められる第二外国語のためという口実がありつつ―芸術・メタル・軍隊・文化・ビール等、その他の領域において、毎度毎度敬愛する文化がドイツ産であることにより、ドイツに対する敬愛の念は募るばかりであった私が、遂に念願のドイツ語を学び始めたことにより、これで、シュトルム・ウントゥ・ドランクに対し、「疾風怒濤音頭」とか何かとアレな解釈を持たず、正しい解釈を持てるというモンです。むしろ、ヤップのブログ略して「ヤプログ」か。そう、問題としてはだな、だいぶ前に知人から『家畜人ヤプー』を借りたのは良いが、1~3巻のつもりが、3~5巻辺りだったというオチ。読み始めたら、主人公は既にヤプーとして使役され、チン棒も作成済みという・・・・で、3巻自体も読破せぬまま、気づけば積み本に加わっている不思議。そして本題はヤーパン・ブログ。

 本日は図書館の新着棚にて『頭のいい人のブログ 頭の悪い人のブログ』というホホな本を見付けた。世も「まつ」ですね。目次をみた限りの内容は、此処で連々語る程の内容ではない。と書けば、大方の予想はできるだろう。それ程のblog本を読んできたわけではないが、blog関連の本で私が評価しえる―資料的価値や、本の中で展開される批評が客観的であり、読む・人に勧めるに値するものは鈴木芳樹,2005,『スローブログ宣言!』程度しかない。本書は「侍魂以降のテキストサイトブーム」についても、ブームの最中に世に出された『テキストサイト大全』よりも批評性を持って記述されている点を特に推している。まぁ、『テキストサイト大全』と『スローブログ宣言』を併せて参照することにより、私が頻繁に回帰する「テキストサイトブーム」の一端を把握できると思う。

 「アマゾン」の和書検索で「blog」を検索すると、約150件程の書物が引っかかり、前述のような「世も『まつ』的なblog本」まで登場する国内のblog事情は、確かに「まつ」といえば「まつ」なのだ―「世も末」ではなく、「まつ」と書く辺りに悲観ではない失笑的なニュアンスを感じて頂きたい。しかしながら、「まつ」状態な国内blogに比べ、bloger諸個人の志が高く、ジャーナリスティックな内容が大半を占める海外blogは総じて素晴らしいなぞと厚顔無恥に叫ぶ、紋切り型極まり無い一般論を申す気もない。

 たかだかblogの日米優劣を競いあい、国内blogerを叱咤・啓発したところで、マスレベルで国内blogerの意識改革が起こるはずもない。所詮、国内におけるblogはモードの一変種。浮気なボクらのアイデンティティを構築する一要素でしか無いと私は感じている。国内に氾濫するblogは、その殆どに表現欲求や主張が感じられない―尤も、私の視野と美的経験においての話だが。それら、志が真空状態にある諸blogは自己開示や承認欲求という、マス・メディアが中心となって発信するメッセージ―blogを主軸としたマス・コミュニケーションの一帰結と言っても良いだろう―の陳腐なイデオロギーに踊らされているに過ぎない。だからこそ、頭の良い人は『頭のいい人のブログ 頭の悪い人のブログ』のような本を読み、blogを媒介としたアイデンティティ構築に励むのだろう。

 内容こそ酷く下らないのだが、何かの衝動に突き動かされ続け、一サイトオーナーとしてシーンへのコミットメントと帰属意識。そして熱狂を続けてきた「テキストサイトブーム」も、空虚と言えば空虚だった。しかし、ブーム期には『侍魂』をヒエラルキーの頂点に据えた「中心・お手本」的なサイトが数多くあった。それらのサイトに対し、新たにテキストサイトシーンにコミットメントを果たしたサイトオーナーたちには「憧れ」や「模倣」を出発点としながら自己鍛錬をするサイトが数多く見られ、立身出世を果たしたサイトも数多くあった。しかし、このblog―即ち、『続・JUNK屋日誌』には、書きたいことも、空虚な表現欲求も、確固テーマも、多くのテキストサイトサイトに見られてきた定式的ネタも。加えて、偶像として機能しうる、親しみ易いキャラとしての自分語りもしないという話だ。

 だが、先に述べた諸要素―その多くは、2001年にテキストサイトへ転身して以降の数年間でやり尽くしてきたものである―を排したblog更新し続けている私もまた、アイデンティティを構築するゲームから逃れることができていない。むしろ、国内blogシーンへの嘲笑を行い、氾濫するblogとの差異を演じ、アイデンティティを構築する一要素と<戯れ>ているという点には、私自身が強い自覚を持っている。

 

 
  1. 2006/04/19(水) 21:57:21|
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例の大家族

 近頃、テレビで話題をさらっている、埼玉の父子大家族の捏造を巡る問題がフレィミング〔framing〕しているようで。いつ頃からかな、かなり前からニュースの時間以外にテレビを見なくなったワタシには、「え? そんなのが話題になっていたの?」というレベルの認識であった。

 ニュース以外のテレビを見なくなって以降―つまるところ、現在的な話題としての機能しか持たない情報の殆どをシャットアウトすること―情報源と言えば電車の中吊り広告と2ちゃんねるという体たらく振り。しかし、捏造か真正かという議論を眺めてみると、つくづくと、リテラシー能力の欠如と最早オールド・メディアであるはずの「テレビ」が持つ影響力―無論、マス・メディアの影響力が一方的に広まっていくはずも無く、件の大家族番組に対する捏造論や批判論が取り沙汰されて当然である。しかし、失笑を禁じえないのは影響力を直に受け取ってしまった側の狂信的とも言うべき姿勢である。嗚呼、私が嫌悪するところの「盲目的な大衆」を絵に描いたかの様な。

 家族。とりわけ、苦労を重ねる「大家族」に加え、「愛」や「道徳」を重んじたドキュメンタリーには、常に免罪的な正当性や、内容を問わずに一切合財の批判を禁ようとする醜悪なイデオロギーが付きまとう。イデオロギーに突き動かされる側を「リテラシー能力の決定的な欠如」という一言で片付けることは容易い。しかし、私のような気質を持つ社会学徒としては「何故、愛や家族というものが神聖視されるのか?」「テレビ・メディアが、免罪的ドキュメンタリーをゴールデンタイムに放送することは、単純な視聴率稼ぎの他にどのような政治的意図を含むのだろうか」「何故、疑いの強いドキュメンタリーに対し懐疑的になっていけないのか」等といった問題意識を持つ。

 私自身のことを申せば、澁澤龍彦的野次馬精神で、盲目な大衆と懐疑精神を持ち始めた大衆との正当性を巡る争いを観察し、マス・メディアと免罪符的な要素に含まれるコード―先に申したように、筆頭としては「愛」や「家族」であるが、そこに「母性本能」という、社会学が真っ先に批判の矛先とする醜悪な概念も付け加えておこうか―が、如何に読み替えを含んだデコーディングが成され、どのような意見が噴出するのかという点を観察し、意味性を考察する。さらに、澁澤龍彦と似たような匂いを醸し出す旅行者・哲学者である「アルフォンソ・リンギス」のように記述してみる―尤も、それは理想論であるが―することばかりに興味をそそられる。


◆参照
・大家族を巡る盲目派・懐疑派の発言がまとめられたサイト
  1. 2006/04/15(土) 18:46:43|
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視覚的人脈の手帖

 私の周りではmixiかな離れていく人間が目立ち始めた。その一方で、街で、店で、学校の講義室においてまでも。しきりにmixiの話を耳にすることが多くなってきている。特に、一番興味を惹きつけた話は居酒屋においてのこと。blogの方で書いたかは覚えていないのだが、私はmixiに対する無批評な賞賛―まぁ、mixiに対してのことではないのだが―を酷く嫌悪し、木ばかりを取り上げ、もっと顕在的な「森」を黙認しながら安っぽい口実を用い、健全さをアピールする姿勢に眉を潜めるのだ。私の嫌悪した「木」と森について、少し説明的になるが記そう。

 毎度の如く、酒を飲みながら読書をしていた私の隣席にいた今風の若者たちの会話からもmixiが出てきていた。mixiはどのようなものか? という説明は実に単純明快な「業者の少ない出会い系サイト」というものだった。実に失笑を禁じえないのだが清々しい。先に述べた「木」ばかりを取り上げ、若者たち、つまりは「大衆」や「にわか層」が持つ認識である「森」の意識を黙認・周縁化する言説というものを次に紹介してみよう。


 「もともと女性にも安心して使ってもらえることを意識して作ったサイトということもあり、比較的女性の割合は高かったのですが、現在では男性対女性が6:4。直近では半々に近い数字になってきましたので、通常の社会と変わらなくなってきたと思います」(mixiの達人クラブ,2005,『mixiでこんなことまでできた!』,204頁。イーマーキュリー代表 笠原氏のインタビューより)。


 実のところを申せば、笠原氏自身の発言では「森」も「木」も見ていないのだ。では、その言説は誰が捏造しているのかといえば、上記の引用元を筆頭としたガイドブックの類である。

 私のスタンスを少し語るならば、反大衆的に加え既存のジェンダー構造―特に男女間における所有と従属の関係。性的主体としての男性象という虚構に支配される男。性的客体に追いやられることを被害者意識と混同し、神経質にわめき立てる女性言説などを滑稽と評しつつ、何故かしら女性との交流ばかりが多い。

 つけ加えて、私が交流を持つ女性の殆どはロマンティック・ラブイデオロギーに懐疑的であり、リベラルとまでは行かないが、積極的に性を語る女性たちである。そのためか、性や恋愛というものを語る際は男性的ではなく、女性的―それもフェミニンともリベラルとも規定しづらい位置。敢えて、自己規定を行うならば「グラデーション的な性言説」の中間点に立脚し、性の神聖視を嘲笑する澁澤龍彦的エピキュリアンとでも言っておこうか。そのような立ち居地で性言説を語る。なお、澁澤龍彦の性哲学が私の考えはイコールで結ばれないが、便宜上。むしろ、私が敬愛しているからこそ、私の言葉で規定するにあたって「澁澤龍彦的」という自己満足的冠詞を付け加えたことを強調しておく。

 そのような立ち位置に居る為、ある種の「あざとさ」に対して敏感に反応することが多い。「あざとさ」には、森を隠蔽しようとする、無批評な賞賛も含まれている。それら、私が苛立ちを隠せない文脈たちに対する、私なりの嘲笑を如実に表しているのが、「mixiの出会い系化」が顕在的になってきたことに対して、mixi内で軽く綴った下記の文章だ。感情論的な若書きであったので、かなりの添削と推敲を加えてあるが。

 
 「mixiは「知り合い系」と称されることが多い。mixiの素晴らしさを称賛するのみに徹する書籍においても、しきりに「出会い系とは違う」と言う点が強調される。 一方、「出会い系ではない」という点を妙に強調するあたり、mixiの称賛に徹した本の著者たちを含めた参与者たち―mixiに関する帰属意識が強い層と解釈できようか―の政治的な意図を感じ取ってしまう」


 mixiは売り文句の一つに、「安心感」や「女性参加者の多さ」といったものがある。しかし、「安心感」が高く「女性が多い」という点。さらに、コミュニケーションを取ることの手軽さ(オフでの会いやすさを含む)があるという事実を。それらの事実によって「出会い系(広狭を含む)」的な性質を実際に帯びており、前述のような認識が広く知れ渡っていることを否定する時点で、「知り合い系」という分類にmixiの正当性―というよりも、mixiに対して強い帰属感を持つ者たちが、「健全さ」や「神聖さ」といったアイデンティティ構成に関わる一部分を強化し自己高揚を行うための手段として用いているように感じることが、私の感じる「あざとさ」なのであろう。

 結局のところ問題はmixiのシステムではなく、様々な思惑を秘めてmixiという箱庭に参与してくる者たちの意識に依ってしまう。然し、何度も繰り返すようだが、手軽さ・安心感などのポジティブな側面が売りとなり、mixiが「出会いやすさ」を助長している点は明白であり、mixiの会員数が拡大し、マス・メディアに取り上げられ、再び会員数が増える。そのようなダイナミズムの過程において、日に日に「業者の書き込み」や「出会い系サイトへの誘導を目的としたアカウント」が目に余る程増えているこの現状を、(ネガティヴな意の)「出会い系」と言わずして何と言うだろうか。

 尤も、mixiに対しての帰属意識や所属感―そのようなものを一切感じていない私としては、mixiが「出会い系」だろうと「業者の巣窟」であろうと関係が無い。ただ、観察対象となりうる様々な事例や、知を狩猟するための指針となりうる情報。興味関心を持つ人物との接続などを得るという点においては、非常に有益である。恐らく、mixi内における醜悪な惨状を見なかったら、下記に引用する一文は書かなかっただろうし、先に述べた「澁澤龍彦的エピキュリアン」思想を体系化することは無かったかもしれぬ。何故ならば、交流を持ち女性が主体として性に向き合うことについての議論を重ねてきた女性の大半が、mixiを経由して知り合った関係であるからだ。

 
 「どうも近頃、mixi内で出会いパーティの参加者募集が目立つようで。それらの催しは「売り」として、参加者たちの出身・在籍大学名をやたらと強調する傾向がある。面白いのが、男の方は「東大、早稲田、上智」。対し、女の方は「白百合、大妻、フェリス」等々。ものの見事に学歴のジェンダーが見て取れる。
  
 マス・メディアにおいては、高学歴を有する女性の出身大が強調され、売りにされる。売りは軒並、六大学であることが多い。だが、先に挙げたようなパーティに目をやると、男は高学歴―経済資本の同義語として用いられる『教養』を、高く保持することのメタファーとして解釈しても良いだろう―が強調される。女においては「極端な女性性」や、男の目に写るブランド―○○出身の女を「モノにする」ということで、自己実現・自己称揚・他の男に対する差異化/優越を得られる可能性との出会いが強調される。」




  1. 2006/04/11(火) 13:37:24|
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懐古の桜の満開の下

 昨日の話、『女帝』が顕在していた時代からの旧友―まぁ、どどのつまり「もっこり侍」氏と花見をしながら、「漢道オフ」やら「関西女帝オフ」やら、関西から戻ってきた直後に起った911テロやら。ついでに、一番楽しかった頃のテキストサイト界隈についての懐古で飲んだくれながら、昨今の、紋切り型の内容が氾濫するblogについても色々と云々してみる。

 テキストサイト全盛期は、新たな参与者たちがお手本にし、憧れる大手やシーンの中核を成すサイトが顕在的だった―『侍魂』を筆頭に『裏MIZUHA』『兄貴の館』『ろじぱら』etc.というか、当時の大手の名前がパッ! パ! と浮かばない辺り、自身の、テキストサイト界隈に対する熱が如何に冷めたかを物語るような気もする―たこと。加えて「テキストサイト」の名を掲げる以上、文章を書く・誰かに公開をするという意識が、備事録・メモ的な性格の強い日本のblogとの差異であった。尤も、当時のテキストサイト群も、非常に数多くの紋切り型が氾濫していたが、「文章を読んでもらいたい!」という、初期衝動的なものが蔓延していたためか、その衝動が私を含めた新興のテキストサイト管理人たちの、テキストサイトシーンに対する熱狂を促していたのだろう。

 テキストサイトに転進してから足掛け5年。テキストサイトを表した上での文章表現を模索し続け、「非モテ系」の看板を「(自称)社会派テキストサイト」に付け替え、挙句の果てには「トゥルー・テキストサイト」の看板を大袈裟に掲げ、過去の看板も、ネタへの走りも、非モテという語り口も。加えてアクセスカウンタへの興味関心までも一切合財捨て去り、現在の形―良くも悪くも「お固い」文章スタイルに落ち着いた。

 もう一点、テキストサイトとblogの差異について言及を行いたい。当時のテキストサイトシーンとは比べ物にならない程の知名度と参与者を、blogは獲得している。特に、マス・メディアにおけるblogの語り口は、「blogを開設すること自体」や「有名人とTBで繋がること」ばかりを、大手を振って称揚しているようにも思える。それらの点が、紋切り型が氾濫するという日本型blogシーンを形作っているということを、古株との云々の中で結論付けた。

 二人とも、mixiに入り浸っていたせいか、blogをやっていても「宣伝活動」―テキストサイト時代で言えば、アクセスを見越した相互リンク依頼であったり、レビューサイトへの自推。その他、各サイトの掲示板でにおける頻繁な発言や、お礼リンク目当ての文中リンク。売名的ネットバトル等々―が面倒臭く感じ始めているのも時代の変化かね。




◆テキストサイト関連の過去ログ

馴れ合い能力の効用(2005/12/17)

テキッ娘。またはVNI的テロル(2005/12/18)


テックウィンよこんにちは―女帝と私(12/22)

内と外(2006/1/25)
  1. 2006/04/09(日) 20:13:58|
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内部の治安か? 権利の平等か?

 またしてもオウム(=麻原彰光)の子供が、学校側から入学を拒否され、世間では2004年のアーチャリーの大学入学拒否問題の時と似たようなセンセーションが巻き起こっている。弱者―この場合は拒否をされた側で―に対しては、常々、神聖で不可侵的な言説や文脈が施される。それまでは、批判の対象であったりした者が、弱者に転落した際にもそれは起りうる。しかしながら、そのような感情変化はヴェネディクトが『菊と刀』で指摘した「人情」とは少し異なる。言い換えれば、「人権」や「機会平等」といった、都合の良い言葉が御旗として振りかざされた時、ヴェネディクトの指摘した「人情」は、後に述べる「映し鏡」―鄭暎惠の『<民が代>斉唱』の中で指摘された言説であると記憶している―に刷り替わってしまう。

 というわけで、長い前置きと閑話は休題にするとして、今現在、私が収監中されている「施設」にも新入生が。大学院・学部に新入生の一団が入ってきた。前置きで述べたように、世間の方は、またしても麻原の子供を巡る入学問題で揉めている。ああ、そういえば私の収監されている「施設」においては今も尚、アーチャリーの入学拒否問題を巡る問題が尾を引いていたな。「入学拒否問題を考える」といった趣旨のシンポジウムの告知ビラは、まだまだ学内で見かけることが多い。

 入学拒否事件についてを調べてみると、入学拒否問題が表立ったのは、2004年の3月中頃。その頃の私は丁度、収監されるべき進路を2つの大学院に絞り、いよいよ本格的に資料や願書を取り寄せて・・・と考えていた頃合に、アーチャリーの入学拒否問題がテレビで取り上げられ、現在の収監先が堂々と映るものだから、思わず噴飯・・・いや、噴酒してしまった。
 
 入学拒否という学校側の英知ある(私の意見が属する立場からは、そのように評価している)対応について、人権云々と結びつけて入学拒否という学校側の対応を批判するのは、批判者自身―その批判者が当該の現場に通う学生や関わりを持つスタッフであるならば、また話は変わるのだが―がやはり外野・在野である印象が強い。人権の御旗の下に擁護を行い、当事者を映し鏡として用い、自分自身の正当性や正義感という虚栄を満足させるような他人事意識を如実に感じ取ってしまうのは、自分の性格における悪癖ではあるが・・・外野の擁護側に大して、先に述べたような「あざとさ」を感じている人々は少なくないと思う。

 敢えてここでは「非常に差別的な表現」を使うのだが、悪意はのようなものは無いと、予め断っておく。では何があるのか? と言えば、アーチャリー入学拒否問題の報道を目にした時無意識に思った感想である。「オウムの娘が来るなんて恐ろしい!」というのが、もし、報道を見た直後に思ったこと・仮に、アーチャリーの入学が裁判などを通して認められたとしたら、ということを考えた際の率直な感想であった。
 
 14歳頃に地下鉄サリン事件の報道を目の当たりにし、坂本弁護士誘拐殺人事件についての連日の報道。村井氏の刺殺事件(95年4月23日) もほぼリアルタイム見た。さらには、中学校の昼休みに一大センセーションを巻き起こして、教室が安堵と熱狂に包まれた麻原の逮捕。その後に数多く製作されてきたオウム事件をテーマにしたドラマを視聴したことで、オウムが如何に恐ろしいかという点を散々毒された脳髄構造で、「はいそうですか」と、アーチャリーの入学を易々と受け入れられるはずが無い。大げさに言えば、そんな状況で、集中して勉強などができるはずかないと。

 ただ、それを言ってしまうなら、アーチャリーの受け入れ先となった大学の学生たちは、どういった言葉を発信しているのか? という話になってきて非常にややこしい。とりあえず、その辺りについての論稿は、また気が向いたら頃にでも書こうかと思う。収監施設の方は、最近は鈴木杏の入学でセンセーションを巻き起こしているが、すっかり忘れていたよ。ポジティヴ・センセーションな入学話の方を。

 昨日、前日に深酒をしていたわけではないが、非常にダルダルなテンションで黒珈琲と黄金蝙蝠煙草を手に持ちもプチ・ヘッドバンギングをしながら学校に向かっていた正午頃。キャンパス内では学部入学式が終わって、オリエンテーションが始まった頃のお話し。有名人の入学については、mixiの方で過去に何度か書いてきた。しかし、ダルダルな頭では、鈴木杏が入学するということなど、スッカリと忘れている始末。とりあえず、昨日も同輩とガツガツ飲んでました。

 泥酔で買出しに行く二名が「フランクフルト学派に傾倒したせいで、常に社会文化を斜めに構えてみてしまうよ。ははは! アドルノ先生め! ベンヤミン先生もハハハ!」とか言う駄目具合。あとは三次会位で、キューブリックとファーストガンダム話が燃焼しすぎた疲労からか、風呂でうたた寝しかけた ('A`)。色々疲れていたんだな。

  1. 2006/04/07(金) 21:27:24|
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ハマのメリーさん

 2005年1月、横浜黄金町の赤線地帯―ご存知の方も多いであろう、京浜急行の高架下に並ぶ、あの不気味とも言える雰囲気を携えたスナック街(中身はチョイの間である)―の一掃作戦が敢行された。現地である黄金町を訪れたのは2005年の12月。昼も夜も、竹刀を持った警察官位しか人影は無く、珍しくロシア語までが記載されたストップ・ザ・エイズを訴える看板が更に退廃感を煽っていた。

 日が沈み、夜になった頃、黄金町の赤線地帯に立ち、桜木町駅の方を向けば彼方に見えるMM21という名を持つ進歩の象徴が見える。土着的で猥雑な領域と、桜木町駅を挟んだ向こ岸に見える進歩的な世界。その滑稽な対比が腹を抱える位に可笑しかった。それと共に、黄金町を訪れる半月程前に見た渡辺孝明監督の『生きる』―1981年における寿ドヤ街の記録映画―を思い出しながら、それまで不可視だった横浜の顔を、再び垣間見れたことに対する満足感を感じるこた嬉しさも湧き上がっていた。

 私は、生まれも育ちも大田区であり、自宅からは多摩川が近い。多摩川土手から川向こうを眺めれば、戦後の占領軍を塞き止めた横浜を市抱える神奈川県の川崎市が見える。母親が横浜市内で事業を起こしていることもあり、川崎・横浜は馴染み深い町である。そして、最も強く、猥雑さのある蒲田と相対的な煌びやかさを持つ大都市横浜のイメージを植えつけたのは1989年の横浜博覧会である。

 バブル景気の真っ最中で、事業の景気も非常に良く、みなとみらいの壮大さに喚起しながら、遊覧船―氷川丸のような気もした―に乗り、煌びやかな中華街を満喫し、そごう・高島屋などに驚く。子供心にして、横浜は超大都市のように感じていた。余談だが、今は無き川崎西武(跡地はヨドバシカメラ)や、かろうじて残ってるような感じもある川崎さいか屋のイメージか、川崎もまた、とてつもない大都市のように感じていた。

 映画『生きる』を見たことによって、それまで不可視と感じていた寿ドヤ街の実情や風景―町の歴史であったり、進歩・発展に伴って覆い隠されてきたもの―を認識したように、伝説的(となった)な娼婦であるメリーさんを取り巻く文脈を追っていくことで、MM21のイメージの下で不可視・周縁化とされていた横浜の顔を認識することができた。

 父親は、1960年代後半から新宿で頻発していた紛争を度々目にしていた団塊世代であり、メリーさんについても実際に目撃したわけではないが、噂は良く聞いていたという。私が横浜方面に出入りし始めた頃―恐らく、博覧会以降の90年頃で、当時は9歳前後である―はまだ、横浜にメリーさんの姿があったと思われる。また。高島屋にはゲーム売り場を目当てにして頻繁に訪れることかった。だが、14年近く前の記憶を逐一思い出せるわけではないが、メリーさんに遭遇した記憶は無い。遠い記憶とはいえ、白塗りの老いた貴婦人の姿をマジマジと見ていたら、メリーさんの写真を見た時に「ああ!」という声を張り上げるだろう。残念ながら、メリーさんの写真を見た時、そのような感嘆の声を張り上げることは無かった。

 私が良く口にする言葉に、「白い仮面の天使」(2006/01/02)でも書いている、人間は「性と恐怖を克服することができない」というものがある。『さよならメリーさん』を読了して、「メリーさんは過酷な人生の中で、少なくとも性を克服することが出来たんだね」などと、出来すぎた感想を持つはずも無く、より一層、「性」と「恐怖」という二点を克服することは、まだまだ出来やしないのだという感想を、メリーさんの生涯や言葉の端々から感じとった。

 メリーさんを知ったのは、映画『ヨコハマメリー』の封切り決定(2006/04/15公開予定)の報がきっかけであり、前述の『生きる』を見てから暫く経った頃のことである。『生きる』と同様、輝かしい大都市のイメージを持つ横浜の下に隠れた猥雑さ・土着性・歴史の連続性といったものの中でも、特に不可視に追いやられているものを浮き上がらせてくれるような―それこそ、横浜風景を描いたジグソーパズルを完成されるために必要でありながら、忘れられている1ピースの存在を知るきっかけを与えてくれる映画であるという期待を持っている。
  1. 2006/04/03(月) 20:49:20|
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かなまら祭り

 今年も逝って参りました。毎度毎度逝く度に、春の訪れと新学期の始まりを感じさせる川崎の「かなまら祭り」―毎年四月の第一日曜日。ああ、今年も新学期が始まるね。




 して、「かなまら祭り」とは何ぞや? という問いに答えるならば、早い話が前近代に顕著に見られた女強のセクシャリティ―かなま祭りは、宿場の飯盛り女たちが男性器を茶化したことが、男性器を模した御神体の由来と言われている―を維持してきた、日本でなければ成し得ない「ちんこ御輿祭り」である。まぁ、男性器が権威(蝗除け)であったり、豊作・豊穣を祈願するための象徴であるという点も、御神体が男性器をかたどる理由である。「かなまら祭り」と同様のものでは、名古屋の「豊年祭」が有名だが、かなまら祭りの名物と言えば、エリザベス御輿(桃色)である。かなまら神輿は、一般的な「エイヤ!(ソイヤ!)」や「ウイサ!(ホイサ!)」という掛け声だが、エリザベスはの掛け声は「でっかいまら!(かなまら!)」である。掛け声の節々に「でっかいまら!(小さい小さい!)」「でっかいまら!(曲がった曲がった!)」と、茶化しめいた合いの手も入るため、他の神輿よりもノリが熱い。




 エリザベス神輿の特色―とりわけて、担ぎ手の皆さんについて、TV(トランスブェスタイト)・CD(クロスドレッサー)とかの語句を用いて、長々と書くのも至極面倒なので、とりあえず、「エリザベス会館」でgoogleで検索して頂きたい。「エリザベス会館」自体は、大槻ケンヂのエッセイの中でも登場しているのでご存知の方も多いかと思うが、「エリザベス会館」自体の説明も省略。



 先に述べてきた名古屋・川崎の他にも、多くの「まら御輿」が日本に顕在している。また、金山神社は川崎以外にも数箇所が存在する。「かなまら様」の由来については、「かなやま」が訛ったという説や、「金魔羅」に発音が似ていたという説などがある。川崎の「かなまら」様は主として、縁結び、安産、厄除、性病。あとはエイズなど。また、男根を祭りあげることは豊穣―同意で対とするならば乳房がある―と権力・力強さを象徴している。つけ加えて、金まら様や道祖神信仰は西日本では見られないという。

参考文献;市川茂考,1997,『日本人は性をどう考えてきたか―クローン時代に生かすアジアの思想』。



  1. 2006/04/03(月) 15:17:41|
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JUNK

Author:JUNK
 いわゆるトコ、侍魂以降のテキスト系サイトとして惰性してから早4年(2005年当時)。日記部のみblogに移行しました。それまでの素性とか、堆積物は「サイト」の方を参照で。現在の方は「mixi」とか。

 飲んだ暮れ。夢想家。澁澤シンパとみせかけて種村派。専攻は一応、文化社会学とか言いたいんだけど、実際の専門的らしい専門はない(と思う)。

『家畜人ヤプー』、沼正三、女性のサディズムと父権制におけるマゾヒズム、少女のエロティシズム、アリスイメージの消費、ロリヰタファッション、ヘヴィメタル、サタニズム、オカルト、タロット、少女小説、テクスト論、表層的SM批判、ジェンダー論、クィアスタディーズ、なんかよくわかんないけど色々。

 文化批評系よろず同人誌「Kultur Trieb」主宰。執筆者、購読者募集中。HPとかはまだ作ってないので、詳しくはmixi内のコミュを参照。

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