オタクとは何か、オタクとは誰か、誰がオタクであり誰がオタクではないのか、どんな人が自分がオタクであることを強調する必要があるのか。昨日、東工大で聴いたシンポ「クール・ジャパノロジーの可能性」の印象。
ちょうど今オタク論を書いてるから、なにかと参考になる部分がありや。しかし、オタクを新時代の主体として論ずる海外の識者は宮崎勤事件をどうみるや。
東浩紀が、オタク論の「代表」ではないという点にこだわっていたけど、あれは良く解る。どちらかといえば、東が話題の論者で、しかも、「ぼくたちの大好きなキモチイイもの」について語ってるから良いねと、おんぶに抱っこ状態で東を祭り上げる帰依者が多いのが原因なんでないかな。
でもオタクであるかないかなんて、区分は難しいんだよね。コンテンツが細分化しきったり、オタク=アニメ・マンガになってる昨今、オタクだからそれらに詳しくなきゃいけなくて、詳しくないやつオタクじゃない。だから、常に大量に出てくる最新コンテンツを半ば義務的にチェックしなきゃいかん、という風潮があるように思える。ここら辺、感性が古いためか、岡田斗司夫の『オタクはすでに死んでいる』に共感する。
もう一個印象的なのは、一日目の終了後にタバコ吸ってたら、そばにいた数人が「東は最後に、自分はオタクだって連呼してたけど全然オタクじゃないよね(笑)」と話していた場面。もっと素敵にデカルチャー。
とりあえず今日は二日目に行くんで大岡山に向かい中。到着は開演ギリギリかな。
スポンサーサイト
- 2010/03/06(土) 13:24:58|
- 未分類
-
| トラックバック:0
-
| コメント:7
昼起き。ν速で宮城の殺人連れ去り事件の経過を携帯から見てたら犯人名がスレタイにあって「祐くん」だったもんで、「ゆうくんには夢がないね」という名台詞を思い出した。
みんな覚えてる? 三浪兄による短大生妹バラバラ殺人事件。調べたら3年前の1月だった。たしかあの後すぐに、旦那をバラした有閑毒婦の事件もあった気がする。
ゆうくんの事件の経過や動機を見返していたら、なんだかヴィクトリア朝時代に起こりそうな事件だよなあとか思う。妹は奔放てある一方、ゆうくんだけ家庭内はヴィクトリア朝時代の刑。
しかし昼に起きてウダウダ2ch見てる俺も夢がないな(´・ω・)y-~~ 選択肢や可能性があるうちは、夢だなんだと大仰に語れるもんだぜ。逃げ道もなく、分岐点もなく、終わりなき獣道を暗中模索で、精魂尽き果てるまで突き進まなければならない世界を選んでしまった身としては。
俺もお前もノーフューチャー! Helveltで会おうぜFreundにFreudin!
- 2010/02/10(水) 17:03:58|
- 未分類
-
| トラックバック:0
-
| コメント:4
子曰く、底辺まで下降し、そこから這い上がってみせた人間でなければ人の本性を見抜き、それについて肉感的な講釈を垂れることはできない→堕ちよ、さらば救われん。苦痛よりも凌辱を、偉ぶるなバカになれ。
ところで俺はいったいドコで道を間違えてしまったのだろうと思いながらも、変な横穴や天井裏、あるいは勝手口から、社会、性、文化、変態を語るような隠者になってしまったのだから、もう矯正のしようがない。
なんてことを、ふと考えてみた。過去を省みず、未来に媚びず、場の空気に退かぬ精神を身に付けると、主流を占めるいろんなモノがグロゲチョな感じに見えちゃうんだけど、まあそれも仕方ない。
この奇妙な感性を水路づけた時折々の師匠たちは皆、俺がグダまいたような感性の持ち主(しかも、総じて飲んだくれ)だから仕方がない。
子は親に似るとは良く言うが、それ以上に親しく指導を受けた恩師の流儀に、無意識的に染まるなあと思う。飲んで議論する際の思考の流れや、口癖、会話のリズム、笑い方などが、気づけば師(たち)と似ているのだよね。
- 2010/01/27(水) 21:53:27|
- 未分類
-
| トラックバック:0
-
| コメント:2

ここ数日、自分でも大丈夫か? と思うペースで、主に学術や批評を中心とした本を消費しているワケだが、それより前の数日間に渡り、物語や小説をガンガン読んでいたことや、ここ数日で大量に読了してきた本は軒並み、今ホットかつ執筆中の原稿に体系的に関わってるモンだから、スリリングにドライヴィングに読めるわなと納得。
ひと口に「本」や「活字」といえども様々なジャンルがあるわけで、空気を入れ換えるためにも適度にジャンルを切り替えることは大事だなと思う。
その他、南条あや『卒業式まで死にません』(どうも、売り方や持ち上げ方には何かと複雑な気持ちがあり、自発的に読む気にはならず、これを読むなら高野悦子『20歳の原点』や絶賛積読中なスティーブン・レベクロン『Cutting リストカットする少女たち』を読む)が1998年から既にweb日記として公開され、2000年に刊行ということを読んでいた本で知り、テキストサイトブームや『電車男』よりも先に、ネットでの文章表現と書籍化の可能性を先取りしていたことに驚く。凍結中なテキストサイト論を書く時は、前史で触れるわ→完全サイドワークで、積極的に時間を裂く気になれないから、誰か企画の手をさしのべて呉れ。
あと、先月31日に買ったipod nanoのイヤホンが逝った。イヤホンのないipodはブリキ缶だぜ! しかし、現行のnanoはイヤホン無しでも音が出ることに衝撃を受けた。
- 2010/01/25(月) 21:59:46|
- 未分類
-
| トラックバック:0
-
| コメント:24
最近、色々と動いています。主に現実世界で。まず、3月に「沼正三と天野哲夫-ある覆面作家の素顔を巡って」と題した「テクストとしての沼正三論」(あくまでも『家畜人ヤプー』論ではない点に留意)が、某大学の紀要に載ります。その話はまた追々。
それと、twitter発の新興メディア「.review」の方で、なにやら不可解な論考を数点書いていきます。多分、桜の咲く頃にはお目に掛けられるような段階まで精練できると思う。詳しくは
「.review」のサイトを。
blogの方の更新がまちまちなのは、いつも飲んだくれたりmixiやtwitterで遊んでいるというのも、ひとつの多きな理由のワケですが、普段、「日記」(この言い方は旧いかもだけど)を書く際、たいていの場合は外出先から携帯で書いているため(今日は珍しく早い時間に在宅)、酔っぱらっている時などは、ついぞ更新用メールの送り先をmixiのみにしてしまい、blogの方も忘れてしまうというヤツです。とはいえ、fc2のスパムコメの量が余りにも酷すぎて更新する気を失念してしまいがちというのも、また大きな理由の一つ。
本格的な活動に向けて、また移転を考えようかな・・・・・・とも思うのだけど、過去ログが結構な量を堆積してしまっているので、それをまとめて移住させるのはハッキリ言って面倒くさいので、どうにかスパム対策を施して、またぼちぼち活気づく更新をやっていこうかな、なぞと思うのです。
や、ほんとはね、日々「チ○コー!」とか「マ○コー!」とか、篠房六郎が『家政婦が黙殺』の「名探偵ドイル」並に、放送コードギリギリな、中学生が辞書の「SEX」という項目を引いて喜んでいるレベルの、「ねえちゃんとお風呂入ってる?」、「りかちゃんと勉強してる?」「『ヤ○ターマン、コー○ー、ラ○ター』って続けて言ってみ?」とか、そういった、スゲェどうしょうもない感じの日々を過ごしたいワケですよ。ワタクシとしては-でも吉屋信子の『花物語』に目頭を熱くさせる乙女心は残しておきたいのですよ。つまり、「ママは小学4年生!(くぱぁっ!)」っていう感じの、田丸浩&西川魯介&平野耕太みたいな、アンナ感じでリンリン感じでスンスンスンな感じ。
とりあえず、今後の動静については、また色々と逐一blogとかtwitterの方に載せていくかと思うので。ついでにスパム対策は何か良いモノがないもんかしら(´・ω・`)。
以下冒頭で述べた
「.review」のコンセプトを引用。同誌の方では随時、表現欲求が抑えきれない坊ちゃん嬢ちゃんたちの熱意を待っているし、JUNKさんの方は自身主宰する文芸系同人誌『Kulturetrieb』(今年の春か夏くらいから、本格的に動いていこうかと思いながら、相変わらず原稿もこないので凍結中)用の原稿だとか、毎月一回やっている
「表象ゼミ」(mixiコミュ)でまとめてきた資料を基にした、前衛的な論考を発表していこうかと。弾はある、でも撃たせてくれない! とウズウズしている諸子は迷わずこの祭りに乗るべし。
project「.review」
「失われた10年」から、さらに10年の歳月が経った。日本を覆う終わりの見えない不況は、少なからずメディアと知の世界にも影響を与えている。かつて分野を越えて情況を共有し、分野を架橋する機能を果たしていた雑誌は次々と廃刊になっている。残っている数少ない座席も既出の著名な書き手たちに占められている。それゆえ経験に乏しく、慣習を理解していない新しい書き手が割って入る余地は乏しい。
このような厳しい状況の中でも、新しいメディアが現れている。哲学者で小説家でもある東浩紀氏による『思想地図』、社会学者芹沢一也氏、批評家の荻上チキ氏による「SYNODOS」、批評家宇野常寛氏率いる第2次惑星開発委員会『PLANETS』、社会学者鈴木謙介氏がパーソナリティをつとめる「TBS文化系トークラジオLIFE」などは、その代表だ。分野も、対象も異なるが、共通するのは自分たちが読みたい、聴きたい情報を得るために、自分たちで場を作り上げていることだ。
翻って研究者の卵という私たちの立場を鑑みたときに、いまできること、すべきことはなんだろうか、と考えるに至った。一昔前には学会誌や商業誌以外にも、企業CSRやメセナの位置づけの中で、若手の登竜門といえる媒体が少なからず存在した。またかつては大学院、特に後期博士課程もそのような機能を有していた。少なからず、そのような媒体は雑誌とともに軒並み姿を消し、新しい場となりつつあったブログブームも一巡。徐々に一般に認知されるきっかけとなる場所がなくなりつつあるのが現状だ。
このような状況の中では、もはや新しい書き手が頭角を現していくための場を企業や既存媒体に頼り切ることは困難である。だとすれば、このような場を自らの手で作っていくことが、私たちにとってのリアリティなのではないだろうか。私たちは、問題の責任を誰かにおしつけることも、実現する見込みのない革命に期待することも、そして勝手に捏造された絶望の押し付けなど望んではいない。私たちが欲しているものは、冷静かつ正確に現状を見据えたうえで記述された処方箋にもとづく希望の言説だ。
私たちは、ここに project「.review」の開始を宣言する。
「review」とは、「見直すこと」、そして「再び見ること」という意味だ。敷衍すれば、「.」(dot)すなわちインターネットの上に、知と書き手と読み手の「再会の場」を作り出すとも捉えられよう。project「.review」は、あらゆる知と、まだ世に出ていないあらゆる書き手、そして、あらゆるメディア、そしてあらゆる読み手をブリッジするハブとなる場となることを目指す。
今、眼前に広がっている情況を、その最前線に立つ者たちの言葉で紡いでいく。そのうえで私たちのパースペクティブから見える「現在」を伝え、そこから新たな知とメディアの未来を作りあげていくことが目的である。
project「.review」は、次の形態で始められることになる。ウェブ媒体を通じて無償頒布される、主に現時点で無名な書き手を中心とする「.review β」と、既に商業媒体や学術分野で活動を行っている書き手による論考と企画を含む「.review Premium」だ。
「.review β」は、インターネットを通じて、ある一定の期限を設け、アブストラクト(概要のこと。500字)を広く募集する。分野、テーマは一切問わない。ポートフォリオも可能。アブストラクト提出の後、編集チームとのインタラクションを経て、論考(約10000字)もしくはノート(約4000字)に仕上げてもらう。新しい書き手の周知と媒体の宣伝を兼ねて、これらは随時無償頒布する。このように編集スタッフとのインタラクションは、形式を整えることに徹することになる。なお、ガイドラインについては後日、別途配布する。ただし、当然のことながら公共性に反するものを受けとることはできない。この判断は編集チームが下すことになる。また内容の真偽とクオリティ、剽窃等に関する責任は編集チームではなく執筆者に帰することになり、論考と執筆者の評価については読者と市場に委ねられる。
他方で「.review Premium」は、βの原稿からテーマに合わせて原稿を厳選、さらに再度公募する。βで公開されていたものは公開時よりさらに推敲していただくことになる。加えて既に商業媒体や学術分野で活動を行っている書き手による論考、企画を含む媒体となる。こちらはダウンロード販売、また、紙媒体での販売を実施する。「.review Premium」をはじめとするマネタイズをもとに、将来的にはイベントなども実施していきたい。もちろんマネタイズのあかつきには、執筆者に還元する仕組みを用意する。また、既存のメディアや媒体とのコラボレーション、スピンオフにも積極的に取り組んでいく。
既存の媒体をイメージする者にはこうした新しい形態に抵抗があるかもしれない。だが、それは過去の常識に囚われている。2010年代のインターネット上のストレージ容量は、事実上無制限。建築の言葉でいうところの「切断」を行う必要はない。まだ若い編集サイドにも当然「質」を見分けるだけの力量もない。スタートアップ・メンバーが持っているのは、狭い専門分野の知識と熱意だけだ。したがって私たちにできることは、エンパワーメント、それだけだ。
しかし、ポジティブに捉えれば、新規性ゆえに査読で弾かれてしまう論文や、ニッチなニーズに答える原稿も掲載できる。目指すところは「結果の平等」ではなく、「機会の平等」だ。幸い手軽に使える高機能なICT媒体が充実している時世でもある。一昔前には膨大なコストがかかったプロジェクトも、今では驚くほど低コストで実現可能だ。スタートアップのメンバーを中心に、twitterを介して出会った全国、いや、世界にも広がる仲間、そしてまだ出会っていない新しい書き手たち自身の手によって、あらゆる情報をブリッジするメディアを、まだ誰も見たことのない形で作ってみたい。その意味では、このプロジェクトの成否は参加者のコミットメントに掛かっている。あらゆるアイディア、手法、企画を随時アドバイスいただけると幸いだ。そしてなにより、コミットすることでこの新しい試みの一員になってほしい。
このようなプロジェクトは日本のtwitterからはほぼはじめての試みになるはずだが、私たちはこのプロジェクトの成功を確信している。このプロジェクトのために設定したtwitterのハッシュタグ「#commu2010」やRTを通じて、既に私たちがいただいたさまざまなな分野の多くの応援メッセージや後押しからも十分な手応えを感じている。
project「.review」は、2010年代を牽引する、理想と希望、若さ(そして、それゆえの無謀さ)によって支えられた社会実験であり、また情報化社会を背景とする現代の革命でもある。project「.review」が新しい書き手と新しい知、既存メディア、読者をブリッジするハブとなることを願っている。
2010年1月吉日
西田亮介
塚越健司
天野彬
淵田仁
- 2010/01/23(土) 20:24:02|
- 未分類
-
| トラックバック:0
-
| コメント:50