19世紀の頃合いか。ヒステリーは男女を問わない神経症ではなく、女に特有の症例であるとされていた。ギリシャ時代の子宮転移説が復活したことに依る。また、失笑的なトンでも説であるのだが、子宮は臭いに関する好き嫌いがあるといい、子宮の転移によりヒステリーを起こしている女に対しては、子宮が嫌悪する臭いを上部から焚きつけ、下部からは愛好の臭いを焚きつけ、子宮という獣を下腹部に押し戻すという治療法があったという。
―(失笑)
メンヘルちゃんが氾濫するこの時代。誰が名付けたか「こころの時代」。マス・メディアの中には、「痛い子ちゃん」や「メンヘル気取り」が、これまた氾濫している。渡辺裕が『徴聴衆の誕生』で用いた「軽やかな聴衆」という概念にあやかって、一先ずは、「軽やかなメンヘル気取り」とでも呼んでおこう。その、軽やかなメンヘル気取りの殆んどは―むしろ、マスメディアによる選別だろうか、女であることが多い。これは即ち、シャルコーによって崩された子宮転移説を、今再び蘇らせんとする秘密結社の陰謀に違いない!
そんなわきゃあないか(´・ω・`)。まぁ、興味深い点といえば、巷に溢れるヴィジュアル系バンド―とりあえず、私自身が敬愛していた、90年代中頃~1999年頃にかけての連中。「オサレ」や「コテ」などの細分化がされていなかった、白塗り・黒服・仏語辞書で引いたようなバンド名などの要素を縫合した恥ずかしいさのあるバンドたち―の主要なファンたちが、どの年代辺りからメンヘルちゃんと結び付けられていったのか、という点である。
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- 2006/03/30(木) 22:06:43|
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久々に秋葉原に降り立った。高校は秋葉原まで徒歩15分弱。大学時代は秋葉原を通過しての上野乗り換えで、週3~5の秋葉原は基本だった。『セガガガ』にて「やっぱ休日はアキバよね!」と言われた秋葉原だ。
AD(After 電車男)期に突入りした秋葉原に電車内にて思う。政府がIT産業の拠点として開発を進める秋葉原は、広告都市渋谷の第二子か? また、マス・メディアによるイメージ形成はまさに渋谷の如き。
今まで見なかった人種が、AD以降確実に増えている。秋葉原と渋谷を重ねつつ、駅構内でバンギャ風の娘を見たためか、秋葉原はむしろ第二の原宿か!? とも思った。
定期があった頃は、土日祝には秋葉に征くことが殆んど無かった。久々にみた日曜のホコ天は、歌姫気取りの路上ライブに、V系衣装着たチラシ配り。AD以降、そこら中に増殖し始めた「メード」の群れに、至る所での撮影会。
やっぱり原宿みたいだ。しかし、メッセ~古川電気~祖父地図にかけての「エロゲ新古品循環地帯」の風景や、ラジオ会館内は「ボクが大好きだった秋葉原」のままで、少し安心した。
TV版『電車男』のロケ地「ぴなふぉあ」は、予想以上の行列。昨今の商業主義的で、あざといメイドバブルに比べると、某「スク水Day」とかは今思うとアキバらしくてカワイかったよな。
- 2006/03/28(火) 00:57:41|
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町田の国際版画美術館で執り行われている、ゴヤの版画展に行って来た。『我が子を食らうサトゥヌルス』を筆頭とした、黒い絵画展はまだかいの? とは言うものの、澁澤龍彦の著作の中で見た図版―男の顔を持った鳥が、女の顔を持った鳥に釣られて集まり、その下で女たちが男鳥の羽をむしりとり、肛門から串を突き刺す風刺画。貞操帯の風刺が画と同じくらい、私が好きな絵を見れただけでも収穫は大きかった。
ゴヤの版画集『戦争の惨禍』の、何とも素晴らしきことよ。「私はみた」という、版画集の一作品に冠された名科白はまさに、現実に起った惨禍―宗教的イコノグラフを持たぬ黙示録を記したヨハネの如く!
19世紀初頭のスペイン独立戦争を描いた『戦争の惨禍』において、「女」は伝統的な役割―男を勇気付ける存在であり、略奪・強姦・支配の対象でありながら、「やはり野獣であった」という様な題を模した版画では、勇ましく―この言葉自体、極めて男らしさを彷彿とさせるが―武器わ持って、兵士を殺す。やはり、ありのままを冷淡に記録したという点で、ゴヤは一味違う。
師の言葉を借りると、ゴヤの絵画は「冷たさが素晴らしくゾクゾクする」となる。「女」という存在を、伝統に依拠しない―いわば、男の側の幻想・理想に押し留めず、人間を殺す力を持つ存在であることを表現したその様に、ある種の冷たさがあるように思える。言わば、常識と思われていることを覆す表現を用いる―むしろ、その表現自体が「リアル」であるだからこそ、非常さがあるのではないか。
- 2006/03/24(金) 23:00:34|
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とりあえず、外で酒を一杯引っ掛けて、また家で飲んでいるわけなんだけども、アレだよ。酒が切れたし、『Jackass』を見た後の余韻を愉しみながら、ちょっと昔話でもしてみようか。
お前さん方、俺が酒を燃料代わりと感じているのは、このクダラナイ生き地獄な常世と、不安に苛まれ続ける自分とを繋げるための手段じゃあないかなぁ? なんて思ってきたわけだ。近頃。
学校から地元の飲み屋に向かう最中は毎度の如く、酒を片手の本片手。そんな排他的な様相なんぞを振りまきながら、電車内に溢れる「凡庸な人々」―大衆と反対大衆の線引きをした際、後者が前者を卑下する流れでの呼称―と言うか、器用で健全で、爽やかな奴ら。もしくは、「彼/He・彼女/She」から「所有の関係」に押し込められることに何の批評も抱かず、トレンディなイデオロギーに操作されるような連中。即ち、反大衆を自負する人間たちが、己のアイデンティティを保持すめための合わせ鏡とも言うべき連中。そんな奴らを観察して、自分が何故に、酒と知性に耽溺しているかを省みてみた。反大衆的という点を、優越や真性の拠り所にしている人間が。
不安な自分のアイデンティティとかいう近代的発明を安定させるため、「駄目すぎる俺(友達がいない)/器用な奴ら(友達がいる馬鹿学生ども)」という、二項対立を嫌悪しながら、筋肉少女帯の「蜘蛛の糸」的精神で、ミカエシテヤル! とガムシャラに勉学―何かを学ぶというよりも、とりあえず反吐が出る位に醜悪で、無力で、不器用な自分をどうにかしたかった―に励んできた。それが無気力から立ち直った大学3年から、大学4年の前半にかけてか。
ガムシャラな勉学活動と平行して、ガムシャラに、差異と優越を付ける為の衝動―いわば外的目的だったように思えた勉学が、内的なものへと向かい始めた頃。つまり、知の快楽が芽生え始めた辺りから、それまで以上に酒を浴びるようになった感じがある。知の快楽に目覚めたと同時に、生というか、常世に対する強い執着心のようなものが芽生え始めたのかね。
帰りの電車の中で酒飲みながら本ばかり読んでいたせいか、知の快楽ってのが、酔いによる錯覚だったのかもしれないね。案外。その錯覚を馬鹿正直に信じて、突っ走ってきた結果が、今か。ふと気づけば、晴れ晴れしいココロと、少しはマシになった大学レベルでの学力を得たっていうもんだ。
さぁさぁさぁ、お立会い。可哀想なのは、この子でござぁい。見てやって下さい、病んだ精神。親の因果が子に報い。はたまた、海に沈んだ神殿の、奥に眠りし邪神の目覚めか、生まれた息子は駄目人間! 嗚呼、我悲しき駄目人間。日がな図書館を這いずり回っては、書物を抱えて空笑う。彼岸花を指さして、夜毎に酒を浴びて飲む。
酒を浴びてはヒシヒシと、電車に揺られて書に浸る。口を開けば哲学なぞと、形而上学振りかざし、立派な人々批判する。書を捨てられず街へ出て、月夜の下で頭振る。ダルマ女に血を吸う宇宙。顔面奇形の象男。消しゴム頭に、電鋸振りまう皮の面。赤いテントで人さらう、一大解放治療に収監されるが相応しい狂人脳内サーカスの始まり始まり。お代は見ての帰りで良いよ!
- 2006/03/20(月) 00:15:48|
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