『ぶたばあちゃん』[
OLD PIG ]、この本は死、あるいは臨床をテーマにした物語で、死を予期した「ぶたばあちゃん」と、ばあちゃんの覚悟を段々と、ひっそりと受け入れ、それと向き合う孫娘の日常を描いた本です。
「死」というテーマは、19世紀後半~20世紀初頭のイギリス児童文学が足を踏み入れることの出来なかった領域(キャロルの『アリス』2作、バリーの『ピーターパン』、ミルンの『くまのプーさん』と『プー横町にたった家』など)では、子供から大人へと成長すること、もしくは成長を拒むことなどが、重要なテーマとなってきましたが、『ぶたばあちゃん』では、かつて子供だった彼ら/彼女たちが、大人になり、年を老いた後に待ち受ける、決して目をつむることのできないゴール(あるいは再出発点)がテーマになっています。
本書は一応、児童書や絵本というかたちになってはいますが、体調を崩して寝込んでいた「ばあちゃん」が町へ出かけた際に行った、事務的な処理の数々は、やたらと生活感に溢れていて、本書のたいていの読者になるであろう児童層には、少し遠い感じがするかもしれません。次に、一例を引用してみましょう。
「ぶたばあちゃんは、かりてた本を図書館にかえし、もう次のぶんは、かりませんでした。銀行にいって、お金をぜんぶひきだし、口座をとじました。/うちにもどると、ばあちゃんは、のこったお金を孫むすめのさいふにしまって、『だいじにして、かしこくつかうのよ』といいしまた。」
なによりぼくの心を強く打ったのは、「かりてた本を図書館にかえし、もう次のぶんは、かりませんでした。」という一節です。職業柄、ぼくは図書館との蜜月を絶つことができない性分でして、借りている本を返しにいく道すがら、いつも「今日は何を借りようか」ということを、携帯のメールにメモ代わりに記しておいた書名のメモや、「必読文献リスト」と名うった印刷物や、脳髄に記憶する限りの気になった本を、図書館の端末で検索し、借りて帰ろうということを考えています。
もし自分が、ばあちゃんのように「かりてた本を図書館にかえし、もう次のぶんはかりませんでした。」というような状況になった際、「死ぬこと」を遠回しに伝えたり、直接的に伝えるのではなく、たくさんの<大切なこと>を、色んな形で伝える、ばあちゃんのような振る舞いを、孫でなくとも、子供に対して、できたら良いな・・・・・・と思わせられました。
「『さて、それでは』ぶたばあちゃんがいいました。『ごちそうにしようかね』/食欲がでてきたの?」とつぜんの希望にみちて、孫むすめがききました。/『食べものが、食べたいわけじゃないんだよ』ばあちゃんがいいました。/『わたしは、町をゆっくり散歩したいのさ。そして、木々や花々や空や、なにもかもを見て、目に、うんとごちそうしてやりたいんだよ』」。
本書の原版、
OLD PIG は、1995年に出版され、邦訳も同年の9月に発刊され、以後14年もの間(2009年現在)版を重ね続け、ぼくが今回の献本で頂いたものは、第17刷です。文を書いた人は、マーガレット・ワイルド(ふたりの子どもたちと一緒にシドニーに在住)、絵を描いた人はロン・ブルックス(妻とさんにんの子どもたちと、タスマニアに在住)と、本書カバーの著者・挿絵画家紹介には記されています。
ワイルドは南アフリカの生まれで、1972年にオーストラリアに移住。ジャーナリストや児童書の編集者などを経て、現在ではオーストラリアを代表する児童作家として知られている人物で、『ティモシーとおじいちゃん』(1981, 偕成社)では、文だけでなく、挿絵も手がけています。そしてブルックスは数多くの児童書の挿絵を手がけており、ワイルドとの共作としては、『キツネ』(2001, BL出版)があります。
ぼくは、日本では、諸外国にくらべ、古典的な児童文学にスポットライトがあたることが少ないような気がします。アリスにせよ、ピーターパンにせよ、プーさんにせよ、ディズニー映画や、昔に読んだ、ソフトな感じに簡略化された絵本の印象のある人がいたに、ぜひとも、キャロルの『不思議の国のアリス』/『鏡の国のアリス』、バリーの『ピーターパン』、ミルンの『クマのプーさん』/『プー横町にたった家』を読んでいただきたい。
皆さんがそれらの作品を読んだ際、はたして、それらが「子ども向けに過ぎない」と、簡単に断言できないような印象を持つ可能性は、極めて高いと、ぼくは思っています(注文を付け加えれば、ケネス・グレアムの『たのしい川べ』も、なるだけ岩波書店の大判のもので読んでいただきたい!)。
本書も、前述した作品群と同じように、子ども向けだからと、大人になった人たちが、素直に(本当に素直に!)拒否し、自身で頁をめくらずに、もしくは子どもの前で読み聞かせるために頁をめくってみるということに留まるべき/留めてしまうべき作品ではありません。もっとも、いくつかの名をあげた(ぼくが大きな感銘を受けてきた作品でもあります)19世紀~20世紀にかけての、英国の珠玉のメルヒェンは、児童文学ということもあり、『ぶたばあちゃん』とは比較にならないくらいの文量がありますが、それらの作品では、『ぶたばあちゃん』と比較にならない文量をもってしても踏み込めない領域がありました。それは、本稿の冒頭部分で述べてきた通りのことです。
この拙い書評で、少しでも『ぶたばあちゃん』や、作者と挿絵画家、そしてキャラや内容はディズニー通じて良く知っているけれど、オリジナル版を読んだことのないという人は、ぜひとも、『ぶたばあちゃん』と共に、それらの作品を(たぶん、英国児童文学方は、大抵のものは町の図書館にもあると思うので)読んでいただきたいと思います。
この書評を読んでくだっている方の多くは、まだかろうじて、「ぶたばあちゃんは、かりてた本を図書館にかえし、もう次のぶんは、かりませんでした。」とい状況にはならないと思いますし。「次のぶんをかりる」余裕があるうちに、たくさんの本を、たくさんの絵本を、「子ども向けだから」とか、「児童文学だから」とか、不必要な色眼鏡をつけずに、たくさんのものに触れてみてください。
名をあげてきた児童文学作品を読む前に、まず『ぶたばあちゃん』を読んでみてください(ぼくは、逆のかたちで『ぶたばあちゃん』を読んだので)。それらの作品を読んだ後、(できれば、ジャッキー・ヴォルシュレガーの『不思議の国を作る』も読んでおいて頂きたい)、再び『ぶたばあちゃん』を読んだ後、何か心に残る物があったなら、この書評を見返して貰えれば、あなたとぼくの間に、何かしらの共感が生まれるかもしれません。
[マーガレッド・ワイルド(文)/ロン・ブルックス(絵)『ぶたばぁちゃん』]の続きを読む
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2009/07/04(土) 03:02:13 |
書評〔本が好き!による献本〕
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奇妙な巡り合わせというものがある。今回の書評(本の山に埋もれながら、気づけば書評の執筆にとりかかるまでに、とんでもないくらい大幅な時間を経てしまった)で本書『クラッシュ』を受け取って、ふと思い出したことがある。
確か、中学生時代の頃の青臭い思い出だが、中学生という年齢上、アダルトビデオを借りることは出来ない。しかし、思春期に特有のあの悶々とした感じを押さえることはできない。交通事故の映像で欲望を昇華するような性癖を持っていれば、反乱するハリウッド映画で用を足すことができたかもしれないが、お色気シーンの多いアニメ作品や、性がテーマであっても一般作として流通している映画などに、ひとまずのトコロとして性の捌け口を見出していた。
そんな中で、たまたま手に取ったのが『クラッシュ』だった。果たして、お目当てのシーンで目的を果たせたのかどうか、全く思い出すことは出来ないが、どうも最後まで、あの奇妙な映画に見入ってしまった記憶がある。
献本を受け取った後、翻訳は雑誌『映画秘宝』の読者にはタマラナイ柳下毅一郎、映画版の監督がデイヴィッド・クローネンバーグということを知って驚愕し、さらには主演女優がホリー・ハンター(愛する映画のひとつ『ピアノ・レッスン』の主演女優だった!)ということを、つい最近知り、さらに、さらに驚愕した。
そういった経緯があり、この『クラッシュ』はぼくにとって、様々な意味で業の深い作品であるが、その内容もまた、非常にぼく自身の興味を深く掘り下げてくれるものでもある。本作のテーマは表題にも表れているように「激突事故」で、さらに限定していえば自動車の追突事故である。
自動車は、ぼくたちの身近にあり、特に地方都市では生活から切り離すことの出来ない機械であるし、鋼鉄製のフレームで生身の身体を包み込むという点は、まるで鋼鉄の子宮のようにも見える。そして、頭蓋貫通(トレパネーション)を扱っていることで名高い山本英夫のマンガ『ホムンクルス』では、自動車の中で胎児のように膝を抱え、指をしゃぶりながら安眠する主人公が繰り返し描かれている。
自動車が搭乗者を包み込むという点で、子宮を象徴する一方、走行し、障害物や他の車に激突する自動車はペニスの役割を果たしている。これは、追突事故で「カマを掘る」といった俗語があることからも、容易に想像できると思う。
停止している時は子宮の役割を果たし、走行中にはペニスの役割を果たす自動車という、極めて近代的な機械(時には<兵器>にもなりうる)に執着する余りに登場する、偏執的な欲望と、交通事故によって一体化する機械の破片と肉体の破片の融合という悪夢的な光景・・・・・・『クラッシュ』で描かれる自動車事故や、鋼鉄のフレームによって貫かれることで生じる身体損傷の場面は、『ビデオ・ドローム』の監督であるクローネンバーグこそが、映画版を監督することが相応しいと示唆しているようにも思える。
「わたしは事故から回復していった。2つの病棟をなす24のベッドは――最大生存者数期値――航空事故の犠牲者用に空けてある。そのうちのひとつを、たまたま自動車事故の怪我人が使っていたわけだ。/体をおおっていた血が、すべて殺した男のものだったわけではない。緊急手術室でアジア人医師に検査され、両膝が計器パネルに粉砕されているのがわかった。長くのびる痛みは太股から鼠径部まで、まるで両足の静脈に細い鋼鉄のカテーテルを通したかのように走った。」(34頁)
こういった場面はまだまだ序の口で、『クラッシュ』の中では、激突事故や、事故を起こしうるような状況に興奮するカップルや、事故を通じて身体を鋼鉄のフレームに貫かれることで、性的魅力を発露する女――この時、哀れな女の身体の性的魅力を覗き見するのは、文を追うぼくたち自身だ――などが、極めて冷徹に描き出される。
新聞における交通事故の報道のように、事故による損傷の中でエロティックな価値を付与される女の身体も、傷ましい身体損傷を被った人体も、ひしゃげた車も、様々な体液でねっとりと汚された車内や計器類、そしてガラスやシートも、バラッドの筆の中では、一編のドラマ性を持たず、ただただ冷淡に記述されるのみである。
例えは適切ではないかもしれないが、レイプを主題としたアダルト・ヴィデオや、極めて陰惨な演出によるものは、劇回し染みた男女の台詞に耳を塞ぐ限りにおいては、ただただ、極めて冷徹に、陰惨で暴力的な場面が展開され、ぼくたちの眼前に突きつけられる。『クラッシュ』における性と暴力は、それに似ているのではないかと、ぼくは感じている。
作品のストーリーは、あるひとりの誘惑者の事故<死>の翌日から始まる。そして物語は誘惑者とのクラッシュ・アバンチュールによって、激突狂となった主人公の回想を通じて、様々なシチュエーションにおける、クラッシュ&セックスが冷徹に記述され、時にはサド侯爵のような反復によって記述される。
主人公は、不慮の事故で生じた正面衝突によって、事故の相手を死に至らしめる。事故車に搭乗していた夫妻の夫は死に、妻は生き残る――「衝突によって心から解き放たれた強迫観念によって、わたしは周囲のすべて性的可能性を見いだした。病棟いっぱいにあふれた回復期の航空事故患者が、イメージの売春宿を心に抱くさまを夢見た。2台の車の衝突は、究極の、これまで想像すらされなかった性的合一のモデルだったのだ。いまだとうちゃくせざる患者たちの傷痕がわたしをさし招いた。無限の夢想の百科事典へと。」(37頁)。
最初の衝突事故によって、世間から後ろ指を指されないような、抑圧された性的欲求という足枷を外された主人公の周囲に、一人の男、ヴォーンが現れ、主人公に衝突事故による快楽の手ほどきを行い、主人公の周囲の人間、そしてかつての衝突事故で夫を死なせた未亡人をも巻き込んで、「クラッシュ」の乱交は広がっていく――「ヴォーンを通して、わたしは自動車事故の真の重要性を、ムチ打ち症と横転事故の意味を、正面衝突のエクスタシーを学んだ。」(18頁)。
ヴォーンという存在は、主人公の衝突体験から生じたシャドウないしは分身(ダブル)――ゴシック小説では馴染み深いテーマ――と読むことができるし、ただ単純に衝突の快楽に憑かれた偏執狂と読むことができるだろう。そして交通事故(「クラッシュ」)の中に潜む暴力性と性的要素・・・・・・それらをただ、冷徹に記述するバラッドの筆の向こうに、ぼくたちは何を読むべきか。
新しい身体、技術によって発展した新しいセクシュアリティ、新しい暴力、新しい逸脱ないしは倒錯、あるいは「テクノゴシック」etc…『クラッシュ』のストーリーは、冒頭におけるヴォーンの死(様々な衝突演習を重ねながら、ヴォーンが計画してきた、さる有名人との事故死)から始まり、主人公がどのような経緯で衝突の快楽に気づき、ヴォーンとの演習を通じて、その快楽を深化させてきたかという点に重点がおかれており、読み手は主人公の回想と共に、衝突の快楽を学ぶ旅に連れ出される。
それらはただ、淡々と記述され続けるという点を踏まえれば、サド侯爵の『悪徳の栄え』に近い構造を持った、陰のヴィルトゥング・ロマンスかもしれないが、本作は序文で作者のバラッド自身が「もちろん、『クラッシュ』が扱っているのは想像上の災害ではなく、今現在差し迫った、あらゆる産業社会で制度化されている全地球的災害、毎年何十万人もの人を殺し、何百万人を傷つけている災害である。自動車事故の中に、我々は、セックスとテクノロジーの悪夢じみた婚姻の不吉な予兆を読みとっているのではあるまいか? 現代テクノロジーは、誰も想像もしていなかった手段で、我々の精神病理の扉を叩いているのではなかろうか? 生来の倒錯にたづなをつけるのは我々にとって利のあることなのだろうか? ・・・・・・言うまでもなかろうが、『クラッシュ』の区割りは警告にある。テクノロジカル・ランドスケープの辺境からますます強まりつつある声で呼びかける、この野蛮なエロティックな、光り輝く領域への警戒信号なのである。」(12頁)と述べるように、『クラッシュ』は「素晴らしき新世界」に潜む、名状しがたい、何がしかのテクノ・デザイアとも呼ぶべき、新しい衝動に対する警告でもある。
警告という点では、陽のヴィルトゥング・ロマンスとして、『クラッシュ』を読むことが出来るかもしれない。しかしながら、冒頭で述べた、映画場『クラッシュ』を観てから、多分、十数年以上経過した後、『クラッシュ』を献本として受け取る、少なくとも1年以上前、信号待ちをしていたぼくは。目の前で一般車とタクシー同士の衝突事故を目撃した。
カマを掘られた方のタクシーが急ブレーキをかけ、後続のタクシーがカマを掘る形になり、どちらに過失があるかということは明らかな事故だったが、掘られた側のひしゃげたトランク部分、追突した側の潰れたバンパー部の凄惨たる<表情>に、わずかながら胸を高まらせた思い出がある。もし、それら、ゲシュタルト崩壊した機械のフレームに、同じくゲシュタルト崩壊した人間の体液が、人間の生態フレームが混ざり合っていたとしたら、バラードの『クラッシュ』を読む前だったぼくは、一体どう感じたのだろうか・・・・・・もしかしたら、あの時以上に、こみあげる熱い何か(something hot)を押さえることが出来ず、もっともっと、前かがみになってしまたのかもしれない。
[J・G・バラード『クラッシュ』]の続きを読む
2009/06/29(月) 03:17:05 |
書評〔本が好き!による献本〕
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本書は『ラヴクラフト全集 別巻(上)』に引き続き、ハワード・フィリップス・ラヴクラフトが推敲や添削、そして代筆(1920年代、パルプ・マガジンが一世を風靡していたアメリカでは、代筆自体は珍し者ではなかった)を手がけてきた作品を年代順にまとめて収録したものである。また、上・下巻を通じた作品解題も本書に収録されている。ただし、ズィーリア・ブラウン・リード・ビショップの「墳丘の怪[The Mound]」は、「この小説は、一種のユートピア都市であるクン=ヤンを描き、ラヴクラフトの添削の中でも最大の力作」(382頁)と、作品解題の中で作品に対する賛辞が向けられているにも関わらず、2冊からなる別巻には収録されていない。
「墳丘の怪」が収録されなかった理由は「あまりにも長すぎるために(引:パルプ・マガジン「ゴースト・ストーリィズ」に)採用されることが無く、ダーレスが添削をおこなったものが<ウィアード・テイルズ>の1940年11月号に掲載された」(382頁)という記述から推測するに、頁の都合という理由が濃厚であるかもしれない。なお、「墳丘の怪」は『クトゥルー 12 暗黒神話体系シリーズ』(精心社文庫,2002年)などで読むことができる。
本作、『ラヴクラフト全集 別巻(下)』の収録作品は、ヘンリィ・セイント・クレア・ホワイトヘッドの「罠[The Trap]」、ヘイズル・ヒールドの「石の男[The Man of Stone]」、「羽のある死神[Winged Death]」、「博物館の恐怖[The Horror in the Museum]」、「永劫より[Out of the Aeons]」、「墓地の恐怖[The Horror in Burying-Ground]」。ドウェイン・ウェルドン・ライムルの「山の木[The Tree on the Hill]」、「墓を暴く[The Disinterment]」。ウイリアム・ラムリィの「アロンゾウ・タイパーの日記[The Diary of Alonzo Typer]」。ケニス・スターリングの「エリュクスの壁の中で[In the Walls of Eryx]」、「すべての海が[Till A’ the Seas]」、「夜の海[The Night Ocean]」となっている。
収録作品を見ればわかるように、ヒールドの作品が下巻に収録された作品の大部分を占めている。これは、私自身の好みも少なからずあるのだが、ホワイトヘッドの作品、特に「博物館の恐怖」はラヴクラフト自身が実に執筆を楽しんでいるようにも思えた。この特徴は、苦悩の作家として、自己の内面に蠢く恐怖を描き出そうとしてきたラヴクラフトとは異なった、純粋な恐怖作家としてのH.P.ラヴクラフトという感想を私に抱かせるものでもあった。
本書評では、収録作品について逐一の解説や感想を述べることはしない。上巻も同様だが、下巻に収められた作品は全て短~中編のオムニバス作品であり、気軽に、短い時間で物語の顛末と恐怖を楽しむことができる。だからこそ、丁寧な解説や作品紹介を、<こんなところ>で逐一行うよりは、上・下を含めた『ラヴクラフト全集 別巻』の書評に興味を持った名状しがたい読者が実際に本書を手にとって、恐怖の断片に触れて貰いたい。
上巻について、私はラヴクラフトを知らない読者に開かれた入門書的な機能を持っているという感想を書いてきた。上巻とは対照的に、下巻はラヴクラフトや「クトゥルー神話体系」について知識がある人間であればあるほど、ニヤリとさせられる要素が数多く(これはラヴクラフト自身の確信的な「筆遊び」に他ならない)埋め込まれている。「博物館の恐怖」は、ラヴクラフト原理主義者にとっては賛否両論があるところもあると思うのだが、私としては映画「ナイト・ミュージアム」の場面を思い浮かべながら、ゴルゴン、キマイラ、ドラゴンといった幻想的な生き物、サド侯爵やジルドレを筆頭とした奇人・狂人、そして「定まった形のない黒ぐろとしたツァトゥグアも多数の触手を具えたクルウルウ、長鼻のチャウグナル・ファウグンをはじめ、『ネクロノミコン』や『エイボンの書』やフォン・ユンツトの『無記名祭祀り書』といった禁断の書物に述べられる冒瀆の生物も展示されていた」博物館で夜を明かす主人公が体験した恐怖にゾクゾクしながらも、ツァトゥグアやクルウルウ(クトゥルー)が展示された忌々しい展示室の姿を思い描くと、奇妙な興奮を覚えてしまう。そういった点からも、ラヴクラフトの描き出してきた恐怖の世界を暗躍する宇宙的恐怖や怪異の知識があると、下巻に収録された作品の数多くを、ぐっと楽しむことができる。
収録作品はラヴクラフトらしい短編の不条理的恐怖小説から、金星を舞台にしたSF調のものなど、上巻と同様にヴァラエティに富んだ構成になっている。多くの作品に共通する要素としては、人間の世界に外世界(宇宙や古代、そして闇の世界)の者共が侵入したり、超常的な技術/技法/科学が偶然的に現実世界に現れるというものがある。現実世界と異なる者やモノが現実世界に投げ込まれるという構図、これは「ファンタジー」の基本的なプロットでもある。
私が下巻の収録作品の中で気に入っているものは、既に称賛を投げつけてきた「博物館の恐怖」、そして同じくヒールドの「羽のある死神」と「永劫より」と、ヒールドの作品が続く。だが、私がヒールドの作品に引きつけられる理由には、ひとつの理由があると思われる。ラヴクラフト自身は、「博物館の恐怖」についてリチャード・イーリイ・モースとの書簡の中で「『投げ捨てたくなるほどお粗末な梗概に基づき、わたしが代作したものなので、実質的にわたしの小説なのです』」と述べるばかりか、ロバート・ヘイウォード・バローウに宛てた1935年4月20日の書簡の中では「永劫より」はヒールドより「(遺跡より発見された)古代のミイラの脳が生きているというアイデアが寄せられただけ」と述べているように、「永劫より」も実質的にはラヴクラフトの作品であるといえるためだ。
しかし、それらはラヴクラフトの筆による作品ではありながら、「ラヴクラフトの作品」ではない。これは他人の名義で発表された作品であるということではなく、ラヴクラフトが「ラヴクラフト自身」と向き合うことで書かれた作品ではないということだ。ラヴクラフトが自身と向き合い、恐怖と苦悩の坩堝に投げ込まれる中で創造し続けてきた絶対的な恐怖や不安とは異なった恐怖、「ホラー」というよりは「テラー」に近い恐怖――私が好んで使う表現でいえば「ウォルト・ディズニー的な恐怖」を、ヒールドの作品の中で感じることが多かった。
詳しくは下巻に収録された作品解題を参照して頂きたいところではあるが、ここで少しの説明を加えたい。『~全集 別巻(上)』の書評でも述べてきたように、ラヴクラフトが活躍した1920年代のアメリカ、マニアックなジャンルをねらい打ちするようなパルプ・マガジンのスキマ産業が隆盛を極めていた1920年代のアメリカでは、金を支払っての代筆業は珍しい現象というわけではなかった。
ラヴクラフトの文章添削・代筆業は「1933年8月31日付けの書簡には、読むだけ、批評するだけ、添削するの3項目に渡って、語数ごとの細かな料金が付されており、最高の料金は完全添削――ラヴクラフト本人の言葉を使えば「代作」――の場合で、タイプ用紙1枚辺り2ドル50セントになっている。当時ラヴクラフトが<ウィアード・テイルズ>から得ていた稿料と比較すれば、およそ7分の1にすぎないが、稿料というのは採用されてからはじめて得られるのに対し、添削は仕上げさえすれば確実な収入になるので、この料金は一概に安すぎるとはいいきれないだろう。ちなみに、当時のパルプ・マガジンの低下は10ないしは25セントだった」(大谷啓裕による作品解題,(下)363-364頁)ということになっている。
とはいえ、ラヴクラフト自身は生粋の作家らしく、「投げ捨てたくなるほどお粗末な梗概」という程の苦言を呈していた「博物館の恐怖」を見事な恐怖作品(識者にとっては創造者による恐怖世界のセルフパロディとも映りえる)として完成されているばかりか、上巻の冒頭を飾る「這い寄る混沌」や、「幽霊を食らうもの」といった作品と下巻に収録された作品を比較してみると、恐怖作家としてのラヴクラフト(狂気に取り付かれた個人としてのラヴクラフトではない)が添削・代筆業を通じて自身の文章表現を鋳造させるばかりか、文章を、物語を創ることを本当に楽しんでいるのだということを感じることができる。これは、私自身のラヴクラフトに対する思い入れもあるかもしれないが、上下巻を手にした方は、是非とも上・下巻のそれぞれに収録された作品の文体に見られる堅さや、自身のセルフパロディをも含んだラヴクラフトの筆遊びを比較して頂きたい。
また、ラヴクラフト自身はパンのタネとしてのみ、添削・代筆業を捉えていたわけではなかった。例えば、ラムリイの「アロンゾウ・ダイパーの日記」についての「ラヴクラフトはラムリイの創作意欲が掻き立てられることを期待して、この添削の報酬は受け取らなかった」(392頁)という記述にも見られるように、後継者の育成という機能を添削・代筆業に見いだしていた可能性が高い。
『~全集(上)』のラヴクラフトの経歴で述べたように、ラヴクラフト自身は存命中に成功することがなかった作家であり、その名声は死後、弟子たちによって高められてきた。存命中に大成を味わうことのできなかった不遇の作家は、自らの狂気を世に放つ作業の傍ら、自らの弟子たちが、ラヴクラフト自身が果たせなかった商業的成功を勝ち取ること(実際にそれは果たされたのだが、ラヴクラフトの人間の傲慢を排除した絶対的恐怖の牙城を揺るがすことにもなってしまった)に期待をかけていたのかもしれない。
7冊に渡る『ラヴクラフト全集』に収録された作品の多くは、「作家」としてではなく、狂気の世界に対峙し続ける個人としての「ラヴクラフト」の筆によるものである。一方、2冊の別巻に収録された作品は、これまで述べてきたように「作家」としてのラヴクラフトの筆による作品である。2冊の別巻を通して、読者は「作家 ラヴクラフト」の多彩な筆遣い、そして恐怖小説に対する愛着のようなものを感じることだろう。この2冊の別巻は、ただ単純に恐怖小説のオムニバスとして読むだけではなく、「純然たる作家としてのラヴクラフトという、ハワード・フィリップス・ラヴクラフトの横顔」や、ある創作者の執筆活動に対する愛情のようなもの想起しながら読んでいくべきかもしれない。
ラヴクラフト全集H.P.ラヴクラフト、大瀧 啓裕 東京創元社 882円 Amazonで購入 書評 /
ミステリ・サスペンス
2008/02/04(月) 22:07:43 |
書評〔本が好き!による献本〕
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ハワード・フィリップス・ラヴクラフト(H.P.L.)。「オタク」や、「サブカルチャー」が好きだと自称するならば、この狂気の作家を避けて通ることはできないだろう。世界初のCDROMゲームとしての地位も、そろそろ忘れられつつあるゲーム「天外魔境-FAR EAST OF EDEN-」の原作者として(一部では)知られている「P.H.チャダ」の名前はH.P.L.からきていることで有名であるばかりか、ゲーム――「ネクロノミコン」「黒の断章」「デモンベイン」「クトゥルーの呼び声」――を中心に多くの作品の中でラヴクラフトが創造し、後にオーガスト・ダーレスが拡大していった、「クトゥルー神話体系」と総称される世界に登場する様々なモチーフが流用されている。例えば「ネクロノミコン」「ナコト写本」「エイボンの書」「サドカイ教徒の勝利」といった架空の書物や、「クトゥルー」「ダゴン」「ヨグソトト」「アザートス」といった、名状し難い戦慄を読者に与える害宇宙的恐怖や怪異など。また、クトゥルー神話だけでなく、日本のゲームや漫画、そしてアニメなどには「ナチス」や「キリスト教」のモチーフが好んで流用されていることは、今更いうまでもないことだろうと思う。
本書、『ラヴクラフト全集上・下』に収録されている作品は、ラヴクラフト自身の名義で発表された作品ではない。ラヴクラフトが副業として行っていた推敲・添削、そして時にはゴーストライターともいえるほどの代筆を手がけた作品が収録されている。上・下に渡って収録されている作品はラヴクラフトが手を加えた作品を年代順に並べている(年代などは、近年、ラヴクラフトの書簡などから推測されたものを根拠にしている)。つまり、上巻の冒頭を飾る、イリザベス・バークリィー名義の「這い寄る混沌[Crawling Chaos]」から、下巻の最後を飾るロバート・ヘイウォード・バーロウの「夜の海[The Night Ocean]」までが、ラヴクラフトが手を加えてきた他者名義の作品である。
御代ラヴクラフトについての前提知識がない方のために、ここでラヴクラフトについて軽くふれておこう。ラヴクラフトは1890年、アメリカのロード・アイランド州プロヴィデンスに生まれた作家である。幼い頃から病気を患い、その精神も偏執的な傾向を帯びていた。度重なる悪夢、極端な人間嫌い、心の内に潜む父親の影、人種主義、女性蔑視、そして魚介類や異教に対する慄然たる恐怖心といった、彼の心のうちに潜む闇の部分が、様々な怪異、宇宙的恐怖、そして超常的なモノに対峙した人間の絶望感や無力感の表現に繋がっている。
ラヴクラフトが作家として本格的にデビューし始めた1920年代のアメリカでは、いわゆる「パルプ・マガジン」(ジャンルが細分化された大衆向けの娯楽小説雑誌)が一大産業を誇っていた時代であり、実力のあるなしを問わず、多くの素人作家が必用とされる、もしくはデビューを夢見ていた時代であった(この辺りは下巻の解説に詳しいので、そちらを参照のこと)。1920年代のアメリカといえば、ジャズ・エイジという言葉に象徴されるように、豊かな社会におけるギャッツビー的な放蕩が尊まれた時代でもあった。そういった華やかな時代の影で、けっして多いとはいえない闇や恐怖を欲する好き者たちに向けられたパルプ・マガジン「ウィアード・テイルズ」が、ラヴクラフトの主要な活躍の舞台となった。しかし、存命中は大した名声をあげることができないばかりか、まともな単行本を出版する機会にすら恵まれることがなかった。ラヴクラフトの魅力を大衆に植え付けたのは、ラヴクラフト弟子であり、善悪の概念を持ち込むことによって「クトゥルー神話体系」を大きく発展させたオーガスト・ダーレスであった。
ラヴクラフトの小説がもつ特徴といえば、「冒涜的」であり「慄然たる」形容詞の過剰な乱用や、人間の無力さを見せつけられる救いのない、もしくは不条理な結末である。しかし、非日常的な恐怖に対して救いや合理的な結末を求めようとする心持ち自体が、人間の傲りであるようにも思える。多くのホラー作品、そして(ホラー)SF作品は、怪異や機械/技術に人間の理性が翻弄される様を描き出すが、その多くは結末において人間の理性が困難を打ち砕き、オーディエンスの心をカタルシスに導く体裁をとっている。つまりは、物語の結末を人間中心主義に落とし込むことによって、一抹のカタルシスや商業的な成功を得ているということだ。しかし、ラヴクラフトの作品には、人間中心的な救いというカタルシスや慈悲は存在しない。メアリ・シェリーの『フランケンシュタイン』と、トビー・フーバーの映画「悪魔のいけにえ」をミキサーにかけてぶちまけた純粋的な恐怖と絶望感、それがラヴクラフトの描き出す恐怖の世界である。
上巻に収録された作品の多くは、ラヴクラフトが他者の原稿を手伝い始めた初期にあたることもあり、収録作品の多くにはラヴクラフトらしい形容詞の乱立や、不条理な結末が見られる。特に、上巻の冒頭を飾る「這い寄る混沌」は、「クトゥルー神話体系」きってのトリック・スター、「ニャルラトホテプ/ナイアーラトテップ」(怪異や邪神たちの名は、人間の声帯器官ではその冒涜的な名前を正確に発音することができず、複数の名前――例えば“Cthulhu”について、「クトゥルフ」と「クトゥルー」と「クルルフ」など――が混在している)が登場する、1920年に発表されたラヴクラフトの秀作「ナイアルラトホテップ[Nyarlathotep]」(『ラヴクラフト全集5』に収録)が書き上げられた直後に発表された作品である。上巻の冒頭を飾る作品であるということは、ラヴクラフトの手が加えられた最初の作品である。その故に、ラヴクラフトを読んだことのない読者は面を食らってしまうかのような、ラヴクラフト節が縦横無尽に展開される。しかし、作品を追っていくごとに極端なラヴクラフト節は形を潜め、段々と読みやすくなっていくので、「這い寄る混沌」の大仰さに我慢できないという読者は、全体を流し読みして見た感触で読みやすいと思った収録作品から読んでいくか、先に下巻を読んでいく方がいいかもしれない。
上・下巻に収録された作品のほとんどは、他者がある程度の筋書きを作っている原稿ということもあり、ラヴクラフトの「死体蘇生者 ハーバード・ウエスト[Herbert West-Reanimater]」(1922)のように、絶対的な悪人が最終的に制裁を受けるという構図を持つ作品が少なからず収録されている。繰り返しになるが、そういった要素を持つ作品は商業的な筋書きを持った作品でもあるということだ(商業的悪いというわけではない)。これも繰り返しになるのだが、ラヴクラフト作品の魅力は、そういった勧善懲悪、因果応報を俄然と突き放し、ただ恐怖に怯えるしかない人間の無力や絶望を執拗に描き出すところに魅力がある。とはいえ、本書に収録されている原稿は発表された時点では他者の名義であり、ラヴクラフトがいつもの調子で筆を進めるわけにはいかなかった。ただし、ラヴクラフトが自らの内側に蠢く恐怖や不安、苦悩、悪夢、混沌と向き合う必用を強いられなかったためか、自らと対峙することで産み落とされるラヴクラフト名義の作品とは異なった筆遣いや、後継者を育てる楽しみのようなものを作品の端々(特に下巻の収録作)に感じ取ることができる。
既に述べてきたように、ラヴクラフトは存命中に成功や名声を得ることが叶わず、作品の多くは、出版社「アーカム・ハウス」を設立したダーレスらによって世に放たれてきた。「クトゥルー神話体系」を形作る作品の多くは、「アーカム・ハウス」の苦しい経済事情もあり、人間に味方する「旧神」と、人間に仇をなす「邪神/旧支配者」という、人間を中心に据えた善悪の二項対立を設定してしまい、その人間主義的なご都合主義に対して、ラヴクラフト原理主義者ともいうべきコアな読者からは、少なくない批難が向けられている。
上・下巻に収録された作品の中では、「旧神/邪神」の対立が明確に描かれるものはないが、人間同士の対立においては、善と悪が明確にされたものが少なくない。しかしながら、収録作品の中、例えば上巻でいえば「這い寄る混沌」や、ズィーリア・ブラウン・リード・ビショップの「メドゥサの髪[Medusa’s Coil]」のように、ラヴクラフト節が相変わらずの調子で展開されており、ラヴクラフトを愛好する読者の1人としては安心するものもある。ただ、作品として退屈なもの(ラヴクラフトが手を入れたということもあり、除外するわけにはいかなかったのだろう)が含まれているのも事実であるが、その点はラヴクラフトに慣れていない読者でも、ゆっくりとラヴクラフトの世界に触れていくことを可能にするかもしれない。
また、いくつかの作品にはラヴクラフトが創造した世界にモチーフを組み込むような<遊び>が展開されており、ラヴクラフト自身が原稿を修正する過程で、遊び心を発露させているばかりか、「クトゥルー神話」に精通した読者が思わず「ニヤリ」としてしまう部分が多い。
本巻に収録された作品の特徴といえば、「化学」が登場することであろう。それも具体的な薬品や物質の名前を列挙しながら。これは下巻に収録されている作品の一部についても、同様のことが言える。ラヴクラフトの作品では化学、ないしは科学技術が登場することは少なく、登場したとしてもシェリーが『フランケンシュタイン』(1818)の中で提示した、具体例をもたないが超常的な力を発露させる科学技術に留まるものであった――それこそ、「死体蘇生者 ハーバード・ウエスト」で用いられた、正体不明の蘇生液のように。そのため、ラヴクラフト作品における化学/科学と、ラヴクラフトが関わった作品における化学/科学の語られ方を比較してみるのも一興かもしれない。
本書に収録されている作品は、(一部を除けば)恐怖小説としてのスタンダードな体裁を有しており、ラヴクラフト名義の作品にみられる、例の大仰で、しつこい程に<くどい>形容詞の羅列(実際はそこが魅力なのだが)も、比較的静かに潜んでいる。そういった意味では、ラヴクラフトを読んだことのない人にとっては、手を付けやすい作品だといえる。作品の多くは、ラヴクラフト的な絶望感から、勧善懲悪のカタルシスを感じさせる娯楽作品らしいもの。そして、唐突に始まり唐突に終わる不条理の恐怖と、バラエティに富んだ構成となっている。
ラヴクラフトの恐怖の源泉について此処では長々と語ることはしないので、またいずれ機会があれば述べていきたいと思う。なお、上・下巻の収録作品についての作品解題や1920年代の出版事情については下巻に収録されているので、できることならば上・下巻を同時に購入することをお勧めしたい。なにぶん、様々な作家の作品が収録されているので、ひとつの作品を読み終えるごとに作品解題に目を通して、ラヴクラフトが作品に費やした労力や、作品に与えた影響、そして個人の作品とは異なった側面をみせるラヴクラフトの文体についてもじっくりと吟味していただきたいと思う。
ラヴクラフト全集H.P.ラヴクラフト、大瀧 啓裕 東京創元社 777円 Amazonで購入 書評 /
ミステリ・サスペンス
2008/02/02(土) 03:46:45 |
書評〔本が好き!による献本〕
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クチコミのチカラAmazonで購入 livedoor BOOKS 書評 /
IT・Web クチコミと聞いて思い出すのは95年頃に見たテレビ番組だ。周知のように95年当事といえば援助交際やブルセラブームを背景に、「女子高生が流行を作る!」という風説が強かった次代で、「たまごっち」などがクチコミによるヒット商品の最高峰としてあげられることが多かった。ぼくが見たテレビ番組というのは、会議室に集めた女子高生たちに新作のお菓子を試食して貰うモニターテストのようなものだった。そのお菓子が主要な購買層として女子高生を見据えているだけでなく、モニターを受けた女子高生たちがお喋り、電話、そしてポケベル(!)などを通じて、これから<新発売>されるお菓子の情報を広めていくことを期待してたことは明らかだった。
多くの人が「クチコミ」と聞いて想像するのは、恐らくはそのような光景だろう。本書では米国式に習ってクチコミを「Word Of Mouth」(WOM)と呼称している。WOMには二種類のものが存在し、本書においては自発生的類のクチコミである「オーガニックWOM」と賃金を支払って評判を広める「ペイドWOM」という二種類のクチコミが述べられている。
ペイドWOMのネガティヴな面が顕在化した例としては、2006年の11月3日にNHKの「ニュースウォッチ9」を発端とした騒動が記憶に新しい。騒動の内容は次のようなものだ。「クチコミマーケティング」についての特集が組まれたのだが、番組内で企業から賃金を貰い受けて提灯記事を<生産>している女子大生の例が紹介された。さらには女子大生の紹介に留まらず、企業から接待を受ける様や、企業が主導となって「上手なブログの書き方」を指導される様までもが放送された。放送を受けて、当該女子大生のブログは炎上し、提灯記事を主導した企業にも大量の批判が寄せられるようになった。
察しのように、本書が取り扱うクチコミはネットにおけるものであり、特にブログを介したクチコミビジネスや、ブログが有する市場的価値を主なテーマとしている。最近は記者会見や新製品の発表を行う際、数名に留まる範囲だが有名ブロガーの枠が設けられているという話を良く聞くのだが、本書の中でもそういった実例があげられている。
これまでは、記者会見の場に参列できる人種といえば、マスメディアを掌握している一部の権力者たち、そして権力者の眷属たちといったものだったが、特定のブログ界では著名な人物とはいえ一介の市民的な人たちが、記者会見のような場に参加できるような状況は情報発信の占有を打ち崩す契機として喜ばしく思っている(もちろん、前述した提灯記事の寓話のようなものは少なからず存在しているだろうが)。
帯タタキに「今、企業はブロガーとの対話を求められている」と書いてあるように、本書はブログを用いたクチコミ・ビジネスが含有している市場価値や、商品展開の一例を紹介し、その可能性を読者に投げかけるような体裁を取っている。従って、本書の傾向としては政治経済的な面が強いといえるだろう。大学生の皆さんの中には、ブログやSNSについてレポートや卒論を書きたいという人が少なからずいると思う。経済学やメディア論を専攻とする浅見克彦は
『消費・戯れ・権力――カルチュラル・スタディーズの視座からの文化=経済システム批判』 (2002)の中で、文化を論ずる上では、文化の政治経済的な側面(クチコミビジネスに話を絡めれば、ブログが含有している市場価値ということになる)を見落とすべきだと述べているが、ぼくもその点については大きな同意を持っている。
本書がブログの市場価値という点に力点を置いているということについては繰り返し述べてきたが、ユーザー/消費者に力点をおいたブログ論としては鈴木芳樹の
『スローブログ宣言!』 (2005)が、日記サイトやテキストサイトの隆盛からブログが登場するまでについて、丁寧に解説されているので、本書と前掲書の二冊を併せて読むならば、ブログが市場的な価値を、つまりは企業が商品を売り込むツールとしてオイシイものだと認識するようになった流れを理解し易くなるかもしれない。本書は、ブログを介したクチコミビジネスである「本が好き!」によって献本されたものであり、「本が好き!」というサービスもまたブログを用いた新しい形のクチコミビジネスでる。クチコミビジネスによって頂いたクチコミビジネスに関する本について書評を書くというのも中々に奇妙な気分であったりする。
本書の内容・文体は双方とも読み易く、誰でも手軽に読みこなすことができるだろう。現在のクチコミビジネスの大枠を把握する本としては、特にブログやミクシィが人気を博した影響でネットを始め、ブログを初めてみたという初心者に勧めたいものである。各人がどのようなブログ運営を行いたいかという点について、ぼくは知る由もないのだけれども、ブログを使って何か「オモシロイこと/自分が得するようなアイデア」を展開するためのヒントは収められているかもしれない。
ぼくの、極めて個人的な感想としては、「その手のビジネス書」や「ハウトゥー本」にありがちな、<軽薄さ>を感じてしまう部分はあるのだが――ちょうど、本書を手に取る前に、2011年を考える会による『大変化時代のキーワード ネット社会とビジネスを語る述語集』を読んでいたのだが、本書を読んでいた際に感じたことは、『大変革~』と似たような<軽薄さ>であった。もっとも、それは個人の読書傾向によるものなので、ぼくのようにスレていない人が読めば、そのような軽薄さは微塵も感じないと思うが。
2007/07/01(日) 23:02:35 |
書評〔本が好き!による献本〕
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